編集中記 【その75〜その83】
【その75】
遠足とは別に健脚会という行事もありました.各自弁当を持参して、中、上級生全
員が縦隊を組んで延々と歩く会です.今にして思えば誤った考えなのでしょうが、当
時は水をできるだけ飲まないで、運動したり歩き続けることを奨励する雰囲気があっ
たので、健脚会の小学生も、一滴も水を摂らないで目的地まで歩き通して、得意にな
っていたものです.元気に住宅街を往路一里.復路はさすがに疲れ、黙々と歩いてお
りました
現在では多数の小学生が列を組んで、住宅街を片道4キロも歩ける道は探すのが大
変です.また歩く意味も失われました.戦後十年当時は、水を飲まないで歩き続ける
訓練が必要と考えられていたのですが、今は、歩いたり自転車に乗る距離を縮め、事
故や事件に巻き込まれる危険を回避しなければなりません.子どもの命への直接の脅
威は、減少ではなく、増加しているように思われます----.これからの五十年、皆さ
んの夢をお聞かせ下さい
Jun 19, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その76】
少し脱線、するのではなく本線に戻ります.二十年も三十年も働けば、ほとんどの
人は自分の持ち分の第一人者になり、それが自信に繋がるのは分かりますが、中高年
の現役の中には、ごくごく一部でしょうが、自信のありすぎる人がいるように思われ
ます.経営に携わり、決定に参画する立場なので、周囲から畏れられ、それが押しの
強さに結びつくのはやむを得ないとしても、その勢いを「非会社の世界」に持ち込ま
れますと、普通の男女、特に引退されている人々は戸惑ってしまいます
中高年の現役の人々は、一度、経歴と肩書きと、会社での考え方と物言いを、こと
ごとく消し去って、裸の自分に向き合っていただけると助かります.そこには何が残
りますか.名声? 栄誉? 得意? 確かにそれらは現役の勲章ですが、現役を引い
た人間には意味のない過去ばかり.過去にこだわらなければ楽しめない人生では、あ
まりものとみなされても致し方ないと思います
子どもらの、希望と、歓びの声が聞こえてきます
再び寄り道を楽しみましょう
Jun 20, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その77】
遠足の次は運動会、ですが、もう運動会はバテました.我が子の運動会を含めると、
延べ何回運動会を見たことでしょう.30回? 40回? う〜ん、マンネリです.
自分自身の運動会も含め、特記すべき事項が思いあたりません.運動会の秀逸はやは
り幼稚園や小学校の低学年、ですが、健気な子らの精一杯の演技は、運動会も学芸会
も変わりなく、その歓びの表現は機会を別に譲ります
私がこの地に移った頃は、まだ蛇の姿がありました.近所の下り坂を自転車で走っ
た折、二メートルほどのゴム紐に飛びかかられて驚いたことがあります.青大将が私
の「攻撃」に反撃を試みたのです.危うく倒れるところでしたが、蛇も私も怪我がな
くて幸いでした
運動公園の浅い池にはヤマカガシの泳ぐ姿もありました.しかしどれも貧弱な個体
ばかり.とびきり細いヤマカガシは自転車の荷台の紐そっくりなので、子どもの恰好
のオモチャにされます
マムシは巻いたまま轢かれると、ボロと見分けがつきません.縞蛇はこの地では見
たことがありません.私は蛇は苦手ですが、その感情は敵意ではなく、恐れと、気味
の悪さと、離れていたいという相互不可侵の願いであり、子どもにオモチャにされて
いる蛇を見るのは胸が痛みます
白蛇が公孫樹の梢を這いながら消えていく姿も印象に残っています.この公孫樹は
黄葉の頃、狭い通学路の幅一杯に銀杏の果肉を落とし、強い臭気をまき散らすものだ
から、下校の子らは叫んだり走り抜けたり、靴で踏みつけて種を出したり、落ち葉に
足をとられて転んだりと、てんでんばらばらに遊んでいました.夕陽に映える公孫樹
の老樹、落ち葉の積もった金色の通学路、光の国の寸劇に、蛇も衣裳を凝らします
Jun 21, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その78】
公孫樹を通り越して、楢や楓の鬱蒼とした路地を進むと急に開け、幼稚園前の広場
に出ます.この幼稚園もまた砂地にあり、園舎がうなぎの寝床状に奥にのび、園舎と
ほぼ同じ形の園庭が南側に並んでいます.この辺りは灰色をした公園の砂場と違い、
明るい薄茶色の、きめの細かい砂なので、陽の当たる園庭では、寝っ転がって砂の感
触を楽しめます
夢の中、なのかも知れません幼稚園時代の自意識は.立ちどまる子も、まとわりつ
く子も、甘える子も、駄々をこねる子も、頬を膨らませる子も、自己を主張しながら
自己に縛られず、夢の中で無心に、楽しみ、悲しみ、怒り、迷い、瞳を凝らし、耳を
澄まし、懸命に生きているこの子らの心には、襞も影も見当たりません
Jun 22, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その79】
線路にへばりついている私鉄の駅の、下りホームは屋根なしでしたが、ハナイカダ
の徒長枝が背伸びしてホームにかぶさり、粉糠雨を遮ってくれました.ある土曜日に
この駅で、待てど暮らせど来ぬ電車に痺れを切らし、ハナイカダの葉っぱをしげしげ
眺め、造化の妙にため息をついた(!)
