編集中記 【No.182〜No.190】
【No.182】
萎れたヒマワリを抜き去って、残っている水を捨てた青い花瓶の南欧風は好ましい
としても、花瓶固有の印象(予定されていた心象)は見慣れるとともに褪色し、花瓶
の特性を売り物にした装飾効果は、次第に花瓶の所有主の感性から抜け落ちて行きま
す.では次に花束を生ける機会が訪れるまで、青い花瓶はしまっておきますか?
花瓶の、円筒に塗られた釉薬の青、暗闇の中でも明るく輝く青い色、玄関に入ると
真っ先に釉薬の青が目に染みます
家庭内で、花を贈る必要は幾度もありましたが、我が家には過去数十年、大きい花
束を生ける花瓶がなかったので、今まではいただいた花束が大きいと、ポリバケツに
投げ込んで束を解き、小さな花瓶に分けていました.また家庭内で花束を贈るときも、
小さい花瓶に合わせていたのですが、ある記念の花束は是非大きいものを、と決めた
ので、俄かに大きい花瓶が必要となり、生まれて初めての花瓶探し.しかし、いざ買
う段になると、欲しい花瓶を見つけるのに三ヶ月もかかってしまった.それが円筒の
大小を重ねた青い花瓶
Oct 03, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.183】
青い花瓶には何回花束を生けたでしょう.生けた花束の一つ一つは、今も忠実に再
現できます.しかし、思い起こした薔薇やヒマワリは、花瓶が喚起した心象ではあっ
ても、あの薔薇はどこで買った何薔薇で、値段が高かったとか、何本咲いたが残りは
枯れたなどと興醒めもよいところ、折々の慶事の展開は、生花の残像を介してではな
く、花瓶の青に委ねます
青い花瓶を見るたびに、花瓶を買いまわった陶磁器売り場や民芸品売り場が想起さ
れ、伝統工芸の斬新なデザインに惹かれたり、ドイツの名窯や北欧の白磁に魅せられ
たその想いが前奏となって、花瓶を探すきっかけとなった○○記念の浮き立つ想いが
鮮明に現われる
青い花瓶には、その所有者に固有する歓びの想いが擦り込まれています.花瓶の青
は、過去の歓びを現在に届けてくれる時間の架橋.祝福の機会はこれからも幾度とな
く訪れますから、花瓶は鑑賞者の慶事を吸い取って、より豊かな存在に成長します
Oct 04, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.184】
いただく花束はありがたいのですが、一度に何束いただいても、増えた花束の数だ
け歓びが再現されるかというと必ずしもそうではなく、祝賀会場を後にして、自宅の
玄関を開けたときの花瓶の花に、得もいわれぬ歓びを覚え、やがて玄関の青い花瓶が
想起される祝福の象徴になります
お祝いは日常的に生じるものではありません.しかし、玄関に置かれた青い花瓶は、
鑑賞者の気持ちに応じて好きな時に、鑑賞者の表現力に応じて好きなだけ、家族の祝
宴を再現してくれます.そして、もし過去に生きるのでなければ、感傷ではなく、自
由で生命力に溢れた歓びに拡張できます
青い花瓶に挿す花束がなくなったとき、現実との交渉が途絶えたとき、鑑賞者の表
現力は「必要の欠如」と「機会の喪失」から次第に衰え、再び挿されることのない花
瓶の青に、過去の踏踊の幻を見るようになります.美術志望の子どもにとっては、美
は創造であったものが、孤独な散歩者にとっては、美は孤独を掻き立てる過去の楽興
となり、青い花瓶は玄関から片づけられ、踏踊の扉は永久に閉ざされる----
Oct 05, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.185】
先日、ある美術館に、Pablo Picasso の晩年の銅版画を見に出かけましたが、予想
通り線描の小品ばかり.中に一点、一階の暗い展示室に、精細で、剣先のとても鋭利
な小品があり、Picasso の作品を観る機会の少ない私には、この上もなく嬉しかった
のですが、その他は専門家でないと消化できないような、互いに似通った作品があま
りに多く、再び Picasso の不可思議に悩まされる結果になりました
前にお話したコギャルが二ューヨークに出かけた際 Picassoも観たという、その作
品は5人の裸婦が立ったり坐ったりしている油彩で、サイズは 244cm x 234cm、と語
りはじめるその一言で、もう十年以上も前から、是非みたいと念じていた作品が一瞬
に蘇る( Les Demoiselles d'Avignon. 1907 ).美術館を走り抜けたとはいえ、観る
ものは抜け目なく観ている現代のコギャルの羨ましさ憎らしさ
巨匠の銅版画を、観照ではなく観察しながら考えていた事は、我々が晩年に達した
ときの五百羅漢、晩年の人間模様の多彩な情景
Oct 06, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.186】
Picasso はその友人の著作から好きになった画家のためか、Picasso の銅版画を見
ていると、心象ではなく言葉が浮かんでしまいます.浮世絵の春画とは別世界の線描
に、晩年を迎えた画家の、繰り返す描画の意味と、描く対象者の関係と、制作活動の
外部との関わりに思いを馳せ、裸婦の顔の個性を、線描でなまめかしく描写する技巧
の妙に驚きながら、言葉で表現される想念を深めるには、Picasso の銅版画が最適で
