編集中記 【No.201〜No.210】
【No.201】
白磁のポットは、日常の生活に潤いを与えてくれます.晩餐であれブランチであれ、
白磁は、宴の雰囲気に溶け込んで華やかに輝き、宴が果てると、食卓から片づけられ
記憶の外へ追いやられます.一方、Cezanne の描く白磁は、実際の白磁の最も美しい
瞬間を画布に定着させたような、一度観ると美しいままこびりついて、後でいくら振
り払っても頭から拭い去ることができません
Picasso の、目や花や口を動かした画像(対象をデフォルメした油彩)や晩年の線
描は、表現の意図や被写体の特徴が一層強くせり出して、Cezanne では美としてこび
りついたものが、Picasso の、特に顔の描画では個性の類型として、以後、その種の
個性は、他者が描けば「亜流」を感じさせてしまうほど強烈に、頭にこびりついて離
れません
Cezanne は美の瞬間の中に鑑賞者を閉じ込め、Picasso は個性の類型の中に鑑賞者
を引きずり込む、その美しさを定着させる技巧や、個性を抉り出す感覚は、恐ろしい
ほどだと思います
作品に支配されることで自足する鑑賞態度、例えば耽美、自己耽溺、哲学的思い入
れ、自己沈潜、孤独、さらには「癒し」を求める心境にあれば、極限を定着させた具
象画が、「癒し」に対しては仏像やピエタ像が(音楽ではモーツァルトのハ短調やニ
短調の未完の曲が)相応しいと思います.それは好みの問題というよりも、年齢、経
験、環境、各自の置かれている状況、およびその心境に至る経緯によって選択させら
れるのだと思います.私の考えている具象と抽象の違いも、「耽美や思い入れや癒し」
と「踏踊」の違いも、「あれかこれか」でないことは言うまでもありません
Nov 28, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.202】
優れた写実画を豪華な額に嵌め込み、照明を効果的に配した油彩は光り輝き、美を
心から堪能できるでしょう.あるいは茶室に生けられた侘助から、別様の美しさを知
ることができるかも知れません.極限まで凝集された美は、確かに魅力に溢れていま
す.しかし、来る日も来る日も無為の生活の繰り返しだと、美の極致にあった筈の作
品も色褪せて見え、感激が薄れてくるのではありますまいか
緊迫した状況下では、何度聴いても染み入るほど美しく感じていたミサ曲も、状況
に屈したり、あるいは状況が好転した場合は、その曲から遠ざかってしまうことが起
こります.同様に美術の場合も、毎日同じ状況下で、求めるだけの鑑賞に終始すると、
躍り上がるような歓びの機会も減ってしまう、それを私は恐れます
現実の営為の、動きが鈍り範囲が狭まり、日程を消化するだけの生活になっても、
果たして「踏踊」は可能でしょうか.もし鑑賞する側に、創造の欲求や自由の衝動が
閉じ込められているのであれば、無聊を慰めるだけの美術鑑賞では満たされないと思
います
抽象的な作品には、描かれているモノが牡牛であったり、造られている立体が体の
一部であることを、美術館を後にしてから知ることが少なくありません.一目観て満
たされた Miro の「闘牛」の、具象性を意識させないで惹きつけられる、その感受性
をいつまでも持ち続けるには、家族をはじめとする人々との係わりと、生き生きとし
た生活が欠かせないのではありますまいか.美術の鑑賞も、その折々の生活と無縁で
はない? 仏像やミサ曲への帰依が「復帰」するのは、誰にとっても時間の問題でし
ょうが、抽象的作品に欠かせない(と私が思っている)現実の営為は、幸運にも、意
識的に働きかけ主体的に参画する「選択」として与えられているのです
Dec 05, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.203】
美術の好きな子に誰が好きかと問うと、近代現代の作家の名前が後から後から挙が
ってきます.それでもまだ、好きであった筈の名が欠けているので確かめると、それ
も好き、あれも好き、という、そのいずれもが美術館で作品を観た作家ですから、さ
らに多くの美術展に出かければ、好きになる作家も一層増えると思います
好きな作家の中でも、好きでない画風があるらしいことは想像できますが、同じ近
代や現代でも、巨匠とされる何人かの名前が、幾度も美術館で観た筈なのに挙がりま
せん.ということは、名ではなく、実際に作品を観て好きになった、その好きな作家
が豊富にあることが羨ましく、美術の世界が膨らんでいく子らの姿に、私までが嬉し
