編集中記 【No.211〜No.220】
【No.211】
折に触れて、器を贈ったり贈られたりすることが多い我々の生活では、統一を図る
るより、様々な器を、調和を考えて並べようとすることが少なくありません.欠けた
器を補充するより、新たな器を探す方が楽しいですから、食器棚や飾り棚は益々多彩
なデザインで満たされます.これを総花的様式美とでも呼びましょう
花束が多数集まり、部屋が薔薇やカーネーションやチューリップやストック等いろ
いろな花で埋まり、赤やピンクや橙や黄色や白と咲き誇っている様子は美しいもので
す.しかし近年は、総花の寄せ集めよりも、限られた種類の花が、吟味された器に生
けられている方が、美しいと思うことも少なくありません
以前は花束は、その場で考え、そのつど選んだものでしたが、今は特定の考えに従
って絞り込んでしまいます.多種多彩な花束は、もったいないという気持ちと、鬱陶
しさが複雑に混じりあって、落ちつき失ってしまうことがあるからです
私の場合、様式美に対する感受性が以前とは違ってきたのを自覚しています.花屋
であれ贈り主であれ、他者の感覚で寄せ集めた花束には満足できなくなりました.花
を束ねる他者には、器と場所への配慮が出来ません.また、贈る状況にもよりますが、
内々の場合は、華麗な包装も演技過剰に思えます.踏踊に必要な花卉は、飾る様式も
吟味されますから、総花では過不足が生じます.美は花束一つであっても、ある種の
厳しさが必要です
Feb 11, 1998 plnssnr@reverie-prmnr
【No.212】
様式美には、内的に自由である筈の踏踊に枠を嵌め、再現される情景を一つの型に
限ってしまう制約があります.自由とはもともと、資質や状況など多くの因子に拘束
された箱庭内での自由ですから、選択権が個人に属する限り、様式美の制約など取る
に足らないことですが、様式美が生活習慣と結びつき、個人の美感に強い拘束力を及
ぼすようになると、総花美同様、鬱陶しさを感じます
色や音の様式美には、すでに無数の種類が用意されています.あり余ると言っても
よいでしょう.これほど豊かでありながら、一歩、生活習慣に踏み込みますと、個人
が蓄積させてきた美感は一顧だにされず、本人の美感と「似て非なる」程度はよい方
で、まったく相容れない様式美に振り回されることも珍しくありません
従来の鑑賞の足場を外されて、突然、真新しい扉を用意されますと、どのように練
達した鑑賞者であっても、戸惑ってしまうような状況が存在します.その折、我々一
般にとっては尚更ですが、突発した扉に向けて、短時日で、独自の舞台装置を用意す
ることは不可能です.これが我々も、内的に美を様式化させなければならない理由で
すが、内的な様式美には、音と色だけでなく、文字の表現も必要としている点で厄介
です
先週の土曜日朝一番で、東京都現代美術館の企画展「イタリア美術1945−1995 見
えるものと見えないもの」を観に行きましたが、期待は見事に的中し、地下駐車場は
ガラガラ、あの広い企画展示場も我々3人以外は、何と人っ子一人いないカラカラ、
展示室ごとに、椅子に腰掛けて監視している職員の無聊を慰めるために、我々が鑑賞
の素材になったのも同然でした
その前の日曜日は、場所と時間に特別な事情があったので、休日には出かけない筈
だった都心のデパートへ出かけ、印象派の著名な作品を展示したコートールド・コレ
クション展を観てきましたが、期待しなかった通り、駐車場は混み混み、展示場は芋
の子を洗うようで、人の流れに押されるため、展示品に倒れこまないようにと、足を
踏ん張っているのが精一杯.結局、見えるイタリアの現代美術は見えましたが、見え
ないコートールド・コレクションは見えませんでした
Feb 19, 1998 plnssnr@reverie-prmnr
【No.213】
美術の鑑賞には、静寂と、前後の空間が必要になります.雑踏の中で揉まれながら
観照することは出来ません.作品の前を前後して距離を計り、最も焦点の合った位置
を探します.焦点の合う位置は一個所とは限りませんから、気に入った作品の前では、
佇むだけでなく、近づいたり離れたりと、自由に動きたいのですが、すし詰めの展覧
会ではとても無理、これが人気のある美術展に泣かされる理由です
