編集中記 【その84〜その91】
【その84】
二歳から小六まで住んでいた我が家は私道の奥です.小六の時は都内の学校に通っ
ていたので視線も外に向きがちですが、小五迄の記憶は豊富にあります
瓦屋根のついた観音開きの門は武家屋敷を思わせますが、これは実はこけおどしで、
門の閂は、家屋側ではなく私道側につけた方がサマになる、というほど我が家は粗末
で湿っぽかった.家が建つ前は牡丹杏の果樹園と、幅半間ほどの小川があったとかで、
南向きの庭の東西に走る水溜まりで、メダカをすくったり、かい掘りをして遊んだ記
憶もあります
ここは祖父が神田から疎開するために購入した「疎開者向け建売住宅」、というの
をご存知でしたか? 昭和17〜18年の頃はこの地のように、農家が「土地」を潰して、
都内在住者向けに、通勤可能な疎開住宅として販売した物件があったそうです.両隣
りも同じ農家の建売住宅、のもっとも狭い一軒を祖父が選んだのは、別のよりよい立
地に娘夫婦の住まいを手配する必要があったのと、富裕であったとは言え、やがて引
き払うと信じ、無理をしなかった訳ですが、親心は裏目に出て、娘夫婦は家を手放す
羽目になり、田舎に再疎開した母は食べる物にもこと欠き、戦後は私道の奥の、湿気
の強い土地に住むことになった----.しかしこの地は、私には掛け替えのない我が家
であり、今でも懐かしい故郷です
庭には牡丹杏が一本、幹が折れたまま立っていました.この牡丹杏、すももももも
の例に漏れず、春になると桃の花が咲き、鶯が訪れ、やがて実をつける大切な食糧倉
庫、なんであんなに酸っぱいのかと、文句も言わずに食べました
隣家との境には茂ったグミがありました.グミは低木ですが、このグミは登れるほ
どしっかりしていたので、どの家に属していたかは分かりませんが、熟した実を登っ
ては摘まみ、また同様に所属不明ということで、旬のイチジクにも困りませんでした
Jun 28, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その85】
サザエさんの玄関を上がると、お道具が天井まで詰まっている開かずの間、つまり
子どもの秘密の遊び場です.開かずの間は南西の角にあったので、日当りが良すぎて
お道具には不向き、人間様には最適なので、お道具に限りなく愛着を持っていた祖父
の死後、値打ちを知らない両親が、「鑑定団」に依頼することなく処分した経緯も理
解できます
玄関前の廊下を----、この家は部屋の前に廊下があったので、部屋も風呂場も手洗
いも、廊下を通って出入りすることができました.また庭に面した各部屋には、障子
と縁側とガラス戸と雨戸があったので、障子を開けたからと言って、庭に転げ落ちる
心配はありません
開かずの間の隣りは来客用の六畳間、北側には台所、風呂場、手洗いが並び、客間
の東に同じ広さの茶の間が続き、その奥の南東の角が八畳間の寝室です.茶の間と八
畳間は襖で仕切られていましたが、八畳間には茶の間に接するように、子どもの夜具
が敷いてあった
三歳の頃から就学後までの六年半、加減を見ながらとはいえ、寝床に縛りつけられ
る日々が続いたら、子どもは荒れるのが自然です.しかし結核性の場合、それも敗戦
直後の食糧事情では、表で飛び跳ねることを許したら、とても無事には済みません.
