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編集中記 【その92〜No.102】

【その92】

  高校は傾斜地を削ったような敷地にあり、コンクリートの校舎とコンクリートの校
庭、体育館、跳ね板と飛び込み台のある室内プール、屋外弓道場、斜面の一角に小規
模な緑地、斜面の上には狭い土の運動場、が主な施設

  学校の最寄駅の、狭い道を入ったところに中華食堂や甘味処があり、土曜のお昼や
平日の下校時の、空腹を満たすために何度となく寄りました.熱々の湯麺に汁が赤く
なるほど辣油をかけ、汗だくで麺をすくい、余さず汁をすするH君を見ていると、私
まで幸せな気持ちになります.招かれてご馳走になったこともありました.お皿に盛
ったフライや野菜が、私が普段食べている量の優に二倍はあり、とても食べ切れない
事情を説明して、H君のお母様に納得してもらうのに一汗かきましたが、一家の大ら
かさに救われ、私も肩身の狭い思いをしないで済みました

  駅前にはお菓子会社の経営する喫茶室があり、そこで注文したホットケーキが生ま
れて始めて口にする食べ物なので、添えられた液の中身と使い方と、重ねてあるケー
キの切り方に困ってしまい、訳もわからずにぶっかけて切り離し、恐る恐る食べてみ
た最初の一口が、今も記憶に鮮明です.その折、珈琲を飲んだかどうか?  コカコー
ラは中学の頃、勧めてくれた人物も憶えていますが、珈琲を初めて飲んだのは何時だ
ったのか?

  参考書か運動用具かを探すために、小川町を駿河台方面へ歩いた折、歩道で蒸籠が
もうもうと湯気を立てていた、その誘惑に抗しきれずに店に入り、いや、私は蒸籠の
中身が何だか知らなかったので、やはりH君の「指導」だったと思いますが、熱いお
茶にホッカホッカの餡饅を初めて食べるそのうまさ.その時の饅頭の味と蒸籠は、そ
の後何回も夢に現われましたが、残念ながらこの店は、既に小川町から消えています

  磯辺という言葉やあんみつという食べ物を知ったのも高校時代、雑煮や餅を、甘味
処で食べられることを知ったのも高校時代.フランク永井をオッカケていたO君と銀
座の「アシベ」で会った帰りに、老舗で食べた御膳汁粉のとろける味は、その後各地
を探しましたが、未だに再会することができません(急に抹茶が飲みたくなりました.
ご一緒にいかがですか?)
                                         Jul 06, 1997  plnssnr@reverie-prmnr


