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編集中記 【No.191〜No.200】

【No.191】

  題名の意味に結びつかない絵画や彫刻は、抽象の世界ではあたり前のように思われ
ます.「生きる喜び」と題された円や直線の油彩を眺めて、腕組みしている壮年の男
性が思わず漏らした言葉、「何でこの絵が生きる喜びなんだ」は率直な感想でしょう

  若い頃の鑑賞態度は違いましたが、現在の私は、絵画や彫刻を、心象の「パターン」
を喚起する媒体と考えています.該当するパターンが私の内部に欠けている場合、あ
るいは想起されるのを好まない場合、眼前の作品は一瞥で通り過ぎてしまいます

  絵画や彫刻は「わかる」「わからない」ではなく、自分が半世紀かけて形成してき
たパターンに「あう」「あわない」で応じると、肩の力が抜けてきます.そして、合
わない作品は傑作とされる作品であっても、そっとその場を通り過ぎ、合う作品は無
名であっても、大切に、いや、魅せられてしまいます

「生きる喜び」----、この言葉を聞くと明るい色彩と躍動感が想い浮かび、踏踊の扉
が一瞬で蘇ります.この種のパターンを喚起される作品であれば、元の題名は何であ
れ、私にとっての「生きる喜び」になります

                                         Oct 22, 1997  plnssnr@reverie-prmnr


【No.192】 パターン鑑賞に拠る場合は、絵画は鑑賞者を拘束しません(支配できません).映 画や演劇や小説は、見終わるまで(読み終わるまで)鑑賞者を拘束し、見終わった後 もある規模の「構築物」を鑑賞者の内部に置き去りにしますが、パターン鑑賞者にと っての美術作品は「踏踊の扉」にあたり、扉がどのようなデザインであっても、建物 全体を構築するのは鑑賞者の方ですから、建築の精神性、理念、構造、展開様式、規 模などは鑑賞者自身の創造力次第、と思われます.逆説になりますが、パターン鑑賞 には、合意され統一された中身は存在できない----.扉と建物を合わせて作品と呼び ますと、作品の完成は(完成という段階があった場合の話ですが)鑑賞者が決定し判 断すること、建物の建築に着手しない鑑賞者にとっては、絵画を、扉のデザイン以上 に評することはできないのかも知れません Oct 28, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.193】 建設中の巨大な「美術館」をご想像下さい.展示してある絵画1点1点がどれも踏 踊の扉、各扉には(絵画のデザインには)幾通りもの好みが存在しますが、好みの多 様性は(扉の多様なパターンは)「美術館」を豊かにする条件の一つであって、「美 術館」建設の妨げにはなりません.「美術館」の建設に着手しないと、絵画の好みの 違う者同士は、鑑賞の喜びを共にすることは困難になりますが、展示する絵画の数だ け現われる無数の扉から、「美術館」に入館し建設に加われば、協働の喜びに裏打ち された鑑賞の充実を共有できるようになります(括弧をつけた美術館は「現実の営為」 の比喩) Oct 30, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.194】 先月末、台東区の浅草橋から蔵前方面に歩いたところ、クリスマス用品を扱ってい る問屋とは別に、正月用品を並べている店があり、小春日和に初春気分、松飾りに奴 凧、独楽に羽子板に「つくばね」に、華やかさと艶やかさと懐かしさが一緒になって、 暫く見惚れておりました 単身の美術鑑賞は内向きです.印象を家族に話すのが精一杯で、現場の雰囲気を自 宅に持ち込むことはとてもできず、作品に直に接した鑑賞者が、自己の記憶を更新す るまでが限度です.鑑賞を援助した家族があったとしても、その家族に美術が分から なければ、単身の鑑賞者は、扉を抜けて創り上げた心象の宇宙を、孤独のうちに閉じ なければなりません 浅草橋の飾り問屋を、夫婦や家族で訪れた場合は、「つくばね」に魅せられた散歩 者の喜びを、訪問者全員が共有でき、飾り問屋に案内した散歩者は、飾りから直接得 られる喜びのほかに、同伴者の喜びの表情からも満たされます 展開力の優れた散歩者であれば、同伴した家族の情景も脳裏に刻み、建設中の「美 術館」をより豊かに彩色できます.