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編集中記 【No.153〜No.167】

【No.153】

  開き直った、と言っても緊張していたことに変わりなく、痛んだ神経がしきりに何
かを求めていた、それが美術館の作品群に接して具体化された.大量に展示されてい
る古今の名画を、作者名は無視、題や解説も読まないで片端から観て行くと----

  成果を求められる一人旅では食事一つでさえ重荷になることがあります.例えば夕
食ですが、イタリア料理も中華料理も、事前に観光スポットを下調べする余裕のなか
った旅行者には「単身者用食堂」の知識は皆無、やむを得ず飛び込むレストランでは
必ずと言ってよいほど家族や友人で和気藹々、だったので神経は参り、感覚は研ぎ澄
まされる一方だったと思います

  壁一杯に掲げられた無数の絵画を、一瞥しては足早に通り過ぎ、また次の展示室に
移動するので、膨大な作品も壁紙の模様程度に感じていたと思います.その壁紙の中
から、突然、絵画が動き出し神経を和らげてくれる、動く絵画が壁面から飛び飛びに
現われる----.驚きました.「俺にも分かる絵があるのだ」と思いました.展示品は
いずれも名画中の名画ですが、動かない名画は私にはどれも壁紙、無縁無価値の他家
の装飾.しかし「動く絵」はまだ入門に過ぎなかったようです

                                         Sep 04, 1997  plnssnr@reverie-prmnr


【No.154】 子どもの頃は色鉛筆やクレパスに触るだけで楽しかった.何を描くかではなく描く 過程が喜びだった.描いた作品は(巧拙を云々する大人がいなかったら、あるいは○ ○展への応募などと大人が競争を焚きつけなかったら)処分しなければならない塵芥 の付け足しに過ぎなかった 子どもの頃は描き終えたと同時に「満足した」ので鑑賞は視野になく、情操面でも 描画は「与えられる良薬」ではなく「実行による発散」であったと思います.しかし 思春期に入るにつれ、無心の燃焼は野心と情念が織り成す自己主張へと変質、私情や 欲望に突き上げられ、あるいは抑圧感の反動で、描画を自己顕示の手段ないし媒体と して利用した、この段階でもなお美意識は姿を見せず、美意識という言葉を認識して いたかも疑わしい Sep 05, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.155】 好きであっても美術を専攻した訳ではなく、またスポーツや旅行など他に楽しみが 無数にあったので、自己へのこだわりを美術に求める必要がなく、異国での孤独を慰 める「恰好の処方」として服用したのが青年期の美術鑑賞 青年期は自己主張が強く、その果実である自己満足、自己耽溺を求めて、刺激的作 品に傾倒する一方で、色彩も構図も素材も流派も、ありとあらゆる作品に好奇心を発 揮、鑑賞というより宝捜しであったように思います(熱心だったのは美術品ではなく 生きた造形、つまり生身の人間) Sep 06, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.156】 自己耽溺から自己沈潜へと流れが変わったのは中年も盛りを過ぎた頃.主題が醸し 出す楽曲に耳を傾け、画布から流れ出す情景に魅せられる、傾向が強まったのは年齢 ゆえ、それとも状況変化? よく分かりませんが、美術にこだわる自分の姿を見出し た時は、まず技量の完璧さを前提に、気迫に満ちた静寂と、表現者の業または修羅の 体験、時代との相克あるいは超越、などの滲み出ている作品を求め、やがて寂滅を楽 と為す表現に飢えていた----.そこでうまく沈潜できれば一つの美意識は完成したの でしょうが、別の方向から横槍が入った Sep 07, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.157】 笠間には、常設展示用建物と企画展示用建物が、竹林によって隔てられている美術 館があります.ここの企画展示用建物に、鎌首をもたげた蛇が背もたれの、愛敬たっ ぷりの黒い色の椅子が飾ってあります(ありました?) 企画展の、一階展示室を見終わって上の階へ進もうとすると、階段脇に置いてある この椅子をかすめるのが常ですが、ほとんどの鑑賞者が見向きもしない中、夫婦とコ ギャルが「おっ!」