自由に焦がれて荒れる兄と、ひたすら平安を祈る弟と----.母は下の子を抱きしめな
がら、いつまでも体をゆすっておりました(母が疎開先から引き上げたのは敗戦の二
年後ですが、母と下の子の栄養失調も長引き、私は小四になっても、まだ幼児の歯並
びであったとか)
バブル期に、土地を買い漁った者や買い漁りを焚きつけた金融機関は、今になって
エライ思いをしているのでしょうが、反対に当時は、預金封鎖の噂が立った直後に土
地や物資を漁った者が、うまい思いをしたそうです(祖父は変わり者だったので、買
い漁りを頑に拒み通した----).また、預金の一次封鎖は、新円で細々と下ろすこと
ができたのですが、二次封鎖は、財閥解体の対象になったY銀行の場合(祖父の一行
取引先)、他の銀行が比較的早く引き出すことができたのに対し、その後三年近くも
下ろせなくて、激しいインフレの時期に明暗を分けたそうです.因みにこの点も今は
逆で、銀行も保険も財閥に匹敵するような会社でないと、老後のための貯えさえオチ
オチ預けてはいられません
ハスに構えながらも十分に楽しんでいた、これが私の高校時代ですが、その楽しみ
の一つがY財閥の一族のY君との交友ですから、縁は不可思議
Y君のお父様の、生業のリサイタルを手伝ったり、Y君の所属していたプロの交響
楽団をタダ券で鑑賞したり、千駄ヶ谷の体育館で演じられたボリショイサーカスを、
太鼓のバイトのY君のサービスで、なんと楽隊の横から----サーカスの舞台と楽屋の
間に、出演者が出入りするカーテンの仕切りがありますが、その出入り口の真上に楽
隊が陣取り、演技の進行を見ながら演奏したり効果音を挿入する、その最前列の右翼
に椅子をあてがわれ、ボリショイのサーカスや奇術を、真上の「真裏」からつぶさに
見られたのですから値千金
中学時代はあまり記憶がありませんが、公立高校の時代はルンの二乗.高三の時は
半病人だったので重役通学を強いられましたが、それでもまあ、よく遊びました.ま
ず男女のスキー旅行.私は硬派だったので、男女布団を同じにしませんでしたが、男
子は私が、女子はMさんが中心になって、年末から春までのスキーバス.夏場は昼休
みのたびに、学校から無料無断でプールを借り受け、無人の室内プールで水平の巧み
なH君と毎日のように水遊び.休みは北青山の都営アパートにN君を押しかけ、五人
による季節折々の鍋と寝泊まり.この五人は、名古屋ではU君の親戚に泊まり、佐賀
ではH君の里に逗留----疝痛の発作が治まるまで、皆には予定通り、熊本大分を観光
してもらい、風通しの良い客間で数日間、寝かせていただきました----など、今のコ
ギャル連に比べても、引けをとらないほどの遊び方.つまり家で問屋を手助けする以
外は塾など見向きもしないで、徹底して青春を謳歌しました
やる気になれば学問など独学でも出来るものです.才能があれば、それこそ枠組み
に縛られる必要はありますまい.つまり何処であっても実力は発揮できる、というこ
とです.しかし高校の三年間は二度と再び訪れません
Jun 29, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その86】
再び故郷に戻りますが、その前に「馬力」の話.敗戦後しばらくしてから、母が疎
開先から戻る時、父の郷里に預けてあった家財用具を運んだのが馬力、馬力とは馬を
つないだ荷車のこと.人間でも引ける程度の荷車に、家財を積んでもまだ空きがあっ
たので、薪を一杯積み上げて、富士から我が家まで届けてもらったそうです
父のすぐ上の兄の子、つまり私の従兄弟は、バブル直後に都内の事業所用地を相続
した結果、重税を払えないので、事業所の土地と建物を売却してなお足りず、田舎の
土地も一部処分、都内の事業所用地で営業していた生業の会社を清算、母が疎開先を
去ってから五十年目に、還暦の若さで富士に引き上げましたが、その折はディーゼル
トラックが現代の馬力
富士山の裾野は広大です.東海道の馬力に頼んだのでしょうか.千本松原から三島
を通り箱根を越え、小田原から二宮、大磯、平塚、藤沢、そして横浜、川崎、大森、
品川----.馬力が我が家に到着した日、両親も心底からほっとしたのだと思います
Jun 30, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その87】
我が家の私道は、2トンのロング車1台程度の広さしかありませんでしたが、子ど
もの感覚では、石蹴りとビー玉が同時にできるほど広い空き地.空き地の片側は焦が
した板を段違いに重ねた板塀で、腰から下は子どもなら潜り込める荒い格子、なので、
誘惑に応えて潜り込み、もう片方の塀は覗き込む隙間もない竹垣なので、勢いよく駆
け登らないと越えられませんが、建物側には都合よく足がかりになる桟が棕櫚縄で止
めてあり、羽根やボールを回収する必要から頻繁に越境を繰り返しました
押し売りに入り込まれると凄まれたりして厄介です.殺気立った形相に変わり、巡
査に連行された押し売りもいたので、門には閂をかけ、木戸には木製の差込錠、玄関
のガラス戸には真鍮のねじ込み錠、台所には真鍮のフックと、その気になれば子ども
でも破れる施錠でおまじない、のために親を呼び出すのが煩わしく、遊びの出入りは