あったなどと、美術鑑賞とは関係のない感想を持ち帰りました
画家も我々も、仕事の繰り返しを停止されれば、現実とのかかわりは急速に狭まり、
踏踊の扉に錆びが噴きます.我々が定年で得られるものが、待ち望んでいた楽隠居で
あり、自ら選んだ租界への入城であったとしても、客観的には「濃い現実」から「淡
い現実」への「追放」や「隔離」と区別がつかず、花瓶に生ける花の機会も、花瓶の
青が約束する踏踊への飛躍も、鑑賞者が能動的に現実と関わらない限り急速に衰えま
す.同じ主題、同じ技法、同じ大きさ、同じ画風を繰り返す画家の、心情はともかく、
その行為は優れて現実的であり、また恵まれているとも思います
Oct 07, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.187】
趣味は仕事、を我々は誇ってよいと思います.勿論、会社に勤めるその社名や役職
や功績(分業の果実)を誇るのではなく、職人(会社人間)としての知識や経験や技
能を、企業家精神を、現実の営為に関わる鍵として、画家が晩年まで繰り返し作品を
描き続ける(現実の営為)その技巧(鍵)と同じ次元で、誇ってよいと思います.晩
年の画家からは銅版画が生まれます.では我々の余生からは何が生まれるのでしょう
Oct 08, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.188】
名画を観ることによって人並みに感動したい、画家が描いた世界を「理解」するこ
とによって美術愛好家の端くれになりたい、と考えたこともありましたが、美術の解
説書を読み進んで行くにつれ、奇妙な点に気がつきました.つまり、原作を観たこと
もないのに既に作品を「理解」していたり、原作を目にしながら、作家名も題名も見
なかったため、後日、解説書を読んで初めてその絵があったことを知るなど、観照と
理解が(言葉抜きの印象と世間的評価が)分離していたのです
おかしいですね、いや大変奇妙だ、美術は色や形であって文字ではないのですから
文字の表現は原作を読まなくても、事前に解説書を読めばある程度の「理解」は得
られると思います.少し勉強した段階で原作を読みはじめても、解説書で理解した内
容と原作が生み出す理解とは、少なくとも同じ土俵にある筈です.しかし原画は何も
語ってはくれません.事前や事後に勉強し「理解した内容」は、鑑賞者が勝手に頭の
中で引用しているだけであって、仮に画家自身が原画を「解説」しても、絵には自ら
喋る能力がないために、原画が「画家の解説した内容」を忠実に反映しているかどう
かは、多数決による合意があったとしても、誰にも立証できないのです
主題を意図して描いた絵は少なくありますまい.肖像画や反戦画のいくつかもそう
でしょう.では意図して描かれた絵は意図の通りに鑑賞し理解すべきか
絵にベキ論は存在できないと思います.理解の内容まで一つに方向づけられている
絵は、美術ではなく宣伝のようであり、宣伝であっても自由に観照できる絵は美術で
あると思います.意図の通りに描かれたとされる絵も、鑑賞者は、作家の意図とは関
係なく自由に心象を描けます.画家が感性と技巧を駆使して描いた絵には、統一して
理解できるような内容は、はじめから用意されていないのだと思います
Oct 09, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.189】
原作者の意図はもとより、描かれている色や形であったとしたても、作品に縛られ
るのを好みません.強い感動を得られたとしても、閉じた世界の満足には囚われたく
ありません.Gogh よりも Picasso に踏踊の広がりを感じ、Picasso よりも Nikiに、
Nikiよりも絵の具の青と筆の流れに、より大きい自由と、自ら表現する歓びを知った
今、過去の満足に回帰するのはいかにも侘びしい.しかし、現実との強い絆があって
こその自由です.現実との絆を絶たれれば、創造し表現しようとする世界の中身も空
虚になり、再び閉じた世界に籠もることを余儀なくされます.絶たれた絆は過去に捨
て、新しい絆を協働で創り出す----
Oct 10, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.190】
今朝はよく晴れました.全天に星が煌めき、遥か遠くで、整然と並ぶマンションの
常夜灯が、夜空と地平の境を際立たせてくれます.いよいよ美術鑑賞の秋本番、通勤
電車の車内には、Gogh の特別展や、Matisse で代表させた Pompidou展のステッカー
が貼ってあります
東京圏以外の事情はよく分かりませんが、二ューヨークやパリのように、名作が所
狭しと常設展示してある美術館を国内では知りませんので、特別展と聞くとすぐに食
指が動いてしまい、いそいそ出かけては見るのですが、やはり何かが物足りない.名
作や大作が一堂に会しているとはとても思えず、欲求不満に陥っていざパリへ、と夢
ばかりが膨らみます
夢は高校生にも与えてあげたい.我が国でも、分散して展示または所有されている
名作が随所にある筈? それらを一堂に集めた常設展示場があれば、なけなしのお金
をつぎ込んで二ューヨークやパリくんだりに出かけなくても、安く、好きな時に高校
生も鑑賞できる、とこれもまた夢の夢
Oct 11, 1997 plnssnr@reverie-prmnr