「あっ!」「キャッ!」と沸き立つと、受付近くのお客や売店の 店員から怪訝な顔を頂戴する---- 階段と壁の狭間を埋めるNikiの椅子に、私の「美術の美」があります Sep 08, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.158】 美術志望の子どもの中には、日本画志望もいれば彫刻やデザイン志望の子どももい ます.その目指す作品を卒業展で観察すると、一般の展覧会や企画展で見かける作品 と分野も傾向も感覚も個性も見分けがつかず、根本的な違いは技量の完成度、と思っ ていましたが、その一人と我々が美術館巡りを重ねるに連れ、感じ方に違いがあるこ とに気づきました 私の評価は先ず技量、完璧な技量をもって鑑賞するに足る作品と思い込み、技量の 未熟の目につく作品は、あるいは技量の未熟を「思いつき」で隠した作品は駄作とみ なした.美に自己沈潜を求める時、技量の粗が不愉快なほど災いして(鼻について) とても鑑賞に値しないと感じてしまい、勢い、精緻で深遠な作風や、張り詰めた筆遣 いの作品に「一対一」で構えていたのですが、コギャルは自由で闊達です.惹かれる 作品に自在に溶け込み、また抜け出し、好きな作品を踊るように楽しんでいる、愛し てもいる、その感応基準は分かりませんが、「嗚呼、俺は老けた」と悟った瞬間、憑 き物が落ちました Sep 09, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.159】 作品の、主題や思想や精神性およびその浅薄が気になって具象は煩わしい、と無意 識に思っていたその想いが噴き出したのでしょう.また自己耽溺の滲み出ている色彩 にはついて行けず、さらには自然の描写であっても、視界を画布の奥行で縛られたり、 想念を主題で方向づけられる作品には鬱陶しさを感じていたので、それまで敬遠して いた筈の、抽象性の高い作品や意味不明の実験作、あるいは日常の感覚を覆す作品や 自由奔放な作風に惹かれていった 朽ちたモルタルの薄汚れた凹凸に、人々の群舞踏踊を観ています.観るだけではな く表現し拡張する----、踏踊の宇宙には家族があり旅行があり、見知った子の顔があ り老夫婦の歓びがあります Sep 10, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.160】 踏踊の扉はNiki de Saint PhalleやKeith Haringが教えてくれました.Nikiは小品 だけの企画展を訪れた時が最初です.Keith は現代作家展の中に紛れてしまって、コ ギャルに指摘されなかったら気づかなかったと思います.その Keithは、今や文書ま で漁って深入りしています(論ではなく探し物) 自己沈潜にこだわっていた頃の美術鑑賞は単身に限っていました.もとより孤独を 前提とする観照が無用になる訳ではありますまい.その種の必要は先方からやって来 ます.しかし自己沈潜に必要な美はその辺にどっさり転がっていますから、一度、踏 踊の扉を叩くと、沈潜への道を辿る衝動は消えてしまいます 美術館巡りの目的は、以前は「二人で珈琲と西洋菓子」でしたが、今はコギャルの 美術館巡りの、足場が悪い企画展へ送り迎えする運転手の役目、つまり三人連れに、 時折、仕事の合間に日本画を描いているコギャルの祖母が加わります(参加するメン バーの数は、踏踊の世界の広がりに影響します) 美術館に出かける人数が何人であれ、作品を見ているときは単独行動、滅多に口を きくことはありません.意識してそうするのではなく、自然にそうなります.映画を 夢中で鑑賞している場面を思い起こして下さい.同伴者と話しながら展示品を見る人 は、美術よりもお喋りが必要なのかも? Sep 11, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.161】 Nikiの作品を知ったのはある五月の連休です.先生方が紹介したお奨めの企画展の 一つにNiki展があったのですが、既に現代美術に傾斜しながらも、その頃はNikiを知 らず、初めてのNiki展にしては規模が不足、あまりに不足、でしたが、鑑賞し終えた 三人の気持ちは幸福で満たされていた----.私はやっと「動く絵の観照」から「踏踊 の世界」へと踏み出すことができました 美術の評価が親しい人々と一致することは嬉しいものです.