編集中記 【No.103〜No.113】
【No.103】
オマエ、高校だって勉強する所だぞ.少しはやったのか? と聞かれると弱ります
が、口をつぐんでいるのも変なので、多少、教室の風景も描写します.その前に、若
い人がこの「編集中記」に紛れ込んできた時のために一言
高校と大学の遊びの費用は自分で稼ぎ出した、と言える程度には、私は家業を手伝
っていたと思います(糸ヘンは、今も昔も栄枯盛衰の激しい業界です).因みに、大
学時代は本格的に家業に携わり、大学は「従」であったのですが、大学以降の職業生
活には今回は触れない方針なので、これ位にとどめておきます(高校生も、自分の遊
ぶ費用は自分で稼ぎ出すような教育システムを望みます.塾の費用もしかり.受験戦
争の大義に隠れ、自立を先延ばしにするような教育制度は、それを当然視する大人の
意識ともども、考え直す必要があるのでは?)
父は寡黙だけでなく、子どもの生き方にも一切干渉しなかったので、それだけに一
語一語に重みがありました.その一つが「商家は商科」ということで、何とはなしに
商科が進路.両親は大学を知らず、母は商家育ち、私はオネンネだったので、その他
の進路は考えられなかったのだと思います
自然に商科、の私が高三で選んだのが数学重視の理系のクラス.理由は理系を目指
すH君がそのクラスを選んだから.まあ、私の勉強感覚はこの程度のものでした.お
まけに皆が受験勉強に励んでいたまさにその時期、結石の不快感から重役通学を強い
られ、教室の後方のガラス戸を静かに開け、軽く一礼して最後尾の私の席に着席する、
そのような日々が愉快である筈がなく、無意識に忘れようと努めた結果、一、二年の
教室の記憶まで奇麗サッパリ雲の彼方
Jul 16, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.104】
幾何の授業で居眠りしたことはよく覚えています.二年の幾何は教頭先生の受け持
ちなので、本来は緊張するのが礼儀でしたが、日当り抜群の午後の教室のこと、居眠
りするな、と言う方が高校生の気持ちを理解しない酷な注文.心地よい睡魔に誘われ、
授業の開始から天上界で夢見る人、の耳元に幽かに「クワイノハ」「クワイノハ」の
催眠術.お節料理に入っているクワイの、葉の形をご存知ですか
今でも近所の水田には、長三角形の葉に切り込みの入った、観葉植物そっくりのク
ワイを見かけることがありますが、あの葉っぱの内角と外角の関係がどうのこうのと
講義されても、耳に残ったのは「クワイノハ」
教頭先生も見かねたのでしょう.授業の最後に指されてしまいました.しかも迂闊
にも、指される前に発せられた質問まで夢の中で聞いたため、つまり聞こえていなか
ったため、とっさに口から出たのは「クワイノハ」.クラスがドット湧き、あとは叱
られた記憶もなく、高校で学んだ幾何はこれが総て
Jul 17, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.105】
三年の代数の受け持ちはクラス担任のT先生.多分、重役通学も含め、いろいろお
世話になったと思いますが、T先生については数学教師としてではなく、浅草の仲見
世でお客に商品を手渡している年輩のご主人、の印象が濃厚です.高校の代数の記憶
もこれが総て
いつ知ったのでしょう、T先生のお住いが仲見世の○○○であることを.社会に出
て勤務先の先輩と羽子板市に出かけた折、あるお店でお見かけしたご主人が高三の担
任と瓜二つ----、驚きました
私の適性は何だったのか? 先生タイプではなさそうです.商人タイプ、とも今は
違うと思っています.自分の適性が分かるのに私の場合、半世紀を要しました.とい
うことは、職業の適性など大して気にする必要はないのかも知れません.適性を生か
すのは、引退後であっても遅くはない
Jul 18, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.106】
高校入学時の担任----はお亡くなりになったと記憶しています
中学も毎年クラス替えがあったのですが、別の学区の公立中学も受験校のため、ク
ラス替えや全員の成績の掲示など、私の中学と共通点が多かったと思われます.その
中学に通っていたS君の話が、今も忘れられそうにありません
S君が二年のとき、番長格の生徒と同じ担任になったそうです.その担任のB先生
は、戦争で片方の視力を失い、教師復帰後も病身の身.その弱った体を伸ばしながら、
頑丈な体躯の番長格を殴りつける姿が、強く印象に残ったそうです.場所は職員室.