【その93】 食べ物の話のついでにスキーに寄り道します.やはり高校の頃、同学年の中から口 コミで仲間を集め、男女でスキーに出かけたことがありました.普段は硬派の建前と シャイの本音から敬遠していた女の子、と向きあってもスキーになると心が弾み、列 車の座席でも楽しい会話、をひと休みにして遅い朝食.MさんやYさんに頼んでおい たお弁当は、その彩りだけでも豊かな宴です 実は鶏肉が食べられなかったのですが、塩胡椒で味つけしたローストとおむすびの 取り合わせが絶妙だったので、少し考えてしまいました(少年の頃、自宅とは異なる 食生活を見聞きした時、考えてしまうことがありませんでしたか?)(私の初めての 空揚げは、学生の頃アメリカを旅行中に食べたケンタッキー・フライドチキンだった と思います.60年代の、それもある特定のお店のランチだったので、現在の日本の味 や盛り合わせとは大分違っていましたが、アメリカ旅行で食べたランチの中でもケン タッキーは、帰宅してから皆に吹聴するほどうまかった) 一人で出かけるスキー場では、ラーメンや豚汁定食の買い食いだったので、うまい と感じても侘びしいお昼でしたが、女の子が用意してくれた昼食は、パンにバターに チーズにジャムに、ハムにソーセージに野菜に果物、が籠や器に囲まれ、他のスキー 客の羨望の的でした ゲレンデの最上部に達した折に、腕は私よりヤヤ上の、と今は認めざるを得ません が、Mさんが渡してくれた飴玉も、生まれて初めて知った甘露や味覚.しかし雪焼け した黒い顔では、赤くなっても分からなかったでしょう Jul 07, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その94】 当時は蔵王が私の最も愛したスキー場です.メンバーの調整がつかない時は、高校 生一人で宿泊したこともあります.傷があると飛び上がってしまうほど沁みる硫黄泉、 日焼けも瞬く間に白くすべすべの肌、にはなりませんでしたが、効き目の良すぎる温 泉街の階段は、細く入り組んで滑りやすく、その一角の肉屋でジンギスカンが食べら れたのですが、一人で食べるには多少勇気が要りました リフトを乗り継ぎ、パラダイスゲレンデに到達すると、当時の平日はほとんど人影 がなく、真っ青な空に霧氷が映え、幻想の世界にうっとりします.先の行程がなけれ ば、2時間でも3時間でも見惚れていたと思います.しかし遅くなると地蔵山山頂は 危険です.リフトをさらに一本乗ってから、樹氷原をロープウェイ山頂駅まで黙々と 歩くと、距離はわずかですがこの先は冬山です.装備を点検し、気持ちをぐっと引き 締め、山頂をめざします スキーを担いで登るだけの価値がありました.この眺望のために私はスキーをしま す.家族に楽しんでもらうスキー旅行は別ですが、私一人にとっては、滑るだけのス キーは過去のものになりました Jul 08, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その95】 失敗もあります.信州に単身で出かけた折の話です.今日は「上」まで歩こうと決 め、最後のリフトを降りた時は晴天だったのですが、風が強く気温が低く、それでも 決めたのだからと不安を打ち消し、尾根を歩き出した途端に烈風に襲われ、寒さに震 え上がってしまい、前にも後にも一歩も動けなくなりました 氷上からはみ出した岩にしがみつき、半時間ほど風の呼吸をはかり、地形を見定め、 吹き飛ばされたら命がないと覚悟を決め、体を横たえたままスキーの革帯を締め直し、 体を起こした瞬間、烈風に煽られたので、恐怖で腰が引けたら助からなかったかも知 れません.思いっきり体を伸ばし、広大な眺望にすべてを委ね、空中に飛び出すよう に岩を蹴りました 開き直りがよかったのでしょう.必死で滑った数呼吸後に、氷の斜面に投げ飛ばさ れましたが、滑落の方向と勢いがゲレンデに向かっていたので、そのまま急斜面を滑 り落ち、ゲレンデの防護柵に体を打ちつけて止まることができました 風の強弱にかかわらず、馬の背状の尾根は雪が凍結し、スキー靴やスキーで歩くこ とはもともと無理.さらに尾根の両サイドは凍った壁が谷まで続いていたのですから、 気温が上がり、尾根の凍結が緩んだ状態にならない限り、滑ることはできなかったの だと思います.烈風が無謀な行為を阻んでくれた、と言えないこともありません Jul 09, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その96】 安上がりで座席の確保が楽、またビールを飲む年頃ではなかったので手洗いにも困 らない、などの利点からスキーバスも頻繁に利用しました.神田には、N君の運動仲 間で一年後輩の、親族が運営している非営利のスキークラブがあり、貸し切りバスが 埋まらないとかで臨時に入会させてもらい(頼んだというよりバスのレンタル料の都 合から頼まれた?)スキー教室に参加したこともありました.それまでにもスキー教 室の経験はありましたが進歩が遅く、このクラブのお陰で多少技術が上向いたことは 事実です.しかし結構厳しかった 今回は「上級」を目指している仲間の集まり、ということも知らなかったのですが、 参加者全員がある時は横並びに、ある時は一列に、一体になって滑るので、転倒して も寝ている暇がなく、斜面がきつくても臆しているゆとりもない 指導員や会員(社会人と学生)は親切で、事故のないように気遣ってくれましたが、 私はモグリですから化けの皮がすぐにはがれ、たちまち顎が出てしまい、技量の未熟 と体力の限界から、試験の前日には滑るたびにコケる始末で、迷惑にならないように と見学コースに切り替えました.