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編集中記 【No.114〜No.124】

【No.114】

  一皮むけば商売敵ですから、社長や理事や議員の肩書きを持つ問屋衆の本音は知り
たいが知らせたくない----.また、団体旅行と言ってもその実体は見本収集、技術吸
収、設備目算、仲間蹴落としですから、昨今流行りの、業務に名を借りた観光とは異
なり、飛び飛びの景勝地観光と折々の晩餐を除けば自由時間は隠密行動.提供する材
料がなく吸収一方の私はメーリングリストのROMよりも冷たくあしらわれ、サンプ
ル仕入の本拠地になったニューヨークでは、ホテルを除いて私一人が予約なしのブラ
リ旅.しかし、私は「一人旅」に慣れていたので、初めての海外旅行もむしろ自由時
間の多さに救われました

  お土産は訪問先の地名が刻まれた記念スプーン各一、絵葉書多数、ホテル備えつけ
のレターセット各一、同じく備えつけの観光案内各一、飛行機備えつけの広報誌各一、
まだ流通していた一ドル銀貨数枚、小銭バラバラ、国連の記念切手コレクション一セ
ット、それに免税の洋酒と煙草.当時は輸入洋酒と輸入煙草は贅沢品だったので、こ
れだけで十分立派なお土産でした

  現地で自分のために買った品物は、先ずバンクーバーでセーターを一点.肩から裾
まで大きくVの入った空色のセーターは、その後各地で人目を引きました(現地では
よく見かけるデザインなので、着こなしがよかったのです.ウン、トーゼン).Vは
白とクリームの幅広の帯.当時の日本では、とても商品化できない色彩感覚だったと
思います.もう一点はホノルルでアロハの上下.セーターもアロハも寒さ暑さを凌ぐ
必要から購入したもの.他に幅の極端に広いネクタイ2本.これは日本から持参した
ネクタイが細すぎたためで、帰国後は、この2本のネクタイは使えなくなりました.
自分用の土産は美術館で購入した複製画のパネル一枚.複製画は年々色褪せて、今で
は無地の厚紙と変わりなし----
                                         Jul 27, 1997  plnssnr@reverie-prmnr


【No.115】 最初のニューヨークは米国社会から子ども扱いを受け、酒席への立ち入りはその都 度咎められたので、21歳と嘘のつき通しでしたが(横合いから「もっとサバ呼んで」 とこれは添乗員の声)、飲酒歴ではませていたため、良心の痛みは感じませんでした. 同じ理由からか、ドアマンもチップを受け取らなかった.いや、私は当初、ドアマン にチップを渡すことを知らなかった 威厳のある壮年のドアマンと、数日の宿泊にもかかわらず顔見知りになり、会うた びに挨拶を交わし、玄関を出るとタクシーを呼んでくれたり、玄関に着くとタクシー のドアを開けてくれたり、実にいい感じでした.しかし、他の泊まり客と手で何かを ヤリトリするのを不思議に思い、ニューヨークを出発する朝、添乗員に説明を求めた ところ、初めてチップの必要を知り、ホテルを引き払う際、ドアマンに紙幣を手渡そ うとしますと、彼は笑いながら「アリガトウヨ、ボーズ、タッシャデナ」と言ったか どうかは忘れました。 Jul 28, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.116】 円相場が固定制から変動制に移行したのは1971年.それまでは1ドル360円でほぼ固 定していたのですから、当時の海外旅行は想像以上に贅沢であり、常に「節約」が頭 にありました.お金は十分----、十分すぎるほど持っていました.しかし前々から現 金問屋に関わってきた私には、そのお金が何を意味するか、それだけあれば何ができ るか知っていたので、懐の札束は始めから「現金懐炉」、とは言え私も生身の人間で す.食べなければ飢えてしまう 威厳も盛装も持ち合わせのない「一人旅」にホテルの晩餐はとても無理.場末の安 宿がどんなに恋しかったか.ともかく歩くことです.夕暮れのニューヨークを、あて どもなく歩け歩け、の途中に目につくのはステーキ・ハウス.間口2間ほどの店先の、 格子状やフォーク状の鉄の上で焼き上げる肉がいかにもおいしそう.もともとステー キは苦手でしたが飢えには勝てません.値段も手ごろ.