先生全員が息を凝らして成り行きを凝視する.しかし激しやすい教師とは違い、他の
生徒には殴るそぶりさえ見せなかったB先生を、恐れる生徒はいなかったとか
番長格は殴られるのを承知でB先生の呼び出しに応じていた、とS君は信じていま
す.「番長格は立ち直る.しかし○は駄目だ.私も怖い」、とはS君が直接聞いたB
先生の独白です.卒業後B先生はご逝去され、S君がお線香をあげにお宅までお邪魔
したところ、偶然にも番長格と一緒になったのですが、その時はほとんど何も話さず
に別れ、それから三十年後のある日、S君の出版社の受付で、これもまったく偶然に、
番長格、ではなく印刷所の所長として活躍している彼に会い、当時を詳しく語り合っ
たとか.S君いわく、「俺にとってのB先生は、職員室で囲碁を楽しむオジサンだっ
たよ」
Jul 19, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.107】
中学時代は生徒の暴力沙汰が絶えなかったと思います.公立中学だけでなく、近親
者が通っていた同区の私立中学も同じだったので、学校個々の特殊事情ではなく、時
代に共通する社会問題だったのかも知れません.その私立中学の対策は、荒れた生徒
の中に「上辺は朱に染まっても芯は崩れず、皆に受けのよい生徒」を配することだっ
た(とは近親の保護者が心配して私立中学に談判に行ったところ、学校側からなだめ
られた際の釈明の言)
荒れたグループから呼び出しを受けて、殴られる生徒がいたのは事実です.特に私
の公立中学は、「列車」で越境するほどの受験校であったため、塾同然のクラスもあ
り、進学から見放された生徒には「不条理」の持って行き場がなく、荒れたのはそれ
なりに分かるとして、大学まで続いている私立中学の荒れ方が、公立中学のそれと同
じだったか? 後者は恵まれた家庭で、甘やかされたり、塾本位制で育った子弟が、
時代の風潮に悪乗りしていたのかも知れません
荒れる生徒によい感情はもてません.口先で言い繕っても通じる相手でなく、何が
連中の気に障るのか、当初はそれだけが気になったのですが、次第に気にするのが鬱
陶しくなり、あるいはこちらも鈍感になり、お互いに違った土俵で振る舞うように離
れていった.無関心の中での共存、と言えばよいのかも知れません.教室はどちらの
側のものでもない.まして公立の中学です.教室は荒れた生徒にとっての居場所でも
ある、と思います
S君の会話に出てきた○タイプの印象は違っていました.一般の生徒を気に障る障
らないで区分けせず、大人が子どもを見くだすように、薄笑いしながら机に腰掛け、
非難をこめた目を向けると、呼び出すなどという子ども染みた真似はしないで、すぐ
に胸倉をつかまれ教室内でも殴られる.あるいはグループで暴走するのではなく、子
どもの荒れ方ではなく、「構成員の行為と仕事」を大人の一員として果たしているよ
うな凄さがあり、それだけに学校に対する期待はなく、学校や生徒に報復して溜飲を
下げる必要もなく、尾を踏まない限り安全だったと思います(当時荒れたのは、居場
所を取り上げられた「子どもの反抗」ではなかったか.相手が○タイプのような「大
人」なら、中学に期待する必要もなかったのですから)
Jul 20, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.108】
大学一年の時に英語講師が使った教材はSherwood Andersonの「Winesburg, Ohio」.
