編集中記 【No.168〜No.181】
【No.168】
画布から流れ出した情景は、やがて制作風景に席を譲ります.作品を描く筆遣いが、
実際に見なくても見えるようになり、画布を見つめる表情が、実際に立ち会わなくて
も浮かんできます.老夫婦の笑顔が無人の応接間に現われて、部屋全体を歓びの表現
で満たしてくれます.私が美術を愛する所以です
Sep 19, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.169】
コギャルの一人が、別便で帰国した両親と合流してニューヨークへ戻ると、途端に
この団地も寂しくなります.そして残りの二人も、普通の生活に戻る筈がまだ遊び足
りないとかで、夏休み最後の土曜日に、行きそびれた繁華街でバーゲンを漁ったあと、
「ライブ」の券が入ったと喜び勇んでお出かけする、その姿たるや、髪は茶色、爪は
紫色、踝まで届くへなへなのスカート、素足に下駄、という阿呆丸出しの姿に衝撃を
受け、顔の化粧は恐ろしさの余り、見ることさえ出来ませんでした
開演が遅れたとかで帰りも遅く、最寄り駅に着いたのは午後の十一時過ぎでしたが、
お手手つないでトボトボ戻る姿は幼稚園児のあどけなさ、まさに一枚の絵になります
Sep 20, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.170】
初めての赤ん坊が胡座をかいた、その歓びはどの親も同じです.しかし腕の確かな
母親が一気呵成に描いた絵は、赤ん坊の祖父母の寝室を飾るのが相応しく、同様に普
遍的主題を選んだ絵画でも、一般の鑑賞者の感激は作者の縁者ほど強いものではあり
ますまい
トボトボ帰る二人のコギャルの、一夏の踏踊を知る者は、帰路を辿るコギャルの図
に微笑ましさ以上の何かを見ます.自ら表現する鑑賞者には、絵画や彫塑はその表現
の出入り口に過ぎません
現実との関わりの薄い美術は、つまり一般の鑑賞者にとってのすべての絵画や彫刻
は、白紙で臨むだけでは心象の広がりを期待できません.踏踊の宇宙は時間とともに
拡張されますが、行きずりの鑑賞では、初見の強烈な印象も、鑑賞の回を重ねるにつ
れ色褪せます.感激の強さだけにこだわるのであれば、美術より映画や演劇が優てい
ます.しかし映画や演劇は、鑑賞する側の自由を封じ鑑賞者の創作領域を狭めてしま
います.現実との関わりによって感動が深まる表現は、やはり美術が勝っています
Sep 21, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.171】
昔、服飾関係の教室を営み、雑誌の原稿を引き受け、国際展に出品するなど女手一
つで娘を育ててきた婦人が、夫婦で暮らすことになり、仕事と住まいを引き払う際、
頼りにしていた別の婦人に仕事を譲ろうとしたことがありました
仕事を引き継ぐ同意を夫から得られていたら、別の婦人は違った半生を送ることに
なったのですが、それはともかく、教室を開いていた当時の婦人は忙しさの余り、ど
うしても一人娘に寂しい思いをさせてしまった、そのいじらしさから、別の婦人は亡
父が遺した根付けや印籠をその子に与え、その根付けや印籠が、画家として大成した
娘さんの、震災前の飾り箱にしまってあったそうです
デパートの画廊の個展で老婦人がある女性画家の絵を買い上げた、と言っても並み
の生活者には手が出ない額なので、思うところがあって、画家が自ら老婦人の「アパ
ート」へ絵を届けた時の情景が、画家の作風そっくりに浮かんできます
私にも秘めておきたい彫塑があります.お金では買えません.所在は外国ですが見
ることの可否さえ分かりません.老婦人が絵に求めるものは祈り?