表現する際の集中は並みではありますまい.作品には、絵画でも楽曲でも、制作者
の高度な技術と、集中と、精神性とが籠められていると思います.だから恐れ多い、
などとは夢にも思いませんが、表現者の「集中」や「緊張」を感受できたときの感動
には特別な喜びがあります.芸術家本人が、その時その時の最良の環境で(例えば好
きな音楽を聴きながら)制作した作品を、喧騒や雑踏の展覧会で感受するには、制作
者本人を何倍も上回る高度な表現技法を身につけなればなりますまい.難儀なことで
す、名のある美術展は
極限に追い遣られた瞬間に、崩れてしまうような様式美であれば、生涯の支えには
なりますまい.表現活動は晩年に至るまで、無為を退け、無聊に対する橋頭堡になる
と信じていても、倒壊や喪失の、肉体および精神への干渉は相当に強く、いかに美術
が好きであっても、自己はもとより、他者の倒壊や喪失を目の当たりすると、もしそ
れが様式化されていなければ、今までに培ってきた踏踊の技術も、忽ち効力を失って
しまうと思います
Feb 26, 1998 plnssnr@reverie-prmnr
【No.214】
美術館には展示作品だけでなく建物や庭まで、趣向をこらしてあります.美術は美
術品だけではない.これが文学表現とも音楽表現とも距離を置く美術の特徴だと思い
ます.踏踊の美は自己装飾の美とは一線を画します.意識を美と一にすること、自己
を要素として、自己の認識界と感性界と知覚界全体で舞い踊るのが踏踊の美です
交響曲であれば目を瞑っていても、文字の表現であれば没頭し、映画や演劇であれ
ば没我してこそ、感激に浸ることができますが、美術は対象(作品)の生殺与奪を、
客観的には「舞台」が、主観的には踏踊の世界の充実と広がりが、あるいはパターン
鑑賞の訓練と多様性が握っています
美術の美は関係のあり方そのものです.表現者としての役割を除けば、鑑賞者(自
己)も要素に過ぎません.誘因の強弱を除けば、傑作も部分に過ぎません.自己の属
する環境と関係を読み取って、自己の脳裏に再生し表現させる巨大な宇宙、その宇宙
の「典型」を複写し手渡しできるのが様式美、継承できるのが伝統美、当然、美の踏
踊には、美術館の趣向が、つまり環境と状況の美が、幾重にも必要になります
Mar 05, 1998 plnssnr@reverie-prmnr
【No.215】
環境と状況の美に対して我々は無関心です.借景の美は滅びました.もともと借景
の組み込みは、権力の陶酔美に属していたのですら、我々市民が自我の厚化粧に拘り、
室内装飾を貪り、環境美と状況美の視点を欠いたのも、恣意や惰性の当然の帰結だと
思います
先日は佐倉市立美術館の企画展で、現在活躍している作家数名の作品を観て来まし
たが、作品個々を鑑賞する前に、一つの美術展でありながら、作品相互の脈絡をどの
ように感受すべきか戸惑ってしまいました.狭い空間に、油と、胡粉と、鉄と、音が、
素材毎に作家を変えて展示してあるので、状況や環境を顧みる以前に、美術展そのも
のの熟れの点でも、消化不良気味です
例えばある種の課題音楽は、多くの人々の協働のもと、数百年の歳月を費やして築
き上げた構築物で演奏されてこそ、美を感受できるのだと思います.楽曲は単一です
が、個々の感受性は状況と個性に従って、ある者は結婚を喜び、ある者は出産を謝し、
またある者は別離の悲しみを美に託す.課題音楽を多様な様式美の一つと考え、協働
を状況に、構築物を環境に置き換えてみれば、「踏踊」の理解に役立つと思います
Mar 12, 1998 plnssnr@reverie-prmnr
【No.216】
メーリングリスト内ではすでにお話してありますが、昨年3月に開設したこのリス
トの名前の由来を、ご参考までに「編集中記」でも触れておきます
「孤独な散歩者の夢想」岩波文庫版(昭和39年7月10日第5刷を参照しています)の翻
訳者は、管理人の大学時代の仏語の先生でしたが、未熟な学生を前にして、なぜ先生
がこの本を教材にとりあげたかを、社会に出た頃も、今も、ずっと考え続けています
この本の原著者(1712〜1778)は、思想的にいろいろ取り沙汰されている人で、生
まれた我が子を、続けて孤児院に送り込んだことでも知られています.因みに第5刷