それが舞い踊る作風や、 愉快で創造的な表現の場合は尚更です.作品一点一点に対する感想は必ずしも一致し ませんが、作品全体に対する三人の印象が、展示品の色彩のようにあでやかで、踊っ ている彫塑のように心が弾むと、その愉快な気分が一コマ一コマ心象に刻まれ、Niki の飽くなき探求が始まる時、期待はますます膨らみます Nikiもまた規模の大きさに惹かれます.そして是非、大規模な作品群を見てみたい、 一人ではなく夫婦で出かけたい、那須にNikiの美術館がありますが、本当に観たい作 品群は国内にはないので、Nikiへの入れ込みは海外旅行へと広がります.コギャルの 祖母と祖父を伴い、美術好きが揃って出かける欧州旅行! 目指すは Niki de Saint Phalleの小宇宙.「親とは絶対に旅行に行かない」と宣言しているコギャルも黙って はいられない.コギャルの仲間も垂涎を止められない.みな一緒に行こう! 見果て ぬ夢に心が踊る Sep 12, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.162】 仕事の合間に日本画を描いているコギャルの祖母が、Nikiに惹かれるとは思いませ んでした.Nikiの美術本を贈ったところ目を輝かせた表情は、たまに美術館に同行す るだけで、普段は行き来のない孫に見せたお愛想、ではなく、未知の作品に出会えた 感謝と歓び 誰の作品でもよいと思うのですが、誰の作品でも「踏踊の美」を実現できるかとい うとそうではありません.また美意識を同じにする人々は多いほどよいのですが、誰 もが同じように感じる訳でもなさそうです(腕組みして唸るような鑑賞は肩が凝りま す.心象の世界で寛ぐような鑑賞が今は好み) Sep 13, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.163】 欧州の仏語圏で育ち、日本で数年を送り、再びニューヨークで生活を始めた高校生 と、日本だけで育った高校生との通信も、air mail だと次第に疎遠になるものです. それでも高一の時にニューヨーク行の話は出ていたのですが、俄かに現実味を帯びた のは、二人が毎日のように電子メールのヤリトリを始めた今から数ヶ月ほど前のこと. 飛行機の経験もない高二が単身で出かけるには、それなりに迷いもあったのでしょう が、親への相談は一言もなかったので、親も本人が痺れを切らすまで無関心を装い、 返事する期日が迫ったある日、「放って置かないで、はっきり行けないと言ってやり なさい」と促して強い反発にあうまでは、この計画は実現しないと思っていました 美術を専攻するのであれば是非ニューヨークを見て欲しい.観光スポットはどうで もよろしい.ニューヨークの地を踏むだけで「目的」は達せられるのだから、何が何 でも出かけて欲しい、という期待が実現した時、招いてくれた高校生は雀躍りし、本 人の周囲も心から喜んでくれました.また ある美術館の、最上階を占めていたKeith Haringを見た時の、迫力と興奮に包まれた電子メールを受け取った時は、今回の旅行 はこれで十分、美術館はこれ以上見なくてよい、遊び惚けて帰って来い、と密かに思 っていましたが、実際に他の有名美術館は館内を走り抜けただけで、遊び惚け過ぎて 帰ってきたのには呆れました.しかし旅行はこれで終ったのではありません Sep 14, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.164】 帰国してからコギャルは三人になりました.一人は十日ほど帰国することになった ニューヨークの子(我々は「国際人」のコギャルを、習慣や表現方法の違いから、感 心したり、憧れたり、妬んだり、疎んじたりすることはありますが、その子の苦労や その子の心は、その子が「普通の子」であることは、なかなか分かろうとはしないよ うです) 増えた一人は、以前日本の中学で、ニューヨークの子と仲のよかったコギャルです. この子の生い立ちは十分に複雑だったので、気持ちの上でニューヨークの子と通じる ものがあったのでしょう.ニューヨーク旅行が決まった時に、「夏休みに泊まりに来 て下さい」と頼んでおいたので、名にし負う現代のコギャルが三人、それはそれは賑 やかでした 一人の高校生とその両親と愛犬、もう一人の高校生とその両親と祖父母、さらに一 人の高校生とその祖母が、当事者であり直接の援助者.