感受性の優れた家族であれば、「美術館」は家族 の脳裏に複写され、心象の連鎖によって建物の規模を拡大できます.では、配偶者や 子や孫のいない散歩者や、飾りに無関心な家族をもった散歩者はどうしたらよいか? 言葉----? 確かに言葉は心象の連鎖の強力な鉤ですが、仮に同じ思想、同じ理念 であったとしても、表現や肌合いの僅かな違いが、心からの共感を妨げます Nov 05, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.195】 美術のサークル活動は、日常生活の波長に一定の影響を及ぼします.しかし我がま まが効く----、いえ、自己主張を他者の主張に優先させられる(あるいは「やめる」 などの方法によって他者の自己主張を回避できる)ので、サークル活動は鉤となる言 葉の表情に(恣意と顔触れに)色濃く支配されます サークル活動が美術専攻の学校に替わると、生活に対する拘束力は飛躍的に高まり ます.就学目的の達成を、卒業という「表情の統一された言葉」によって義務化され、 友人関係の集散を繰り返しながらも、美術への関わりを実り豊かに育み、学内生活を 柱とする「不自由な営み」がしっかり根を張ります 単に趣味で鑑賞する美術と、美術学校の生活の中で鑑賞する美術では(情報を自分 で集め、一人で出かける美術鑑賞と、豊富な情報のもと、自己の生活に優先的に課せ られ、しかも気の合った仲間だけでなく、同窓としての集団と現実的に関わりながら、 単身あるいは一緒に出かける美術鑑賞では)充実度だけでなく、生活様式においても 大きな違いが現われてきます Nov 06, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.196】 現役当時の、協働と相互依存の関係は、自由な選択の最も大きな枷になります.特 に職業に関する決定は、環境と状況によって選択肢を限られてしまうので、裁量の余 地は少ないと思います.個人の生活も同じです.夫にも妻にも、子育てを放棄する自 由はありません.家族生活は、事前に轍(労働と子育て)を予定され、その跡追いを 義務づけられているのが一般です.家族生活に独創の余地はありません.しかし、幾 千年もの間、引き継がれてきたこの定型の生活が、生きる喜びの「最大の源泉」でも あるのですから、定型が崩れ、例えば職を辞せば、就労からの自由と引き換えに、労 働の喜びを取り上げられ、離婚や病死で配偶者を失えば、妻や夫からの自由と引き換 えに、配偶者を思い遣り夫婦で労り合い機会も失われてしまいます 引退によって得られる自由には、働きかける対象が用意されていません.過去には 関心の薄かった美術館に足を運び、作品の「真意」を尋ね、哲学的解釈や情緒的満足 を得ようとするのも、現役時代の熱い想いを果たすのではなく、もてあます時間を埋 めるためのやむなき仕儀、である場合が少なくないと思います.引退者には、美術を 鑑賞する施設や作品と同時に、心象の美術館を育む「絆」が必要になると思います Nov 12, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.197】 同じ作家の作品でも、好きな作品と関心のない作品があります.関心のある作品は、 わざわざ海外へ出かけてでも見てみたい.好きな作品は、写真を見ただけでも満たさ れてしまう.病膏肓に入るとはこのことを言うのでしょう.しかし私の場合、もし家 族が欠けていたら、好きな作品をここまで好きになることは出来なかったと思います 好きな作品を一目見れば(踏踊の扉を開けば)、妻と子(複数)との関わりが、さ らに子の祖父母や子の友達との関わりが生き生きと蘇ります.とても孤独な鑑賞者に は、例えば少年時代の、単に絵の好きだった私には、実現できない豊かさであり喜び であると思います 生まれた子を次々と手放したルソーにも、この豊かさは訪れなかった----.「孤独 な散歩者の夢想」には(晩年の哲学者の自然との関わりには)強く打たれるものがあ りますが、考えの基本の部分で大きな違いも感じます.それは、好きでたまらない作 品の、作家に心酔している訳ではないのと同じです.私にとっての美術鑑賞は、文書 表現と同様に、受け入れるだけでなく、創り出すことをも意味しているのですから、 仮に自分が作家のコピーになれたとしても、嬉しいことはありません 自ら孤独を求める----(孤独へと逃避する? 配偶者を求めない? 家族生活を顧 みない? 高年者であれば、新たな絆づくりを避ける? 