くなって、美術好きの子には誰であっても、実物を一つでも多く観せてやりたいと願
い、またこのように願うことが、美術を愛する歓びの一つであると想います
何ができるのでしょう? 子育てから解放され現役を引いた後、貪欲に歓びを得る
には何ができるか----、よくわかりません.まあ、当分は子らに引かれて美術展詣で、
美術展の参詣はお金もかかり足場も不便なことがあるので、子らだけでは出かけられ
ない企画展に案内するのが関の山(子らに、機会を組織的に提供する骨折りは、高年
にとっても歓びになると想います)
Dec 11, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.204】
年末の休みに、一泊ですが、泊りがけで美術館に出かけます
高二の子の美術館見学旅行が刺激になって、この11月、その子の祖父母がニュージ
ーランドとオーストラリアに何年ぶりかの海外旅行、出発日の、午後三時まで仕事に
追われていた77歳は、往路の飛行機で熟睡し疲れがとれ、衰えを心配していた81歳も、
帰国後ふたたび元気になり、それでは皆で出かけましょう、と、なりました
帰国した77歳から「お父さんは衰えた」と言われた時は、旅行が負担になったのか
と、一瞬、血の気が引きました.得意だった計算を億劫がり、ちょっとした手続きに
も立ち往生するという、しかしそれは旅行前からであって、むしろ孫への土産物を買
うための、熱意や下調べの周到さや、帰国後一ヶ月経った今の活力から考えると、二
人の旅行は成功だったと思います
この時期に再び----? そう、今だから行くのです.明日のことはわかりません.
それは五十年間、事業に携わり、常に明日が闇であり続けた二人もよく知っているこ
とです.行けるときに行って欲しい、これが家族の願いです
子らが小さかった頃は、3世帯12人で旅行に出かけたこともありました.しかし、
今回は働きだした子もいるので、6人集めるのがやっとです.すぐに手洗いに行ける
ようにと、鉄道を使うため、車より割高で、動きまわるのも不便です
前回の家族旅行はいつでしたか? 本当に久しぶり----
日本画を描くのが好きな一人、デザイン志望の一人(作者が自足するまで制作し続
けるのが美術=食うのが大変.観客を特定して計算通り制作するのデザイン=厳しい
批判にさらされる、と、この子に教えられました)、大昔に美術クラブに属していた
一人、美術好きのオジサン一人、美術より温泉が好きな一人、この日に限って合宿も
バイトもなかったので、行けと言われて渋々の一人、の総勢6人.旅館は美術館から
徒歩10分、部屋数11の和風です
Dec 18, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.205】
身内に贈り物をする時は、結果が分かるので慎重を要します.折角あれこれ悩んで
贈ったのに、使ってもらわなければがっかりでしょう.特に結婚記念日や両親の誕生
日の贈り物が、本人の好みに合わずお蔵入りでは泣けてしまいます
子を除く身内に、心を籠めて贈り物をする品物は、花束、アクセサリー、または磁
器----、いろいろ経験を重ねた結果、このいずれかに落ち着きました.花束は今も当
たり外れを経験しますが、アクセサリーと磁器は、いずれもブランドが決まっている
ので選ぶだけ----、ではありません.同じ画家の作品でも、好き嫌いがあるように、
同じ工房の作品でも、吟味して選ばないと気持ちが生かされません.贈り物選びは美
観が問われます.妻に対する贈り物であれば、夫の結婚観や人生観も現われてしまい
ます.以下は「美術」の話の延長としてお読み下さい
アクセサリーも工芸品も売り場が大切、最高のお店を選ぶことです.同じブランド
の直営店であっても、品揃いの貧弱なお店では、満足を得る機会が減ってしまう、と
なりますと、深刻な問題に直面します.どのような服装で出かけるか、ということで
す.美術館は、他人に不快感を与えなければ、身なりは本人の自由でよいのですが、
装飾品や工芸品のお店では、服装を誤ると鑑賞の機会を逸します
白のワイシャツは、スーパーで真新しいものを買って着ます.ネクタイは、海外土
産の、渋く極上品を選びます.胸元はこれで完了.背広は着古しでよし.ズボンは裾
だけアイロンをかける.妻への贈り物選びでしたら、出来るだけ自分でアイロンをか
けて下さい.スーツの上から、脛まで届く黒のコートを着込めば出来上がり.工芸品
売り場で、汗をかいているのに、黒いコートを脱がない(脱げない)でウロウロして
いる男がいたら、私かも?