胸の厚みの倍もあるようなランドセルを背負い、大学生のような帽子を被り、幼年
学校のような詰め襟と、腿まる出しの半ズボン、黒い編み上げ靴の小学生を、ホーム
に入ってきた電車の乗客はどのように眺めていたのでしょう.鬱陶しいですね上辺の
意匠は.大きく踏み出すと内部からも外部からも孤立して、異端や異邦になりかねま
せん.しかし、帰属意識を確立させると心が霞んできます.他者の心が分からなくな
り、自分の心も薄れていきます.孤立はもっと危ういです.もがけばもがくほど底な
し沼に沈んでいきます.透き通るような澄んだ響きは、この底なし沼を突き抜けてみ
ないと、分からないこともあります
Jun 23, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その80】
自宅の最寄駅は小学校の隣の駅、ホームからせり出せば見える距離です.線路の脇
にも細い砂利道があったので、電車に乗る必要はなかったのですが、一時期、私鉄を
利用していた記憶があります
線路沿いには古い枕木を杭に使った柵があり、線路内には入れませんが、駅と駅の
間の、砂利道が線路の北側から南側に移る地点が、遮断機も警報機もない踏み切りだ
ったので、線路に耳をあて、車輪の音を聞こうとしたこともありました
踏み切りを超えると商店街の雰囲気が漂ってきます.いよいよ自宅の最寄り駅です.
自宅は駅から北へ徒歩十五分.駅裏には文人ゆかりの食堂.駅の横の、細い一本道を
百メートルほど南下すると片側一車線の主要街道、街道を横切ってさらに数十メート
ルほど南に歩くと国鉄の最寄り駅がありました.現在はこの辺り、地下鉄の終着駅で
始終渋滞していますが、昔は道路が今以上に狭く、肥桶を積んだ荷馬車に出会うこと
も珍しくありませんでした
主に勤め人が住んでいた昔からの住宅街、その手洗いは汲み取り式.柄杓で汲み取
った糞尿を肥桶に入れ、肥桶を天秤棒で荷馬車まで担ぎ、住宅街の後背に広がる畑の
肥溜めに寝かせ、肥やしに使っていたのが原因なのか、野菜には寄生虫がつきもので、
定期的な検便と、顔色に対する注意が欠かせなかった
母親は自分の兄と姉を、小学生のころ肺結核と肋膜炎で亡くし、戦前は自分も肺門
リンパ腺炎で長患い、戦後は父が軽い結核で半年、母が一年、私の兄は肺門リンパ腺
炎で六年半、不安定な状態を繰り返しましたが、戦後はお薬とお医者様に恵まれてい
たので、なんとか無事に乗り切れました(私も疝痛のため、中高生時代を通して、律
義にも季節の節目節目で、転げまわっていたことがありましたが、これは蛇足)
たまたま戦前に、問屋仲間の娘さんのご縁で、都内のあるお医者様を知るようにな
ったそうです.お医者様には、ご家族をお二人も亡くされたご不幸や敗戦が契機にな
ったのでしょうか、戦後はお金の問題は残りましたが、我々庶民も別け隔てなく診て
くれたそうです.占領下で「ある種の薬」を入手するには、特別なご苦労と危険もあ
ったとか.そのお医者様のご指示(というより命令)のもと、ウチでは父親が、家族
にも本人にも注射を打っていたことがありました.煉炭コンロでアルミ鍋のお水を沸
騰させ、ステンレス製の容器に入った注射器一式を煮沸消毒後、栄養剤は太く長い注
射器を選び、抗生物質は細く短い注射器を取り上げ、太股のやや内側をブスリとやる
のです.一つの針を消毒しながら何回も使いました.抗生物質はお医者様の指示を仰
ぎながらブスリとやり、私の場合は栄養剤の薬液を頻繁にブスリブスリとやりました
蒸留水?のアンプルの首をハート型のヤスリで切り落とし、注射針で吸い上げ、抗
生物質の小壜の、蓋のゴムの部分に突き刺して蒸留水を注ぎ、よく振ってから再び注
射針で吸い上げると準備が整います.カラフルな栄養剤のアンプルは、一度に何種類
も使うので、私もヤスリでこすり、首をもぎ取っていた覚えがあります.注射した後
は腿がしこり、足を引きずるのが常でした
素人の操作ミスによる事故や、素人の薬の濫用による副作用の危険があったのは事