の略注 185頁には「-----1745年に-----と結ばれ、それ以後テレーズと同棲して----
--(----正式に結婚)、生まれた子供はみな孤児院へ送った-------」とあり、また198
頁には「1746 -----ルソーの第一子出生。孤児院に送られる。(その後生まれた子供
も同じ運命を辿る。)」ともあります
リストの名前を「孤独な」を取り去り「散歩者の夢想」にしたのは、この行為を意
識してのことです.単に「晩年に、自然の中を散策しながら、夢想に耽る」という意
味でしたら、古典の原著者を連想してしまうこの名前は、とても採用できなかったと
思います
リスト内で連載し、今回出版することになった随想も、やはり「孤独な」を取り去
った「子ども」に主題を置いています
※試行錯誤の結果、リストの案内文を変えることがありますので、「編集中記」の
リストに関する言及も、現在の活動と食い違うことがあります
Jul 14, 1998 plnssnr@reverie-prmnr
【No.217】
ご参考:Ghost のご紹介です
今度の本の筆者は島田一郎といいます.巷では筆名という風に考えられております
が、実は Ghost の本なのです.いえ、私の ghost writer ではなく、私が Ghost の
ghost writer、 島田一郎は Ghost なのです----
誰の ghost? さあ、わかりません.十数年前に初めてあったときは名前がなかっ
たので、シマッタヤロウダ、と思ったのが島田になり、ヤロウなら男であろう、では
一郎が簡単で手っ取り早い----
さあ、Ghost よ、皆さんに、ご挨拶を----
「----------------------------------------------」
え! 見えませんでした? 聞こえなかった? オヤオヤ 手間がかかりますね.そ
んなこともあろうかと、Ghost の写真は 裏表紙カバーの裏側に印刷しておきました.
でも、ウツルンデスで撮ったときは、透けてしまって影も形も分かりませんでしたの
で、今回も見えるかどうか----? 経歴に関しても、Ghost 本人がはっきり言わない
ので載せることができませんでした.以上ですが、Ghost をよろしく、お願い申し上
げます
Aug 05, 1998 plnssnr@reverie-prmnr
【No.218】
「連載の参加者」と「談笑の参加者」
まだどちらも参加者は少数ですが、2つのMLの参加者の傾向について、印象を触
れておきます.参加者全体の半数は「連載を読むだけ」の参加者です
2つのMLに同時に参加している人は僅かで、それも「連載だけ」または「談笑だ
け」に切り替わってしまう傾向が窺われます
参加者全体の半数は「談笑だけ」の参加者です.しかしその1/3は入会以来一度
も発言せず、その他も入会時に発言するだけで、やがて「談笑だけ」の参加者も「談
笑を読むだけ」になってしまいます
「談笑」の参加者でも「継続して発言」する人はごく僅かです.その中の限られた人
が「発言を支配」する傾向にあります.継続発言者の中に、「読むだけの参加者に不
満」を表明する例がありました
特に高年者、またパソコンの初心者の中に「挨拶や返事を強いられるのは苦手だが、
電子メールが途絶えるのは寂しい」と感じている参加者がいるようです(私のMLで
は読むだけの参加者も歓迎しています)
「談笑」は、初めは案内文の趣旨に添った発言ですが、やがて話題自由の寄り合いに
変わってしまい、いわゆる盛り上がる状態になることがあります.発言の方向を、案
内文の趣旨に戻そうとしますと、「反発を招くが盛り上がり状態は続く」か、あるい
は「摩擦が生じてMLが沈黙する」ことになります.前者では「案内文の趣旨に賛成
派」の、後者では「話題自由による盛り上がり派」の、退会の原因になります
話題自由で盛り上がっている状態では、案内文に興味をもって入会した参加者の失
望を買うことがあります(管理人は「参加者は少数でもよい」「話題は案内文の趣旨
を優先する」、そのためにMLが沈黙した場合は、管理人が継続発言者になる、とい
う姿勢をとっております)
「談笑」の支配的発言者の中に、話題を自由にして盛り上がるようにと、案内文の変