何しろチップを含め1ドル? で足りたのですから テーブルが左右の壁にへばりつきながら奥へ続き、小型のゴキブリが壁を這う暗く 侘びしい佇まい.テーブルは一つだけ埋まっていました.その斜向かい入口側に席を 占め、店頭の実演に目を向けながら料理を注文、と言ってもメニューなど見当たらず、 どこかに書いてあったステーキ定食を頼んだところ、大味の肉に、ぬるりとした生野 菜、褐色のパサパサパン、生ぬるいビールの並んだ食卓では、みるみる食欲が萎えて しまう.それでも肉を二切れ三切れ呑み込んでもう結構.チップを置いて席を立とう とすると----.話し声は聞こえませんでしたが少年と両親だったのでしょう.私と同 じ定食が並んでいました.しかしお皿には、肉の切れ端と野菜の滓が残るだけ.途端 にガ〜ンと来ました.「ほれ見ろ! 人の満足に水を差したじゃないか」 Jul 29, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.117】 現代のニューヨーク旅行は至極便利.ニューヨーク単独のガイドブックだけでも多 すぎて、どれを買ってよいか分からない始末.旅行社からは観光ビデオが発売され、 英会話の書棚にも旅行会話の入門書が目白押し.WWW上では旅行情報が錯綜し、出 発前に迷子になります 生の旅行情報を自分で集めることも可能です.私は現在「ニューヨーク在住日本人」 中心の二つのメーリングリストに入っているので、尋ねさえすれば、ホテルやお店や 催事について事細かに教えてもらえます.現地に知人がいれば、電子メールやインタ ーネット電話で ---- 例えばあるインターネット電話ソフトの Public chat room では、世界中の見ず知 らずの人々とも会話できます.先日は日本人のアメリカ留学生が突然話しかけてき たので思わぬ長話.但し「ピンクチラシ」紛いの chat roomがあるかも知れないの で、自分の個人情報を伏せるなどの注意が必要.ホワイトボードを開けば、互いに 一つの画像を見ながら話し合えます このホワイトボードは会話中の双方からフリーハンドで書き込むことも、画像情報 を貼り付けることもできるので、図面を基にした打ち合わせには、近距離の通話で あっても欠かせません.筆談機能は耳の不自由な人との会話に好都合 従来の電話機能に限るなら、また料金に拘らないのであれば、パソコンの不要なイ ンターネット電話サービスでもよいのでしょうが、パソコン対パソコンのインター ネット電話ソフトには(そのあるものは)、音声だけでなくテキストの交信、画像 の交信、ファイルの交信機能も含んでいるので、使い勝手が一般の電話より劣った として、無視できない場合があります インターネット電話ソフトにはsound cardが必要です.sound cardは half-duplex だと交互会話になり不便.full-duplex を推奨.セキュリティについては情報不足 ---- 一日中、心行くまで連絡し合えます 旅券取得には多少時間がかかりますが、旅券がありさえすれば、直ちに電話で座席 を予約.その辺の着替えを鞄に詰め込み、飛行場に駆けつけ、十数時間後にはニュー ヨークで珈琲を飲むこともできます.他に何が必要でしょう? 暫く考えても思い当 たりません.もしニューヨーク旅行が大変だとしたら、それはニューヨークへ行くこ とが大変なのではなく、旅行者本人の身の回りの準備が面倒なので、個人の海外旅行 を経験した人がニューヨークに出向くのは、渋滞の首都高速から千葉県の私の家へ戻 るよりも気楽なことだと思います Jul 30, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.118】 コギャルは部屋住みなので立ち寄りを許しませんが、大人の帰路はやはりハワイで す.65年の帰りもハワイに立ち寄り、71年の帰りもハワイに寄りました.(私は毛色 の変わった団体旅行をもう一つ経験しています.こちらは勤め人に対する業務命令な ので否応なし.資格は上級役職者の名代.メンバーはお互いに業界の違う上級役職者 各一人.主題は「勉強会」.指導はある学者.プロの通訳同行.訪問先は米国主要都 市.勉強内容はコングロマリットの視察と米国の学者の特別セミナー受講.そう、当 時はコングロマリット、今はベンチャー.因みに、場違いの私は、拘束時間は散々な 目にあい、自由時間は一人満悦) レイは何本あったのでしょう.