他に祖父二人、祖母二人、成 人した兄二人が間接の協力者.私の見えない所にはもう一人二人の兄がいたのかも知 れません.これらの人々が、準備期間を含め1ないし2ヵ月間、ニューヨークを軸に 表現した踏踊の世界は、これからも Keith Haring の作品に接するたびに、より豊か に展開されると思います(美術の美は、時間がたてばたつほど美しさを増しますから、 20年後であっても、ニューヨークに Keith Haring を見に行くつもりです) Sep 15, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.165】 自然の景色を美しいと感じる「美しさ」に特別の注釈は要りますまい.しかし美術 品は、どう首を捻っても、いわゆる「美しさ」とは相容れない作品が意外に多いもの です.一方、わずか「数十文字」の言葉であっても、読むと美の感覚を呼び起こされ る作品もありますが、短歌も絵画も同じ「美術」で括ってしまうと相互理解に齟齬が 生じます.そこで、人間が表現した作品に関して、「観る」ことが引き金になって美 しいと感じた場合、感じ方の中身がどうであれ、観照の対象はすべて美術、と見做し て書き進めます 50歳代後半に日本画を習い始め、17年間精進した結果、勤労者を対象にした美術展 に毎年入選、数年前に出品した大作は知事賞まで獲得したご婦人の、70歳代に入って からの作品には、趣味とは思えない迫力が加わり、生涯でもっとも充実した生き甲斐 を手にされました.そのご婦人の実姉も、63歳から日本画を始め、仕事に追われた4 年間を除き、77歳の今も仕事の合間に小品を描き続け、同じ美術展に出品した初回で 入選、美術展の撮影に携わったカメラマンから「売って欲しい」と申し込まれた作品 は、ナイル河で糸を垂れる老人の図 Sep 16, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.166】 前項の美術展は毎年上野で開催されますが、展示する作品が多すぎて疲れてしまう のは私が老いた証拠.とはいえ、受賞作はともかく、飾ってある作品を一瞥して通り 過ぎてしまう人々は決して少なくありません.暫く鑑賞者を観察したところ、ナイル 河で糸を垂れる老人の図も、「図」の前に到着した来館者のほとんど全員が、立ち止 まるどころか、一瞥さえしませんでしたが、やはり全員が疲れていたのでしょう.尤 も「図」の展示場所は、仕切りの壁が作品の間近に迫り通路が狭く、立ち止まること が難しかったのも事実です(よい展示場所確保の葛藤は、美術を専攻する生徒の間で も熾烈です) 入選作や個展を「義理」で見に行く美術展は楽しくありません.混んでいたり挨拶 が必要だったり、静寂とはおよそかけ離れた美術鑑賞は、作品の値踏みか、好奇心の 充足か、論の実証か、観たという記録づくりか、いずれにせよ踏踊の世界とは別種の 美であり、私にはこの種の美を感受する能力はありません.踏踊の美は、作品と鑑賞 者が協力して幕を開け、時間とともに拡張する百人百通りの固有の心象 Sep 17, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.167】 広く豪華ですが、年に一度も使われないため、埃と黴臭の漂う応接間に、美術館か ら引き上げられた「図」を目にしたのは入選から数年後のこと.部屋の隅には、習作 や応募作が無造作に束ねられ、とても鑑賞できる状態ではなかったのですが、部屋に 入った瞬間から絵が饒舌に語り始めるその声に聴き入ると、青いナイルが渦を巻き和 装の少女が蘇る.しかし画布から動き出した情景は、続いて展開される心象の前奏曲 に過ぎません 応接間の壁には、フランスの画家のリトグラフと、やはり海外の作家の花鳥の細密 画が飾ってあります.いずれも一目で本職の絵と分かる洗練された大作で、部屋を華 やかに引き立てる装飾効果に優れています.しかしこの2点の作品からは踏踊の宇宙 は生まれません.特に油の細密画は、過去に5年ほど飾ってあった別の建物の心象が 邪魔になり、老婦人の描いた日本画と不協和音を生じてしまう.熟れの配慮を欠いた 展示は美の表現力を減殺します Sep 18, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
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