更を要求する例がありました.また、「案内文をよく読んでいない」「案内文を気に
していない」参加者も見受けられました.「案内文を忘れてしまう」例は頻繁に起き
ていると思います
「連載」の参加者は、連載の内容に関心があれば長く参加し続け、関心がなければ参
加直後に退会しているようです.「連載」のMLも「談笑」のMLも、精読者によっ
て支えられていると思います
Nov 23, 1998 plnssnr@reverie-prmnr
【No.219】
最近の音楽鑑賞には工夫の余地があると思います。作曲者や演奏者にとっては心外
でしょうが、CDの場合、私は「飛ばし聴き」を頻繁に楽しんでいます。飛ばし聴き
が可能になったので、好きになった曲が少なくありません。例えばJ.S.バッハ(16
85−1750)の「ヨハネ受難曲」BWV245(1724年初演)がその典型です。旧全集版楽譜
の番号に従いますと、第--------40、56、65、67、68曲が好みで、クリスマスの季節
には「ジングルベル」や「ホワイトクリスマス」と同じように楽しんでいます。
もう一つ変わった音楽の楽しみ方、いえ、読書の楽しみ方をご紹介しましょう。そ
れは一度読んでしまった本を、頻繁に親しんでいる曲に限りますが、音楽をイヤホー
ンで聴きながら再び読み返してみることです。この「ながら読み」、運がよいと、書
物に隠されている「調子」を発見できることがあります。本を評する力はありません
ので、自分の随想を例にとりますと、私の近年の随想の場合、二、三の交響曲や協奏
曲の中に、相性のよいものがあると思います。またW.A.モーツァルトの「レクィエ
ム」にも合う----と思っていますが、なにしろ私の音感は破れ傘に同調しております
ので、保証の限りではありません。
Nov 28, 1998 plnssnr@reverie-prmnr
【No.220】
「草原に朝の食卓ML」では管理人による「本を著わすには」の雑談が続いています。
脈絡は支離滅裂であり、話題も著作とは無縁なことが少なくありません。しかし一つ
確かなことは、よく飽きもせず懲りもせず文章が続くというその一事です。考えてみ
ますと、あるいは考えてみませんでも、書き続けさえすれば、言葉は途切れることが
ないのですね。私は昔から書くことを「デッサン」にたとえていますが、絵画のデッ
サン同様、文章表現も「デッサン」で磨かれると思っています。日記一つ書いたこと
のない者でも、「デッサン」を続けさえすれば、言葉の源泉を探し当てることができ
るのではありますまいか。さて、ご参考までに今日の投稿をご紹介しましょう。
初めて赤ん坊を間近に見たのは、結婚して最初のお正月に、妻の実家を訪問した折
の姉の子(義父の初孫)です。とても抱けませんでした。人見知りしたのは赤ん坊だけ
ではなかったです。
最初の我が子はオイル・ショックの折です。妻が入院した部屋には暖房がなく、電
気ストーブを持ち込んだように記憶しています。この折は、自分の赤ん坊を抱くのに
ためらいはなかったです(当然かも)
今は誰の赤ん坊でもためらいなく抱いています。
赤ん坊の情景を丁寧に書き綴っていきますと、それだけで心の通う読み物になりま
す。お正月と、赤ん坊と、成長したその子の結婚式を組み合わせますと、もっと楽し
い読み物になります。しかし問題がなくもありません。内容を頭で描こうとしまして
も、それだけではすんなり行かないと思います。書くために情景を「演出」しまして
も、読者はともかく執筆者は、単純には自己満足できないと思います。空想や夢想に
依れば書くことは可能でしょう。しかしそれは孤独に過ぎます。
表現に値する書き物は、童話であれ随筆であれ、記録であれ創作であれ、執筆者に
「ある態度」を要求していると思います。赤ん坊の声は、比喩としての子の喜びは、
聞こうとするのではなく、自然に聞こえてくるような生活でないと、執筆が「ひまつ
ぶし」になりかねません。生きている一瞬一瞬が読み物に結果する、そうあって欲し
いと願っています。絵は全身で描きますでしょう。文章表現も同じであって、全身で
書き込まなければならないと思います。
皆さんのお正月はいかがでしたか。
Jan 06, 1999 plnssnr@reverie-prmnr