中でも白い花がいかにも甘く、部屋が香りの楽園に 早変わり.テーブルには南国の果物が盛ってあり、食べてよいかを暫く思案.ショッ ピングセンターで日本人の売り子を見かけたので、話しかけると日本語が分らない米 国一色のハワイでした.それだけに65年当時は、海外旅行の仕上げとして最高の観光 地.浜でのんびり、海でプカプカ.高校の昼休みに覚えた泳ぎが役立った (^_^) 市街から離れたホテルに泊まったこともあります.広い庭には魚の泳ぐ水路が走り、 庭の続きは波一つない専用ビーチ.クロールは息継ぎできず、平泳ぎは前に進まない ので、仰向けに寝転んで波まかせ.気の向いたときに足をばたつかせ、青い空を眺め ていましたが、この姿勢だと好きなだけ浮かんでいられます 懐の貧しい泊り客には施設もレストランも開かずの御殿.そのため71年のホテルで は、市街から訪れる盛装の男女と入れ違いに、わざわざタクシーを呼んで市街まで夕 食に出かける始末.しかし海水欲は裸の王様です.虹色に輝くトロピカル・カクテル に囲まれ、豪華なホテルの専用ビーチで王侯気分、これがハワイ、やはりハワイです Jul 31, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.119】 65年の旅もいよいよ終わりです.ホノルルから羽田への機内は往路と違い、寛いで お酒も進み、飛行機の安定した振動にほろ酔い気分.しかし「連中」のお酒の強さに は驚きました コクピットに接した座席に米軍の将校がいたのですが、窮屈だったのか、立ったま ま仲間同士で話し始め、スコッチやカナディアンやテネシーウィスキーを、ストレー トで休みなく飲んでいました.将校仲間の歓談は、彼らが飛行機を降りるまで続き、 しかも乱れず、そのお酒の強さと体力に、改めて我々社会の酒席の乱れを恥ずかしく 思った次第です そうこうする内に「ベルトを締めよ」のサインが点滅、飛行機は急速に高度を下げ たので、そろそろ羽田、と思ったのですが、到着予定にはまだ相当時間があり、しか も機外は見渡す限り青い海、陸はもとより船影一つ見えません.少し変だ、いや大分 変だ、と心配になり、乗務員に尋ね、どこかに降りるらしいとは分かったのですが、 理由も中継地も要領を得ない.第一、すでに海面が間近に迫り、機体を大きく傾けな がら旋回しているのに、まだ真っ青な海ばかり.海中に突っ込むのかと、鼓動が聞こ えるほど緊張してもまだ陸は見えず、車輪が滑走路に接地する衝撃を感じて、初めて ウェーキ島を知りました 民間機が米軍の将校をウェーキ島に運んだのです.面積6.5km2の、珊瑚礁に囲まれ た太平洋上の小さな島.降りるのを許されたので歩いてみると、貝塚をならしたよう な滑走路から猛烈な照り返し、のほかには変化が見当たらず、遠くに無線施設と小屋 らしきものがあるだけで、任務でもない限り人の住める場所ではありません.1965年 は米軍機が北爆を開始(2月7日)した年ですが、当時の私は、ベトナム戦争をほとん ど理解していなかったと思います Aug 01, 1997 plnssnr@reverie-prmnr Wake Island→ http://lazarus.elte.hu/~zetor/cia95/wq.html Wake Island→ http://www.adfa.oz.au//CS/flg/wf93/wq.html
【No.120】 梅雨時の日本に近づくと空の様子が変わります.快晴の太平洋を遮るのは列島に垂 れ込める厚い雨雲.緑濃く、陰鬱な房総半島に迎えられ、明から暗へ、開放から閉塞 へ、率直からうつむき加減へ、excuse me から無言へと変わります.しかし、帰国は 出発時よりずっと趣があります.家族に再開できる喜びは長旅の最後の仕上げ.何処 の国に住みたいか、と問われても、家族の待ちわびる国、としか答えようがありませ ん.家族が住むから故国であり、その逆はあり得ない Aug 02, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.121】 大学1年の夏、外房の海の家で、一週間アルバイトしたことがあります.