実です.だが拙速による医療ミスよりも救いがあり、薬漬けによる副作用よりも諦め
がつきます.そして何よりも我々の家族にとっては、このお医者様が神にもっとも近
い存在だった(我々の家族だけでなく、待合室の患者のすべての方が、そのように話
されていたそうです)(悪質な病魔との戦いは、病人本人だけの戦いではなく、家族
全員がその幸福を質にとられ、病気と闘わなければなりません.特に幼い子が六年半
にも及ぶ治療を要する場合は、本人の苦痛を和らげるためにも、もっと幼い兄弟を含
め、家族全員の、協力と忍耐が必要であったのだと思います)
熱にうなされ、痛みにもだえる幼い子が、安心感で満たされる医師でした.豊かな
白髪、ふさふさとした灰色の口髭、指先も口髭も煙草のヤニで黄ばんでしまった内科
医の権威.ぐったりした二人の子を見下ろし、大人の量の薬液を注入して危機を脱し、
弱った体に点滴を施し、診察室で暫く休ませ、応接室でさらに寝かせ----.看護婦は
置かないご方針だったとかで、薬液や器具の手配も、ご自分お一人でなさいました
父が膵臓炎で苦しんだ夜分は、応急措置と抗生物質の指示を電話で受け、常備して
いた薬を投与して事なきを得、母の重篤の折は、都内からわざわざ駆けつけて蘇生さ
せてくれました.近所の医者の見立てでは、覚悟しなければならないと聞かされてい
たので、当時の感謝の気持ちは、とても言葉には尽くせません
聴診器を胸にかけ、ゆったりした問診と、丹念で丁寧な聴診と、力強い打診によっ
て、体内から発せられる「音」と「振動」を聴き取り、体の変調や異常を読み取った
瞬間に、診断が定まっていたように思われます.聴診器の感触と、黄ばんだ太い指先
と、お腹を強く押し込む手のひらの感触が、今でも伝わってくるようです
建物は少年探偵団の古びた洋館、占領軍のジープや乗用車も出入りした広い門.待
合室は応接間の造作と調度.ある種の薬は先生から直接入手.その他の薬はすべて近
くの指定薬局で、処方箋を提出して調剤してもらう必要がありましたが、薬剤師の応
答と調剤の手際が子どもの好奇心を満たしてくれたので、この薬局にも親しみを感じ
ています
昭和二十年代にも、医薬分業と、電話による治療の指示と、そして何よりも、心の
通った治療を実践されるお医者様がいらしたのです.その後四十年以上も経過した今
日では、物資も、医薬も、技術も、設備も、環境も、法律も、研究も、情報も、個々
の家庭の経済力も、当時とは比較にならないほど向上しているのですから、高額な支
払いを必要としなくても、心の通った医療が約束されているのだと思います
Jun 24, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その81】
駅前の商店街も思い出の深い場所です.車のすれ違いがやっとの道幅で、しかも当
時は車などまったく見なかったのですから、一年を通しての歩行者天国.ランドセル
を背負った子どもが道の中央をふらふら歩き、道の両側の店を互い違いに覗いても、
危険も苦情もありませんでした
先ず鰻屋です.食べさせる鰻屋ではなく、土間で鰻を裂いて竹串に刺し、店頭で焼
き、その場で売る魚屋のような造作の店の、魚篭に入っている生きた鰻と生きた泥鰌
が、釣りの好きな子どもを惹きつけました.鰻に針を突き刺し、包丁で開く手際は職
人芸です
鰻屋から数軒先は間口が一間にも満たない天婦羅屋.やはり店先に油の入った大鍋
をしつらえ、揚げ立ての野菜の天婦羅を買い物客に売りさばくお店です.当時の住宅
街では、御用聞きは見かけましたが、外食は珍しかったので寿司屋や食堂が二、三あ
るだけ.父に連れられて丼物や中華ソバを食べさせてもらったことがありましたが、
店内の雰囲気に不適合を起こし、麺も御飯も喉を通らなかった
この通りには日当たりのよい床屋があり、人見知りのひどい子どもでも気持ちよく
寝かせてくれました
床屋の向かいは何屋だったのでしょう.盆踊り用の下駄を買ったのだから下駄屋?