周囲が絆づくりを援助しな い?)ことは、社会的背景にもっともな理由があったとしても、美を求めながら美を 疎んじる矛盾に突きあたってしまいます.この矛盾は、当事者が独力で解消できるほ ど易くはなさそうです Nov 14, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.198】 趣味やスポーツから得られる充実を、手放したくはありませんが、日常の、平凡な 生活から得られる内面の満足も(時間とともに醗酵し熟成する豊かな心象も)捨てた ものではありません.では、どうしたら「豊かな心象」を創り出すことが出来るので しょう.言葉で表現する? それは不自由です.絵に描く? 好みに支配されます. 作曲する? 拡張する余地が限られてしまいます.言葉と絵と音楽を同時に取り込め るような、大規模な心象を展開する場合も、必要なのは、普通の生活に「現実の営為」 を一つ加えるだけではありますまいか.ここでの「営み」には、趣味や考えの不一致 は障害ではなく、知識や経験や表現力や世代の違いも、協働作業が補ってくれると思 います Nov 19, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.199】 作品を観たときの印象は、鑑賞者の資質や知識や経験によって様々に変わりますか ら、同じ作品に魅せられている二人の、印象の中身が同じであるとは必ずしも言えな いと思います.「庭に咲く白い野薔薇」の油彩に、孤独を感じ、もの淋しさに耽って いる鑑賞者の傍らで、野薔薇を描写する生き生きとした筆遣いに、気持ちの昂りを感 じている鑑賞者がいたとしても不思議はありますまい 美術には、特に抽象的作品には、鑑賞者個々の内面でどのような色模様が展開され ているのか、その色合いを尋ねられては困るような、つまり「わかる、わからない」 の問題が見え隠れしているようです 文字で表現されている作品の、意味を読みとることは比較的容易だと思いますが、 抽象画には、表現されている筈の意味を探し出すのに苦労させられます.分かろうと 構えている鑑賞者が、当然ある筈だと思い込んでいる「絵の意味」が、抽象的作品に は見あたらりないことがあるのです.「具体的意味」や「納得できる解釈」を期待し て絵画に接すると、確かに抽象的作品には「わらない」ことが多すぎます Nov 25, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.200】 抽象的絵画の「表現の中身」を深く解釈して、抽象的作品に「哲学的解釈」を試み ようとする鑑賞者もいます.それも美術の楽しみの一つです.反対に、作者が哲学的 意味をこめて制作した作品であっても、表現は作者の意図を離れて一人歩きするとさ れますから、「制作意図の説明文」を作品に添えて展示してある作品を除き、絵画や 彫刻の鑑賞は、作者の意図に縛られる必要はないと思います 作品から「意味」を読み取ることのできる鑑賞者は、作品を解釈する楽しみも得ら れるでしょう.また、制作意図や、作者の生い立ちや、時代背景が分らないと楽しめ ない作品もあります.それに対して、意味や解釈を迂回した作品を、私は抽象美術、 鑑賞する側にとっての抽象美術、と考えています 同様に、いわゆる抽象画と称される作品であっても、考え込まないと理解できない 作品を、私は抽象画とは呼ばずに「哲学画」「解釈画」などと呼ぶことにしています. 反対に、一般に具象とされる絵画や彫刻の中にも、抽象美術があると思っています 一目見るだけで、意味や解釈や、時には「美」からも解放され「踏踊の世界」へ飛 躍できる作品、「踏踊の世界」の扉にあたる作品、これが私にとっての抽象美術です. 私の言う抽象美術では、具象の色付けをするのは鑑賞者の側なのです.Matisse の場 合 Figure Decorative Sur Fond Ornementalは具象画、La Blouse Roumaineは抽象画 と考えています.前者は、作品を仔細に観察しても、なかなか扉は開きませんが、後 者は、展示室の、この絵の掲示場所とは反対の入口から見ただけで「踏踊の世界」に 入り込んでしまいます Nov 26, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
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