彼女が私の名前を呼ぶときの発音もAndersonそっくり.高校の国語の先生がとり上げ
たのはクローニン著「天国の鍵」
「Winesburg, Ohio」も何処かの文庫から翻訳が出ていると思います.しかし こちら
は訳書にお世話になるより、教材から察するに米国の白人だったと思いますが、ほと
んど日本語を話さなかった若い講師が気になって、私にしては真剣に、語学としてで
はなく教本の中身に取り組んだ覚えがあります.講師の雰囲気と本の表現がよく合っ
ていました.異国の地に渡ることが既に情熱的であり野心的ですが、むしろ地味で控
え目な物腰に、不可解な魅力を感じたものです
クローニンの方はどうでしたか.「天国の鍵」は、生徒の信じている宗派によって
は反発さえ招きかねない教材です.中学生や高校生は文学に引き込まれ易い年齢なの
で、私もこの翻訳を夢中になって読みましたが、教室全員が感傷のぬるま湯に漬かっ
て陶然とする、その教導効果に中年の男性教師も自足する、ような印象を持ったのは
事実です.高校の教科で、学んだことの内容まで覚えているのはこの授業だけですが、
成人した後の本棚には「天国の鍵」が見当たらなかったので、この勉強も大して身に
つかなかったのかも知れません
Jul 21, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.109】
世界史の先生は一年の担任でしたが、これも眠気の横綱格で、教科書の内容が味噌
を入れ忘れた味噌汁よりも味気なく、試験は念仏よりも徹底した丸暗記.そもそも自
分が生きてきた最近十年の歴史でさえ、跡かたもなく忘れてしまうのに、百年や千年
も前の、見たことも行ったこともない世界各地の歴史など、教科書の字面で分からせ
ようとするのが無理難題.教科書や講義による総花的な世界史を、世の中の大人は本
気で、高校生に理解させられると信じていたか? どうも嘘っぽい
私の世界史の勉強は一生かかります.先ず世界中を実際にこの目で見なくてはなり
ません.字面より実証です.次に人間の実際の営みを目の当たりにしないと信用でき
ないので、具体的に再現された情景を観察する必要があります.つまり、考証に裏打
ちされた歴史映画や歴史番組を、それも世界各国で制作された画像や実録を見なけれ
ばならないし、さらに死んだ後まで、新しく発掘された遺跡のフィルムを見るために、
この世にさ迷い出なければなりません.難儀なことです
Jul 22, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.110】
小学校でも学芸会は一息つけましたが、部活に属していなかった高校時代も、H君
のお陰で愉快な文化祭を体験、したと思ったところ、私も一時、化学部に入部してい
たのでは? という疑念が湧きました.化学好きのH君に誘われたのは文化祭のはる
か前、ナトリウムを発火させたり王水をつくったり、硫酸銅やらガスバーナーやらフ
ラスコやら、授業と部活の化学室がゴチャゴチャに蘇る
少ない男子部員の、一年の男子は我々だけ? が選んだ素材は液体窒素.基礎も応
用も知識ゼロの私はH君の研究助手.しかし液体窒素は何処に注文しいくらで仕入れ、
そのお金を何処からひねり出したのでしょう.まっ、いいか.その後、請求書が届い
た訳でなし、家宅捜査された覚えもないので、細かい詮索はやめにします
液体窒素は数回にわたって補充されました.教室一部屋を我々二人だけで貸し切り、
机を後へ積み上げ、椅子を並べ、黒いカーテンを引き、客引きは助手の役目、液体窒
素の受け入れと演出はH君の役目、公演種目は金魚と泥鰌の液体窒素漬け瞬間蘇生.
液体窒素に漬けた花束は叩くと薄手の磁器のように砕けるので、これも人気を博しま
した
転入や新入の挨拶を除き、人前で話すのはこの時が初めてだったと思います.その
後ウン十年、ずうずうしくなり、人前の人が、カボチャか白菜のように見えています
が、やはり人前は苦手です
Jul 23, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.111】
八月に近親者がニューヨークの美術館を巡ることになりました.まだコギャルです
が、現地のインターナショナル・スクールに通っている中学時代の友人と、電子メー
ルで旅行の打ち合わせを済ませてしまい友人宅に泊まる手筈(友人のコギャルは一緒
に帰国して私の家に泊まる段取り).孫のニューヨーク行きに刺激され、77歳と81歳
が、もう歳だからと諦めていた海外旅行に、この秋、再び出かけることに決め、パス
ポート取得の手配を頼まれました.人の面倒を見るばかりでは羨ましさが募るばかり.
う〜〜〜ん、行きたい!