老婦人は傍観者としてではなく、豊かでない日常から「お金を工面して」「個展に
出かけ」「画家本人に出会い」「美術品を購入した」という「現実の営為」に大きく
踏み込んだ結果、一般の鑑賞者と展示品の関係では得られない経験と、踏踏の拡張を
約束されたのだと思います.まったくの孤独であったとしても、美術の鑑賞は現実と
深く関わることで、客席の観客の感動ではなく、当事者の充足を得られると思います
Sep 22, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.172】
80歳の婦人が、展覧会に応募する心の葛藤は小さくありますまい.まして周囲から
入選を当然視されている展覧会で落選したときの衝撃は、歳が歳だけに傍観者の想像
を超え、以後、展覧会への出品を断念することさえ起こります
落選の衝撃は高年の勤労者だけではなさそうです.同じ芸術大学の、同じ専攻科を
卒業した中堅の画家数人が同じ絵画教室を担当する(個の独立が当然視されている美
術の世界も「絆」の強い分野では、「同じ」という言葉の重複はある種の保険)中の
一人が権威ある美術展の選に漏れ、翌年も、また翌年も落選するようになると、その
画家の心境も鑑賞者の理解を超えます
応募作や出品作に懸ける執念と得意は、美術を専攻する高校生の間でも強烈に働き
ます.一年生の作品はまだ絵の上手な子どもの表現、であったものが、二年生になる
や本職の風合いと思春期の情念をぎらつかせ、仕上がった作品に密かに来展者の絶賛
を期待するその自作に懸ける執着は既に大人
Sep 23, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.173】
見知った子の作品はそうでない子の作品に比べ、興味の度合いが違ってきます.え
っ! これがあの子の作品なの、と思った瞬間、先ほどまで見過ごしていた作品が俄
かに自己を語りはじめる(鑑賞者が作品に生命を与える)、その印象が心に残ると、
それからの一年間、無意識にその子の話題が脳裏に刻まれ、翌年の文化祭では進んで
その子の作品を探し、作品の成長と作風の変化を楽しみます.その子が将来、美術を
職業に選ぶのであれば、今後数十年にわたって特別の作品を楽しめます
巨匠の名作以上に魅力ある作品が足元に転がっています.それは美術が、鑑賞者に
現実との関わりを強く求めていることに由来します.積極的に外部へ一歩踏み出すこ
とが、主体的に他者と関わることが、美術鑑賞という「自己の表現活動」にはどうし
ても必要になります
Sep 24, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.174】
鑑賞者の無聊を慰めるために表現する作家は多くはありますまい.退屈凌ぎに描く
趣味人は無数にいるでしょうが、それとて完成した作品に求めるものは、入選であり
入賞であり、「他者の暇つぶしに役立てば」程度の評価で満足できる作者は例外に属
すると思います.まして職業としての美術であれば、評価が直接収入に響くのですか
ら、引退者の無聊に照準を合わせる訳がなく、現実の最も激しく、あるいは最も厳し
く、燃焼する部分に焦点を置くその気迫や緊張を感受するには、鑑賞する側も自己の
表現力を高めなければなりますまい
失業や重篤の病は現実から逃げることができません.同様に、晩年のある段階に達
すると、厭でも現実を直視する必要が生まれ、自己の表現力が高まり、踏踊の世界が
開けてきます.しかし、引退から晩年までの間は、現実の営為に自ら主体的に関与し
ない限り、好きな美術も退屈で汚染され、自己の表現力を弱めてしまいます
関わる現実は一人で探すよりも協働で拓く方が楽であり、目先の利益よりも発展性
のある事業の方が遣り甲斐がある、と思いませんか?
Sep 25, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.175】
自由度の高い色彩は白、と思っていたのですが、必ずしも白色が鑑賞者を解放する
訳ではなさそうです.例えば George Segal の白い彫塑およびその群像、半開きの扉、
寝室、テラスなどは、白と黒の造形を鑑賞者の感覚で彩色し、鑑賞者の生活体験を擦
り込み、鑑賞者各自が独自の造形を表現するいかにも踏踊の世界を意識した作品のよ
うに思っていましたが、また、その刺激の小気味よさに、強く惹かれる作家の一人で
すが、ふとした拍子に Segalの作品を反芻した時、原形の呪縛から逃れられないで弱
ったことがありました
私=鑑賞者が展開する Segalの作品は、目の前で実際に生じている出来事のように
鮮明です.原作は白と黒の世界であり、風貌も肢体も部屋も動作も、我が国の標準と
は幾分異なって見えますが、美術とは無縁の日々に、思いがけず再現される Segalの
心象は、展開し拡張するのは私だった筈なのに、どこにも私固有の要素が見当たらず、
虜囚のように不自由で、原作が仕掛けた「陥穽」に吸い込まれてしまいました
Sep 26, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.176】
一つは制服がなく自由な校風の、生徒が自主的に準備した文化祭.人気のある高校
ということもあって、文化祭当日は近郷近在の生徒が押しかけ、保護者は廊下にも入
れず、玄関脇に押しやられてしまうほどの盛況でした
もう一つは普通科の中に美術科のある高校で、制服あり、茶髪禁止、服装検査あり
で、文化祭を準備する生徒がどこまで自由だったのか、生徒の主体性と裁量の余地は
分かりませんでしたが、一般の人々に開放する休日も、足場の悪さが手伝って、保護
者も他校の生徒も来校者は至って些少.私が訪れた午前は、廊下ですれ違うのは学内
の生徒ばかり.一階なのに、美術を展示したいくつかの部屋は人影も疎ら.最上階に
集められた生徒のお店は、寂しさのあまり入るのもためらわれ、午後も閑古鳥が鳴い
たとか