我が家の板塀をよじ登るのが日課でした
塀をよじ登ることのできない大人は、木戸の隙間から針金を差し込んで、木の錠を
差し込んだり引き抜いたりしましたが、これはまさしくコソ泥の手口.それでも空き
巣が避けたのは、我が家のみすぼらしさ故の天恵です
塀登りを咎められた憶えがありません.子どもの遊ぶ時間や遊ぶ場所には大人の姿
を目にしなかった.大人は子どもの遊ぶ世界に、干渉する暇も必要もなかったのです
Jul 01, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その88】
我が家から5〜6軒歩いた角に、野草の繁る三角の公園がありました.この三角公
園をホームグラウンドにするベーゴマ遊びのグループが、ウチの武家屋敷門にやって
きたことがありました
ベーゴマ遊びとは、ブリキ製のバケツにゴム引きの雨合羽をかけ、合羽の上に力の
限りベーゴマを投げつけ、駒の回転力で敵の駒をバケツの外へはじき飛ばし、駒を獲
り合うゲームですが、縁をグラインダーで鋭くされたペチャ駒の、はじき合う音と火
花に、子どもの態度も険を帯び、幼い子の出る幕はありません
ペチャは禁止、ついでベーゴマも全面禁止、という大人の声が聞こえるようになっ
て「賭場」を見かけることはなくなりましたが、替わりにメンコが盛り返し、手垢で
黒光りしたメンコが地面を覆うようになりましたが、大きい子に獲られるのが落ちな
ので、やはり仲間には加われません.となると残された賭け事はビー玉の獲りっこで
すが、こちらは力より技が効き、しかもガラス玉そのものが綺麗ということもあって、
よそ者に荒らされない限り、我が家の空き地で人気を馳せたゲームの一つ.他に五寸
釘を地面に投げつけ、刺さった跡を線でつなぎ、既に引いた線に触れないでどこまで
長くつなげるか、も一時盛んになりました
しかし資質の違いか好みの差か、この種の遊びはチマチマしたように思えて、私に
は長続きはしませんでした.かくれんぼや鬼ごっこの方がよかったし、三角公園での
ゴロベースの方がもっとよかった.あるいは住宅街の背後に広がる緑地帯で、釣りや
虫捕りや探検する方がもっともっと楽しかった.それは今の子も同じだと思います.
資質や好みの違いはあるでしょうが、ゲームセンターやパソコンよりも、もしその機
会があったとしたら、チマチマした遊びよりも自然を駆け巡る方が素晴らしい、と思
う子もたくさんいるのだと思います.しかし大都市圏では、その種の環境は過去のも
のとなりました.今の子どもは、自然と遊ぶ開放感を知りません.仮に知っていたと
しても、それはお金をかけて体験する開放感、つまり特別に企画された開放感であっ
て、「解放された日常」とはほど遠いものだと思います
Jul 02, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その89】
偶々私は、少年期から青年期の間に、緑豊かな住宅街の生活と都心下町の生活を経
験したので、ある程度、双方の長短を理解していると思います.これまでの「編集中
記」では主に前者が中心だったので、私の都会生活の象徴である高校時代についても、
思いつくままに書いていきます(やはり事実ではなく心象なので、時間と出来事の分
離合成を自在に行います)
サラリーマン生活の長い人が自宅を売り払って勤務先で寝泊まりし、配偶者も子ど
もも動員して仕事に励んだら、一家の裁量所得は増えませんか? 勤めではなく自営
業であった場合、そして自宅も店舗も事務所も倉庫も一個所に集中して夫婦がフルタ
イムで働いたら、今のコンビニとは違い、成長期の問屋では金銭的余裕が生まれて当
然です.無論私も、バイトに精を出す大学生程度の働きはしていたので、それなりの
見返りもありました
部屋は3室.応接間には世界的大商社の繊維担当や、新宿に拠点をもつ専門店チェ
ーン、また紡績会社や生地屋や同業者が訪れていたので、襖一つで仕切られていた隣
りの住人は大迷惑.応接間の隣りはPタイル張り.屋根裏の倉庫が落ちないように太
い鉄柱が3本、部屋の真ん中にありました.木製二段ベッドが1つ、事務所用木製机
と事務椅子が2組、そして箪笥と食器棚兼酒瓶置き場.この部屋は繁忙期になると商
品が山積みになります
さらに襖の向こうには茶の間兼両親の寝室.それに台所が当時の居室の全容です.
戦前からこの地に親しんできた大人には、職住一致がむしろ住みやすかったのかも知
れません.しかし私は今でも武家屋敷門に未練があります
店は都電の駅前でしたが、これがまた頭痛の種.朝一番の、あるいは人通りの絶え
た夕食時の、車輪の金属音がいかに不快であったかを知っていたら、都電に郷愁を感
じることはありますまい.都電廃止に喜んでいたら、今度は営団日比谷線の地下鉄工
事.当時の掘削機は捻じ込み式ではなく頭から打ちつける方式だったので、耳栓など
役に立たず(衝撃音に加え建物全体が絶え間なく振動する)高校の勉強も受験勉強も
とても無理、という御墨付をいただきました
Jul 03, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その90】
商家での最大の遊びは家の手伝いでしたが、世間では手伝いを遊びには含めません.