少し「方針」を逸れますが、自分で決めた方針など何処吹く風.海外旅行に関連し
て暫く「カイシャ」を掠めます
私が始めて海外を旅したのは1965年初夏の学生時代.前期ゼミの教官の許可を得て、
大学の開講中にカナダとアメリカに団体旅行.メンバーは問屋のご主人と中堅商社の
工場長.目的は斯業のFA視察および観光.確か損金算入が認められた筈です
中堅商社は地方の資産家でもあったのですがバブル前に倒産し、当時参加した問屋
各社も一旦は成長後、安定したのはマシな方で、整理やら廃業やら様々な経過を辿り
ましたが、当時見学したFAだけは今も内外の工場で息づいています(倒産した中堅
商社のFA設備も別会社にそっくり引き継がれ、生産性と品質のよさを誇っています)
嬉しかった! 今でもその時を思い出すと肌が粟立ちます.Canadian Pacific Air
Lines で羽田からバンクーバーまで、初めての飛行機で初めての海外旅行です.機種
はDC8? 羽田離陸時は驟雨に見まわれ、ターミナルビルの屋上で傘を煽られる両親に、
もの悲しさを感じましたが、バンクーバーの飛行場は抜けるような快晴で、滑走路を
踏んだときは喜びのあまり体が震えました
チューリップに唖然としたのはほんの序の口、サーモンのステーキも、湖も、国立
公園も、カナディアンロッキーの山々も、何もかもが巨大です.澄んだ空、広大な大
自然----、そのとき確かに思いました.社会は「進歩」すると、このように豊かな環
境に住めるのだ、と
Jul 24, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.112】
何処の都市か忘れましたが、地方新聞に写真入りで我々一行が紹介された記憶もあ
ります.日本からの工場見学が新聞種になる時代だったのです.旅行社は某大手運送
会社系列.ホテルは一流でしたが二人一部屋のため、メンバーとは年齢の離れた私は、
列車の個室もホテルのツインも添乗員と始終相部屋.添乗員は、旅程から通訳、会社
訪問の段取りまで何もかも一人で面倒を見る必要があり、しかも日本からのカナダ観
光は黎明期だったので、現地での直接手配や現金決済が多く、添乗員の腹巻きから分
厚い札束がはみ出した----(私の手では掴みきれない厚さがあり、一瞬、我々が支払
った旅行代金が、どんぶり勘定で費消されていくような錯覚に捕われました)
添乗員の忙しさは、今の団体旅行の比ではなかったでしょう.カナダ太平洋航空と
タイアップした観光開発の最初?の試み、に我々の視察旅行が重なったとか.しかし
さすがの添乗員も一人では動けません.となるとガードマン兼メッセンジャーが必要
になりますが、その役はお客である私が帰国直前まで担当することになり、ラスベガ
スの一晩を除き(なぜあの日に限って一人部屋になったのか? まあ、精力溢れた中
年男性のすることはよく分かりません)、旅行社の活動についても、よい勉強をさせ
てもらいました
Jul 25, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.113】
自由時間は私一人、私は最初の海外旅行から、一人で歩くことが多かったのですが、
一人旅が好きか? と問われると戸惑います.人を求めて旅に出るような一人旅は好
みではありません.小学校当時の習慣からか、一人だと人を恋しがる気持ちも稀薄に
なり、その地をひたすら歩いたり、その場で長時間佇んだりするのが習い性.そのよ
うな折は、全身が感受性の塊になり、頭脳は街を駆け巡り、気持ちは自然と一つにな
ります
Banff のホテル----.私の建物の観念を覆された、瀟洒で、豪華で、素朴で、重厚
な Banff National Park内のあるホテル.そのテラスで飲んだ珈琲が忘れられません.
満たされるとはこのような瞬間を指すのでしょう.自然に魅せられ、寛ぎ、素朴で、
平凡で、静かで、しかも限りなく美しい.私の満足とはこのような生活を意味してお
り、とても現在の社会に「満足している」とは言えません
国立公園内に我が家がないから不満なのではなく、自然を特別とする考え方が、あ
るいは自然を保存しようとする姿勢が、「大切なのは身の回りの自然であり、自然の
中での生活である」という私の感覚と、余りにもかけ離れているから満たされないの
です
Banff National Park→ http://www.worldweb.com/ParksCanada-Banff/index.html
Discover Banff → http://www.discoverbanff.com/
Jul 26, 1997 plnssnr@reverie-prmnr