足元の、靴が最も大切です.この時のために、よい靴を一足用意しておくのがよい
のですが、ないものはしょうがないですから、店内では、足元を見られないように逃
げ回って下さい
Dec 24, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【No.206】
20年ほど昔のこと、業界違いでしたが工芸品について調べる機会があったので、国
内および欧州の名窯や作家や専門店を、短期に集中して調査、訪問、取材したことが
あります.当時はまだ美術に親しんでいた訳ではなく、また自ら望んでも、仕事を選
べる立場にはなかったので、特に欧州出張を認められたことは、体重の一割ほど贅肉
が落ちたこともあって、僥倖以外の何物でもなかったと思います.敢えて贅沢を言わ
せてもらえば、冷戦の終焉は、その徴候さえ見えなかった時代のこと、東側に位置し
ていた工房を見学できなかったことが残念でした
民芸には手が回らなかったので、工業生産の量産品、および工房や作家の作品を、
国内は関東から鹿児島まで----、そう言えば「せらみっくす」という言葉を聞き、焼
き物が先端技術に関わっていることを知ったのも工場見学の折でした.他業界の人間
ということで、訪問した企業側も安心して見学やら質問に応じてもらい、底は浅かっ
たのですが、視野だけは、斯界の営業マンより広がっていたのかも知れません
遠隔地の陶芸の先生を訪問した折は、大学に通っている娘さんの車で送り迎えされ、
恐縮したこともありました.それまでは陶芸の先生を何か特別な存在と思っていたの
で、余りの気さくさに戸惑ってしまったほどです.他にも先生と呼ばれる人々の好意
を受け、本人は喜んでおりましたが、美しさだけでは食べてはいけない、という現実
に気づくには、まだ経験不足だったのでしょう
京都の、「箱」や「器」の先生を訪れた時は、家元の世界を眺めるもう一つの視座
を教えられ、同時に古美術に分類される高価な器やお道具も、実際に使われることが
あると聞かされ、妙に納得した記憶もあります.高価な器や道具は、飾って鑑賞する
だけでなく使われるために制作される.一客数十万円の器であっても、紅茶や珈琲を
飲むために供される----
裏を返せば、稀少貴重な器や道具は、保管する場所がなく、特別な機会でも釣り合
いがとれない我々庶民にとっては、美術館で鑑賞できる美術品よりも、はるかに近寄
り難い存在です
Jan 07, 1998 plnssnr@reverie-prmnr
【No.207】
単純さを極限まで追究した器や、質素な筆遣いの染付けは、和風の磁器で頻繁に見
かける意匠です.同じ磁器であっても、輸出を意識した作品や意図的に真似た器を別
にすると、作品の形と絵模様に、洋の東西の、雰囲気の違いがはっきり認められるよ
うに思います
名窯でも、伝統と現代の、二系統の意匠を揃えている工房があります.そのような
窯の作品で、雑誌等に多色刷りで紹介されている伝統意匠の豪華な器が、アンティー
ク調のテーブルに無造作に置かれ、照明を白磁に映し、燦々と耀いている姿は、見事
としか言いようがありません.しかし私の好みは今は「現代」、自宅で、実際に熱い
珈琲を注げば、寛ぎの極みを味わえると感じ、喉から手の出るほど欲しかった現代意
匠の器が、北欧好みの私には珍しく、南欧の名窯にありました
一客○万円! 夫婦で楽しむのですから二客で2×○万円----! ウ〜〜〜ム 店
内を往きつ戻りつ、考え込んでしまいました.同じ系統の意匠で、一桁安い器もあり
ましたが違いは歴然、それでは満足できません.珈琲を飲むのですから蓋は余計、蓋
がなかったら何割かは安くなる、それでも「2×○万円」の何割引き、まだまだ高い、
などと、蓋抜きで売ってくれる筈もないのに、未練がましく右往左往.一度は上客と
思ったのでしょう、声を掛けてくれた店員も、二度目は知らん顔され、すごすごと引
き返したのが昨年の師走の話.しかし心では、いつかは買う! 必ず買う! と決め
ていました
工芸の名品は、需要がある限り生産されます.美術品の版画と違い「限定○個」と
いう制限もありません----.工芸の世界では、限定生産は許されてはならないと思い
ます.一国に一店舗限りであっても、常に展示し続け、百年の単位で供給を約束され
ている作品こそが、私にとっての名品です
Jan 14, 1998 plnssnr@reverie-prmnr
【No.208】
工芸器を美術と考え、置き場所を吟味した上で、飾って鑑賞するだけの楽しみ方も