正月に凧を買ったのだからオモチャ屋? 今でいう伝統工芸のようなお店だったのか
も知れません
お店の話は切りがないので切り上げます.さらに歩いて右に折れ、汚れた小川に添
って進むと【その40】の夜道に出ます.ここで編集中記は無限にループ、世界一長い
読み物になっては困るので、夜道の手前で左折、パン屋から交番、駄菓子屋、三軒だ
けのマーケットを経由して住宅街に入れば、もう我が家です
Jun 25, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その82】
神田の店が東京大空襲で被災したとき(焼け残ったと思っていたのですが、焼け跡
には金庫が一つだけ残っていたそうです.敗戦後はバラックで営業を再開、現在の建
物は昭和24年の再建)祖父が疎開していた住まいがその後の我が家.両親が当初住
んでいた家は母が疎開する際、町内会から「無人は危険」と指摘され、強制的に、二
束三文で売却させられたそうです.母の疎開先も私の思い違いで、兄弟の多かった父
の、郷里そのものではなく、紹介された遠くの農家.従って河川の土手で蕎麦を栽培
しながら飢えを凌いだのはよくある話.収穫は、両手にのるだけの量がやっと----
祖父の一家は裕福であっても、我が家は、母も栄養失調になる程度の裕福さ、を脱
け出した直後の肋膜であり肺門リンパ腺です.お金を稼ぎ出せなかったら、家族の何
人が生き残れたでしょう.家族のために、つまりお金のために、親は夜叉に、家庭は
修羅場に、なることがあったとしても不思議はなく、また程度の差はあっても、敗戦
直後の人々は、同じように必死であったのかも知れません.その思いは一つ.「権威」
のために、ではなく、国家のために、でもなく、我が子のために、であったのだと思
います
Jun 26, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その83】
医師が博士であろうと名誉教授であろうと患者には関係ありません.医師の戦前の
価値観も私生活も、過去は一切関係ありません.必死な親にとって、医師が恩人であ
るか他人であるかは、その医師が我が子を診てくれるか否かだけに尽きています.老
いた医師の現在の行為、および行為の裏にある現在の思想だけが問題なのであって、
若い母親には、老いた医師の過去の栄光などまったく無意味です
過去にすがって生きるのも自由です.しかし人間は自分を欺き通すのがうまくあり
ません.自意識は現在に立つのですから、現在の自分に「過去」を認めれば、人生の
最終段階で、意識も意欲も体力もしっかりしている段階の老後に於いて、喪失や虚無
に陥る人々がいても不思議はありますまい.自分の現在(つまり老後)に「過去の有
効性」を認め得意になれたとしても、「別け隔てなく一人一人を直接診る」(これが
老後の評価の、つまり一個の人間の最終的評価の、唯一の規範である、と私は勝手に
決めています)という選択をなさない限り、敬愛は得られないと思います
過去を誇って自足しながら散策するのか、あるいは我が子の養育というありふれた
行為をなしたが故に人生の権威として、再び普遍的「我が子」のために(自由と沃野
のために)力を尽くし、なお遠く及ばないことを悔やみながら散策するのか----、自
由は不自由ですね
Jun 27, 1997 plnssnr@reverie-prmnr