しかし高校生の頃は体がガタガタになったと思って も、無理が臓器に障るなどとは夢にも思わなかった 今、走り込んでいる体力とは、風化して弾性の衰えたゴム紐を、一杯に伸ばし切っ た状態です.高校当時のスキークラブでの消耗は、一晩眠れば回復し、翌朝には再び やる気の出るような疲れであり、バテたその瞬間でも、心臓への影響を心配する必要 はなかったのですが、現在の、毎朝8〜12キロを走っている体力とは、降雪などで 走れない日が続けば体調が崩れてしまい、調子がよいと思って距離を延ばせば、次の 日から動けなくなる脆さをはらみ、常にゴム紐が切れる危険と隣り合わせ、故障と崩 壊の狭間で辛うじてバランスを保っています Jul 10, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その97】 幼い頃や高校の頃の記憶を解きほぐしみると、やはり今の自分の身勝手が、つまり 大人の身勝手が目につきます.まあ、十人中九人までがそうでしょう.いわく「勉強 しなさい」 自由にさせていると思っても、結構縛りつけてきたことにも気がつきました.昔の 自分のような気ままを許したら、先ず、落ちこぼれてしまうでしょうから でも、そのように教育しそのように縛ってきた我々の子どもが、今の我々の年齢に なったときに、どのような夢を描けるか----.政治に失望し経済に不安を感じている 状態が、我々の晩年だけで済めばよいのですが もう我が子は大人だ! その通りです.大人は勝手に大人の責任を果たせばよいの です.しかし「現役の大人」は夢中です.皆さんも現役の頃は夢中ではありませんで したか.現役時代には気づくことの出来なかった「何か」がある? あるいは手を染 めることのできなかった「何か」が、さらには心ならずも侵してしまった「何か」が、 大人の現役時代にはあったのだと思います.それを幼い子や高校生に押しつける? 上の与太は自分に対する気つけ薬です.再び寄り道に励みましょう.その前に 私は登山の経験はありませんが、社会に出た頃は一時ハイキングに凝り、主に一人 で、時には友人と、休日のつど奥多摩の山々を歩き、五万分の一の地図を塗りつぶし ておりました.しかし高が奥多摩と思っていたところ、逸れると危険なコースもあり、 今日は何キロ踏破などと無茶をやると、想像以上に疲労することも知りました.大体 ハイキングの動機が、山を愛でるよりも二日酔いを吹き飛ばすためだったので、余裕 もなく、自然に立ち消えになりました 再びハイキングや沢歩きを楽しみたいか? わかりません 再びスキーを担いで雪山を楽しみたいか? 気持ちはあります 体力はまあまあですが、中高年の場合は、内臓や循環器の故障も考えておかなくて はなりません.万一故障が突発した場合、皆に迷惑をかけてしまいます.気持ちだけ であれば、東北や信州に住み替えたいとさえ思っています しかしもう私は十分に楽しみました.もし私にその余裕があるのなら、その原資は、 私の子や私の孫に与えてやりたいし(残念ながら私の力不足で、私の子らはゲレンデ スキーを何度か経験しただけで、「構築物や雑踏のない」霧氷原の素晴らしさを知ら ないまま成人しました)、子が独立したのなら、「素晴らしい自然環境のもとでの教 育」に役立てたい、とこれもまた想うだけの話です Jul 11, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その98】 小六および中学のプールは生徒が多すぎて芋の子を洗う状態だったので、泳げない 私はプールサイドの水パチャで授業をくぐり抜け、それ以前は学校にプールがなかっ たので、高校入学時は混じりっ気なしの金槌でした.おまけに小学生の頃、伊東の海 水浴場で番頭の○さんに抱えられ、大人の背やっとの深さで、待ってましたとばかり 大きなうねりに呑み込まれ、海水を体内一杯に溜め込んだ所を、親戚のSさん(は若 い従業員だったのですが、私が大学に入った頃はすでに故人)に助けられ、その時の 潮味と海中の感触が忘れられず、腰パチャと潮だまりの観察と磯遊びに徹した結果、 やはり体は浮きませんでした 高校のプールは、跳ね板式と、コンクリート製の高い飛び込み台があったので、深 場は水深?メートルもあり、また室内だったので陽があたらず、水温18度Cで泳ぐ日 もあって、冷た〜く、暗〜く、金槌が凍りついてしまうようなプールでした.おまけ にじめついた脱衣場は不衛生そのもので、皮膚病に感染することもありましたが、そ のプールで泳げるようになったのですから分らないものです(しごかれたのではあり ません.体育の先生には恵まれていました.女生徒がコンクリートの飛び込み台に上 がった時は、健康な肢体を真下から見上げる結果になり、目の遣り場に困っていたの で、水泳の授業はもっと恵まれていた?) 昼食を掻き込んですぐさま校庭を横切り、水着に着替え、H君はコース通りに、私 はコースと直角に、H君は背泳やバタフライでターンを繰り返し、私は飛び込んでは その勢いで反対側に辿り着き、這い上がっては再び飛び込み----、とこの調子を一シ ーズン続けた頃には、手足バタバタの息継ぎなしで飛び込み台の真下まで辿り着き、 残り数メートルは前に進まない平泳ぎで息を継ぎながら、25メートルを泳げるように なったのですから僥倖です 昼休みの水泳が歓迎されない程度の認識はありましたが、夏場の真昼に無人のプー ルがあるのだから、人知れず金槌を克服する絶好の機会----、と考えたかどうか、と もかくそれからは、女の子の前で恥ずかしい思いをしないで済みました Jul 12, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その99】 放課後はテニスや弓道も盛んでしたが、残念ながら私はどちらも経験がありません. 