確かにあります.工芸品に曰く因縁を積み重ね、三重四重に箱書きを重ねれば、工芸
品本体は箱の奥に秘蔵し、年に一度も現物を観る機会がなかったとしても、所蔵して
いる意識だけで楽しむことが可能です
しかし展示場所や保管場所も碌にない我が家では、高価な工芸品は飾ってもしっく
りしません.また「現代もの」が好きになっている今、骨董品の関心も薄いので(自
身の足跡で築いた骨董品ではなく、他者の思いの籠った骨董品に対する執着も乏しい
ので)、蒐集や秘蔵だけが目的の道具や器には、資料的興味は貪欲にありますが、あ
まり熱心にはなれません
踏踊の扉に相当する美術鑑賞のように(楽譜を秘蔵するのではなく、楽器で演奏す
るのを楽しむように)、実際に使うことで幸福を得られ、使い続けることで喜びを蓄
積できるような「生活様式」の、その象徴となる器や道具を、私は工芸品と考えてい
ます.例えば----
Jan 21, 1998 plnssnr@reverie-prmnr
【No.209】
業界別に大規模な展示会が開催される欧州のある都市で、磁器とガラス器の専門店
を観察した際の「太古」の印象です.国内の専門店の要領で、即物的に品定めを始め
たところ、単品で見る限りそれほどのことはない.日本では量販店で扱われている日
用雑器の類が、品数と種類を極端に絞っていかにも恭しく並べてある.この専門店の
ように、我々の感覚では使い捨てと思われる器でも大切に扱う国と、一まとめにセト
モノと呼び、磁器を惜しげもなく使い捨てにできる産地国の、原料事情や伝統の違い
は理解していましたが、消費習慣に占める専門店の位置づけと展示の方法、および用
意してある印刷物の意味するものがいかにも新鮮で、興味を掻き立てられました
食事に供する器は、我が国でもセットが基本だと思いますが、我が国のセットは員
数分の個数を指すのであって、デザインの、空間と、さらには時間的統一という感覚
は、「器」の好み以前に、食生活そのものに見られない?と思います.茶懐石や普茶
等を除く我々「一般の生活」では、食器は、料理や食卓の場に応じて自由に選び、こ
だわりをもって収集した単品の、相互の調和と食卓に与える効果に腐心、購入態度で
は、気に入った器の単品を気分に応じて買い足していけばよいのですから、販売店側
が、単品の品揃えの質と豊富さを、顧客の好みに応じる最良の策と考えるのも尤もだ
と思います
一方、私が観察した専門店は、新婚を基本に据えて品を揃え、販売促進を繰り広げ、
それも家族の食卓を想定した陳列であり装飾であったように思います.さらに店が用
意した器の種類の一覧表に、友人や親戚が、自分の贈る分担を書き込めば、もとより
結婚時だけで完璧なセットを揃えられる筈はないでしょうが、贈られる新婚側は、結
婚祝いに「フルセットをイメージした食器一式」を受け取れる、新婚時からフルセッ
トに準じた食器を揃え、折々の家族の集いに、その夫婦の足跡を象徴する器で食事が
できる、欠けた器は専門店の常備在庫から補充できますから、金婚の食卓でも、新婚
当時のテーブルが再現できる----
今は「世界は一つ」と称されるように、いずれの社会でも、伝統とか習慣は解体さ
れるのが当然なのかも知れません.しかし踏踊の世界にあっては、一度、付加された
情景は、繰り返し再生されなければ楽しめませんから、付加し付加されるのは歓迎で
すが、「自らの発想と自らの学習」で構築してきたフルセットは、時代であれ環境で
あれ状況であれ当事者の浅慮であれ、そう簡単に分解し解体されては困るのです.結
婚時の器一式に付加してきた「パターン」も同じであって、美は50年かけて、自らが
創り出すものではありますまいか
Jan 29, 1998 plnssnr@reverie-prmnr
【No.210】
一般家庭で伝統美というと大仰に聞こえます.しかし様式美であれば、家庭であっ
ても各自の美感に従って意図的に積み上げることは可能です.室内装飾や工芸品の蒐
集だけで生活を飾ることはできません.また節句や祭りや正月のような伝統行事、お
宮参りに誕生日、冠婚葬祭の折々に演じる美の装いだけで、満ち足りる訳には行きま
すまい.既存の枠組みで十分と感じている人々は、幸運に恵まれているか、創り出す
充実を忘れたか----.老いて、単身を余儀なくされた生活であっても、享受できる様
式美とは? このことも考慮しながら、さらに美・談義を続けます
Feb 05, 1998 plnssnr@reverie-prmnr