では次は、となると映画です.最寄りの映画館は神田駅ガード下の成人映画しかあり
ません.しかし高校生は立ち入り禁止なので、さらに繁華街を探すと、上野か銀座が
目につきます.ですが上野は映画館の数が少なく、上映される映画の種類も限られて
いたので、行きつけは銀座周辺.つまり京橋、東銀座、銀座、有楽町、日比谷のロー
ドショー館が守備範囲
日曜の最終上映時間が狙い目です.当時はこの時間に入館すると、どんなにヒット
していた映画でも先ず自由席に座れました.早い夕食を自宅で済ませ、行きは電車で、
帰りは徒歩で、観てきたばかりの映像を反芻し、感動に浸り、火照りを冷ますには、
銀座から神田までの散策が丁度よい距離です.特に当時は、日曜の時間が時間なので、
車も人通りも絶え、一人中央通りを行くと、街灯が気だるさを増し、虚無の気配が忍
び寄り、街の表情が消えていく、中を歩くことに頽廃的な喜びを覚え、ますます歩み
を遅らせると、店に着くのが零時を過ぎることもありました
店の者を起こさないように入口を開け、階段を上がり、Pタイルの感触を確かめな
がら、今夜の壜を引き寄せる----
最も激烈な痛みは中学3年?の時でしたが(中学の記憶は嫌になるほど乏しいです)
この種の痛みは鎮痛剤も吐き気の原因になり、吐くとさらに痛みが加わり、寝床では
足りずに、畳の上や台所の床を転げまわる他に、身の処しようがありません.七転八
倒を数日繰り返した後に、私の思いついた療法は、全身の力を渾身の力で抜いてクラ
ゲの気持ちに感情移入する、以外に当時は、痛みを和らげる処方はなかったようです.
中学生に「強い鎮痛剤」を施すことはできないのですから
水分の摂取が必要である、と言われても若い頃ですからお茶をガブガブとはいきま
せん.酒精入りの水分はいかが? とは誰からも言われませんでしたが、何故か民間
療法は効を奏し、痛みが再発しても、転げまわる痛みから、のたうつ程度の痛みに軽
減できました
体質的には弱い方なので、一生の予定量を超えたと自覚した今から七、八年前に、
酒精の摂取をやめました.今の適量は麦酒5本です.えっ? 多いですって.いやい
や、一年間合計の酒精摂取量です
早朝にランニングする心地よさを選ぶか、夜ごと夜ごとの酒宴を選ぶか.一日は24
時間に限られますから、二者択一の答えは明解です.因みにお酒の渇きの大部分は水
分の乾きと同じである.これが持論なので、お酒を呑みたくなったら、おいしいお茶
をガブガブ飲んで、大した苦労もなくやめられました.お酒をやめてまで走る必要が
あったのか? 都心を走るつもりはありません.爽やかな早朝に澄んだ緑野を、一人
で無心に走るのが、必要ではなく好きなのです
Jul 04, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その91】
東京の神田に住んでいた私の、冬の日曜毎の運動種目がお分かりですか? この地
に移ったのは中一の時であり、しかも越境していた小六の延長で、中学の通学区も別
になり、この辺りには顔見知りがいないのですら、団体競技は望めません.おまけに
運動施設は皆無、野球の許される空き地もない、となったら梱包と自転車配達が運動
であってもおかしくありません.しかし荷造りは冬に限らないので除外されます.正
解は雪国のスキーです
日曜の早朝、ナップザックにスキー靴と肌着を入れ、普段着のままスキーを担ぎ、
神田駅から上野に出て、越後中里の往復切符と急行券を買えば、座ったまま九時過ぎ
には目的の駅に臨時停車できます
越後中里のホームはスキー場内にあるのと変わらず、駅前でスキー靴に履き替え、
ロッカーにナップザックを預ければ、その場からゲレンデを登っていくことができま
した
前日からの泊まり客で、また当時は設備が貧弱だったので、休日のリフトは長蛇の
列、並んでいたら滑る時間がなくなります.従って緩い坂は滑って登り、きつい坂は
スキーを担いで登り、一気に滑り降りては再び登る、ことを何回も繰り返すともう帰
る時間です.急行を1本逃すと後が面倒なので、猛然と滑り降り、駅のロッカーから
ザックを引き出すと、タイミングよく列車が到着、スキー靴のまま乗り込みます
3時過ぎの急行に乗ると、混雑してエライ目にあいますが、1時台の急行だと貸し
切りです.日の出とか言いましたか、修学旅行専用列車.臨時の急行はあの車両の転
用だったので、始めて乗ったときは少し驚き、その窮屈さに二度驚き、暖房の効いた
ボックスを一人で押さえ、濡れた肌着を気兼ねなく取り替え、手足を伸ばしてうとう
とすると、先ほど滑っていた感触が蘇り、心地よい疲れと、幸福感で満たされました
Jul 05, 1997 plnssnr@reverie-prmnr