Sep 27, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.177】
内輪の催しに夢中になることは楽しいものです.同世代の男女で賑わっている文化
祭も、青春時代の特記すべき行事として一生の思い出になるでしょう.そのような文
化祭では、むしろ生徒には、保護者の参観は違和感があるかも知れません.保護者に
とっても場違いな印象は免れません
高年者の趣味にも同じような傾向が見受けられます.さらに高年者の場合は、生活
が趣味を中心に回転し始めると、閉じた趣味の営みに、内部からも息苦しさを感じた
り孤独感におそわれる者も出始める.一方、同世代から報われる機会は減ったとして
も、進路や具体的目標が外の世界に開かれている高校生にとっては、閑散とした会場
に現われた「外部の鑑賞者」が拡張の引き金になります
評価を同世代ではなく保護者の感想に期待する、大人のお世辞ではなく専門家の批
判と激励を待ち望む、ような文化祭であれば、それもまた一生の記憶に残ると思いま
す.内輪の趣味三昧で満足を得るか、開かれた世界との関わりで自己の表現力を高め
るか----
Sep 28, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.178】
青い花瓶に挿したヒマワリの絵と、実際に青い花瓶に生けたヒマワリの違いは何で
しょう.生花は感情を移入する前に、自然の色彩と自然の形と自然の香りと、それぞ
れの花に固有の花言葉、ではなく固有の花の印象、例えばコスモスにはコスモス固有
の印象の、小菊であれば小菊固有の印象の、一分一厘の違いもなく、繰り返し放射さ
れる生花の自己主張に捕捉され、鑑賞者としての人間は自己の裁量と自己の創造力を
封緘されます
生花には寛ぎや愛着や郷愁の普遍的感情が予定されています.つまりこれが自然の
美、奢っている人間の昂ぶりを歯牙にもかけず、打ちひしがれている人間の絶望を癒
してくれる「狭量」にして「自由の対極」、現実の営為を超越した絶対者の美
青い花瓶に挿したヒマワリの油絵は、黄と青の色彩が(絵の具の色と絵筆の痕跡が)
様々な心象を喚起します.あるときは温かい雰囲気に包まれ、またある時は艶やかな
彩色に魅せられます.色彩が喚起した心象が引き金になって、油彩を展示した室内が、
鑑賞者の過去の経験と、鑑賞者の現在の表現力と、鑑賞者の現実との関わりによって
百人百様、胸中脳裏で解体され、踏踊の宇宙に拡張できます
Sep 29, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.179】
鮮やかな青を背景に、大輪の白薔薇を(または単に白い塊を)生けてある花瓶の絵
が車内の吊り広告にありました.この歳で近眼になり、加えて老眼も進み、混雑した
車内で、離れた場所に吊るしてある車内広告を見るのは大いに苦労、目を細めてもよ
く見えないのですが、金色の額に納まった花瓶の油彩らしいことは、どうやら認識で
きました.しかし美術の鑑賞は認識がぼやけても、感性までぼやける訳ではなさそう
です
通勤電車の車内は美術鑑賞には適しません.車内吊りの掲示日数は短いので、混雑
した車内で広告を一瞥した程度では、視力の衰えた人間には広告のコピーも図柄も意
味をなさない、車内吊りに印刷された絵画の写真は、週刊誌の見出し広告と変わりな
いと思われますが、実際には見出し広告と同じ色調、同じ面積の青色であっても、週
刊誌の見出し広告に使われている背景と、広告に使われている油彩の背景とは、見る
者の心象が違ってきます
Sep 30, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.180】
車内吊り広告の油彩を観たとき、すぐに背景の青の鮮やかさと、流れるような筆遣
いに惹かれ、花瓶と花の(輪郭はぼやけていましたが)白系統の彩色に魅せられまし
た.金色の額に入った油彩の、白い花らしき形と、白い花瓶らしき形、および鮮やか
な青を認めた瞬間、以前、ある画廊で、街路に向けて展示してあった青い油彩が思い
出され、その画廊の絵の記憶から玉突き状に、油彩の青が醸し出す情景が後から後か
ら湧いてくる、見えるだけでなく、想起された情景に私固有の想念が加わって、混雑
する車内を踏踊の宇宙へ描き替える
読書に我を忘れている状態とは違いがあります.読書が展開する心象は、領域の限
られた他人風景、熱中している書物が自著であったとしても、想念の中身は書物に印
刷されている一語一語に引きずられ、訪問着の晴れの日に、鑑賞者固有の歓びを生み
出すことも許されず、普段着の日常に、鑑賞者固有の自由を持ち込むことも許されま
せん.読書からは、知識と経験と思索に応じて「予定された満足」を得られ、美術か
らは、一瞥の印象を拡張する自由が得られます
Oct 01, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.181】
花瓶に生けた薔薇と、「花瓶に生けた薔薇」を描いた油彩の表現力の違い、鑑賞者
に与える影響力の違い、が明らかになってきたと思います.しかし前者の場合も、生
花ではなく花瓶に注目して、花瓶を工芸の視点で眺めた場合、生花を挿した花瓶も美
術の世界に復帰できると思います.私には生花そのものも然ることながら、生花を生
ける花瓶の方もとても大切な存在になっています.と言っても、高度な精神性を要す
る鑑賞、つまり器の奥義をきわめるような鑑賞とはおよそ無縁の、綺麗とか、色が好
きとか、形が気に入った程度の審美眼が精一杯です
スペイン製? イタリア製? 数年前、産地さえ定かでない青い花瓶を買いました.
太めの円筒が花瓶の胴、細めの円筒が挿し込み口、円周に添って幾何状の模様を描い
てある厚手の陶器、お値段は数千円程度、把手のない円筒は持ちづらいのですが、形
がよい、釉薬の青はもっとよい、落としても補充が効くのがさらによい、と満足の三
拍子.しかも、気に入ったのは花瓶の属性だけではありませんでした
Oct 02, 1997 plnssnr@reverie-prmnr