高二時代 の級友に誘われた、というよりも「二人一組」が条件だったので是非にと頼まれ、気 が進まなかったのですが(この時期は問屋の方で特に私を必要としていた、及び、私 が海の家で働いたら、溺れた人を発見しても助ける前に私が溺れてしまう)はっきり 返事しないうちに話しが進み、断わりきれなくなりました 砂浜に組み立てられた海の家は、中年夫婦が住み込んでの営業を学生二人が手伝う 手筈.寝泊まりは海の家なので拘束は24時間.休憩時間も食事の時間も定めなく、店 の暇をみて昼も夜もラーメンか具のないカレー.朝飯は前日に炊いた御飯に味噌汁と タクワン数切れ.健康によくありませんが、その程度ではへこたれません.どうにも 参ったのはトイレと寝床 悪臭のひどい汲み取り式の便所で用を足す、これが最悪.次いで海水浴客が腰掛け る板の間で眠る、その板敷きはなんともなかったのですが、布団と枕が湿気を吸って とても眠る気分になれません.仕方ないので、ベトついている茣蓙を除き、持参した バスタオルを敷いて、直接、板の上で眠ること7日間.目先の労苦には辛抱強いと思 っていましたが、あの時は厭の二乗、前のバイトは逃げ出したのかも? Aug 03, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.122】 仕事は海の家の利用客が目にする総て.但し、売店と食事の準備は主人夫婦の専業. その他は、呼び込み、利用料金の受領、脱衣籠の預かり、食器やお盆の片づけ、パラ ソルや浮き輪の貸し出し、脱衣籠の整理、茣蓙と座布団の天日干し、掃き掃除、拭き 掃除、茣蓙の敷き直し、などはどれも文化祭気分.その他に砂浜固有の作業が少々 夕刻、海水浴客が引き払ったあと、海の家の前面を波打ち際までごみ拾い.スコッ プで大きな穴を出来るだけ深く掘り、燃やすものは燃やし埋めるものは埋める.砂浜 は夕方だけでなく翌朝、もう一度ごみ拾い.つまり前夜の花火の後始末 確かに見たところ砂浜は綺麗になりますが、毎日毎日、毎年毎年、砂に埋め込まれ るゴミや燃え滓はどうなるのでしょう.既に公害とか汚染とかが問題になっていまし たが、海水浴客の垂れ流しを、燃やしたり埋めたりして上辺だけ繕っていたのが、私 の働いた海の家の素顔です 毎朝走り抜ける運動公園の駐車場も、夏場になると(つまり今は)花火の残骸で散 らかり放題.周りに人家の見当たらない畑や林にも、車から吐き出されるコンビニ弁 当の器や袋が散乱して、複雑な気持ちにさせられます Aug 04, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.123】 アルバイトの残りの二日は台風の接近で、家の補強に追われました.もともと砂浜 に建てた仮設の小屋ですから、雨が吹き込めば棚の奥まで濡れてしまい、風が吹けば 屋根を飛ばされる恐れがあります.既に秋風を感じる日々、海水浴シーズン最後の台 風だったので、小屋は畳むつもりで、外すものは外し、梱包するものは括り、売上は ともかく、小屋の被害だけは免れましたが、波打ち際が小屋の中まで押し寄せ、夜分、 寝ている床下で波が渦巻いたのには驚きました.海の家の浸水という珍しい体験をお 土産に、電車を乗り継いでの「生還」でした Aug 05, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.124】 海水浴客の引き払った夕暮れの砂浜に、テーブルと椅子をしつらえ、「ご苦労さま、 さあ、乾杯!」.その一杯のビール代など、バイト代から引かれてもよかったのです. カレーライスも器を改め、特価でも洒落たデザインの磁器に盛り、磨いたゴブレット に、レモンを浮かした水差しから冷水を注ぎ、原色のテーブルクロスを敷いて、潮騒 を背にあでやかな夕食の宴.私も洋酒と氷を買ってきます.今日一日の労働は終わり ました.この夕餉のひとときを「最後の晩餐」になぞらえ、心行くまで祝いましょう いかほどの費用が要ると思います、毎日毎日「最後の晩餐」を満喫するのに? 心 からの笑顔を置き忘れ、疲れきった生活をさらに重く暗く引きずっていく----.海の 家のご夫婦に、真夏の浜辺で夕食を楽しむ余裕があれば、砂浜はもっと美しくなると 思います Aug 06, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
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