校庭にネットを張ったテニスコートだったので、部活に属していない生徒が帰るとき は、ラケットの合間を縫わなければなりません.そのような折は、女の子のテニス姿 がやけに眩しく、また同級生の女の子には、教室とは違う華やいだ雰囲気が感じられ、 立ち止まって見ていると、「お前、あの子が好みかよ〜」 Jul 13, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.100】 体育の授業にタッチフットボールがあったこと、及びN君が大学に入ってからもラ グビーをやり、お正月に秩父宮ラグビー場で、N君の出場する試合を観戦したことが きっかけで、今に至るまでのラグビーファン、ですがラグビーも昔は静かでよかった. なにしろ一方が相手ゴールに攻め込むたびに、観客も座席を移して、いつでもボール の真横から観戦できたのですから 秩父宮ラグビー場から東へ歩くと、N君の住んでいた都営アパートです.お正月を 迎えると、信濃町から公園を散歩しながらN君宅へ向かうのですが、建物の外観がど れも同じで、N君の棟を探しあぐね、行きつ戻りつ、やっと見覚えのある階段を発見 して○階に上がると、ノックとともにN君が迎えてくれます.少ない時で総勢3人、 多いときは5人全員が集まっての飲み食いの始まりです Jul 13, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.101】 集まってから何をやっていたのでしょう.先ずトランプです.学生になってからは 麻雀に引き継がれましたが、気が置けないメンバー相手に、帰りを意識しないで励む ゲームは熱が入ります.特に金銭の絡まない高校生のトランプは、勝っても負けても 後に残らず、夕食の鍋が始まるまでの半日近くを、夢中になって過ごしたものです 都営アパートから青山通りを少し西へ歩くと食料品のスーパーがあったので、持ち 寄った材料に肉や野菜を買い足してもっぱらすき焼きを楽しみました.何しろ食べ盛 りです.並みの量ではなかったと思います.味付けは九州風? 大食漢のH君がすば やく醤油と砂糖で味をつけ、一斉に鍋をつつき始めて数十分、お酒も入ったのでしょ うが、気分が乗って、H君の十八番の三橋美智也が朗々と響きます 狭い部屋でした.普通の居室の半分程度.そこに毛布の掛かったベッドが据えられ、 低い机と本棚と暖房が肩を寄せ合い、クッションや絨毯が敷き込まれ、タペストリー や置き物が飾られていたのですから住み心地満点.問屋の私の部屋とは対極の温かさ、 とは考えもしないで酔いつぶれ、各自好きな恰好で眠りこけた Jul 14, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.102】 Y君もN君宅の常連の一人で、私よりも繁く通っていたのかも知れません.もっと も我々の親しさはこの五人一辺倒の親しさではなく、趣味や運動など、それぞれが別 に核のある親しさだったので、それだけに長続きのする「ほどよい関係」だったと思 います Y君との交友は音楽が柱になります.以前、太鼓という言葉で紹介した通り、彼は percussionで、確か生計を助けていたのではありますまいか? 曲名は忘れましたが、 芥川也寸志の指揮する交響楽団で、ティンパニーを叩いている姿が頼もしく、タダ券 でも肩身の広い思いをしました 彼のお父様は知る人ぞ知る「意外な楽器」の演奏家です(残念ながら、数年前にお 亡くなりになりました).始めて知ったのはY君にNHKへ連れて行かれ、録音室の 何処かの部屋から録音風景を見学した時です.ガラスの向こうは、見覚えのある男性 歌手の録音最中、結構キツイ言葉を----「あんた、この世界で何年メシを食ってるの」 を浴びせられ、私が怒られたような気分になりましたが、Y君のお父様は演奏に対す る取り組みが違うと言うのか、順調に録音が進み、ほっとした記憶があります 哀愁を帯びた独特の響きは、テレビ番組の主題曲の中でも必ず聞き分けることが出 来ました.それは「意外な楽器」のプロの演奏家が単に少なかっただけではなく、声 紋が唯一無二と言われるように、音感の劣った私の耳にも、はっきりと聞き分けられ るY氏独特の響きです.しかし私は、虎の門のホールで開かれるリサイタルを何回か お手伝いするのが精一杯で、その響きの奥を鑑賞できるだけの「経験」に欠けていま した リサイタルの終了後、お疲れだったのに、銀座の老舗でご馳走になった天丼の味が 今も忘れられません(このお店も一回限りになりそうです.お店側は、私のような一 回限りの客は商売にならないでしょうが、「人は食べるだけで生きるにあらず」を信 条にしている私としては、印象に残る情景を「食べるだけの情景」で上書きするのが 忍びなく、常連客になれないで一見客で終わることに、むしろ自負を感じている次第 です) Jul 15, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
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