編集中記 【その31〜その35】
【その31】
一橋中学を後にして、神保町の交差点を中心に、靖国通り南側が古書店街、すずら
ん通りを駿河台下まで歩く途中に中国書籍の専門店「東方書店」、しゃれたお土産を
探すには画材専門店の「文房堂」、はすむかいの「三省堂神田本店」は、文具売り場
と美術本売り場が気晴らしになります.お手洗いはエスカレータ脇です.三省堂にも
レストランや喫茶室がありますが、靖国通りを神保町へ戻る途中、タキイ種苗並びの
ビルの二階、ガラス張りの喫茶店、と見えたのが「ランチョン」というビアホール、
喉の渇きがとまります
この界隈の古書店やレストランのご主人も、幾人かはその昔、区立の中学に通って
いた少年少女、なので、店頭で立ち読みしながら、あるいはジョッキを傾けながら、
昔の姿を思い出して、くすくす笑ってしまいます
健脚で、しかも舗道の照り返しに鈍感でないと、古書店街の散策は骨が折れます.
またこの地の休みはマチマチなので、折角来たのに閉まっていた、なんてこともあり
ます.交通は都営新宿線、都営三田線、営団半蔵門線の「神保町」が便利ですが、J
Rのお茶の水駅から、明大前を経由して歩けないこともありません.神田の書店街と
JR神田駅とは「無関係」、神田のつく地域は想像以上に広く、しかも込み入ってい
るので、最寄り駅を間違えると迷子になります
May 10, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その32】
タキイ種苗の裏手、猿楽町の一角に錦華小学校がありました.都心の小学校は生徒
が減り、廃校になったり校名が変わったりするので厄介です.錦華は今、お茶の水小
学校と呼ぶそうですが、小六の1年限りとはいえ、私の通った小学校は錦華であり、
お茶の水ではありません
当時は本人に天地創造の混沌があり、周囲に驚天動地の騒乱があったため、郊外か
ら都心に移った1年は越境の1年、国電の本八幡駅からお茶の水駅まで、ラッシュに
もまれて通学後、翌年には問屋街に引っ越しました
担任は、夏の舗道のようにカラッとした女の先生、初めての給食で、喉を通らなか
った食パンを、「いいよ」の一言で片づけてくれた先生に、今も感謝しています
都心の小学校って、なんであんなに狭いのでしょう.飛び跳ねるだけが生き甲斐の
生徒には大弱りです.階段の駆け上がりや飛び降りではとても足りず、放課後の錦華
公園も課業と心得、平日は暗くなるまで遊びほうけていましたが、盛夏の土曜はさす
がに汗だくになり、真昼の太陽に焼かれながら、帰路の坂を右にウロウロ左にブラブ
ラ、一歩上っては二歩下がる----、ますます汗が吹いてきます
坂道の途中に「山の上ホテル」がありますが、このホテル、当時の転校生には「ホ
テル」に思えず、男女が連れっ添って入る宿、と思い込んでおりました.その勝手口
にさしかかると、突然、男から声がかかり、驚いて動けなくなった生徒に、片手で水
差しの取っ手を掴み、片手でコップを突き出して「飲め!」の一言.暫くにらみ合っ
ていましたが、真夏の熱気に促され、コップを奪って一気に飲んだ、その水の冷たく
て甘くて------、世の中には、こんなにもおいしい水があったのです.途端に嬉しく
なりました
顔を火照らせながら上がってくる生徒を、男はずっと見ていたのでしょう.コック
の見習い? 中学を出たばかり? 水差しはフタつきのクリスタル、中には氷と檸檬、
そして澄んだお水が、陽を浴びてキラキラ光っておりました.お水は縁まで入ってい
たので、わざわざ新しい水差しを、厨房から持ち出してくれたのでしょう.彼もまた
嬉しかった、のかもしれません
May 11, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その33】
神田のつく地名には、神田和泉町、神田佐久間町、神田平河町、神田佐久間河岸、
神田須田町、神田東松下町、神田紺屋町、神田富山町、神田鍛冶町、神田司町、神田
美土代町、神田小川町、神田錦町、神田駿河台、神田神保町、内神田、外神田、西神
田、東神田などがありますが、奇妙なことに、昔は神田岩本町とされていた一角が、
岩本町と神田岩本町に分離命名されたには恐れ入谷の鬼子母神(岩本町の全域から神
田が剥ぎ取られ、ほんの隅に神田岩本町が残っています)
千代田区の岩本町から東神田、隣りの中央区に移って日本橋馬喰町、日本橋横山町、
日本橋小伝馬町、東日本橋などの一帯は問屋街、でしたが、戦後半世紀の間に、この
地域は神保町の本屋街とは比較にならないほど大きく変わりました.秋葉原に隣接し
た岩本町はペンシルビルのオフィス街に変貌し、裏通りやアーケードの残骸に、問屋
のなごりをみるだけになりました.また現金問屋の中心地、横山町や馬喰町も潮が引
くように来客数が減り、路地裏の店舗は倉庫や駐車場に様変わり、昔は裏店でも、横
山町に店を出す権利は奪い合いであったのですが
この地には昔から繊維製品の製造卸が目につきました.戦後しばらくは、下町でも
盛んに作業服、といっても当時はもっとも普通の衣服、を製造していましたが、やが
て光は西方からさすようになり、ついには海を超えてさすようにもなりました(ムニ
ャムニャ)
問屋街の盛衰は小売業態の栄枯であり、我々の生活が豊かになる過程の一つ、必然
と言ってもよいでしょう.問屋街が栄えた時代は問屋街が社会の必要を満たしてきま
した.問屋街が寂れる時は、新しいビジネスが社会の必要を支えています.他人様の
論評を待つまでもなく、問屋街で生活している小僧っ子や旦那衆は、常に一足早く世
の中の変化を察知して(生きる死ぬの騒動に無関心でいられるほど甘くはなく)「べ
んちゃ−」であれ業態変更であれ、あらゆる対策を試みてきたのですが、まあ、成功
する方が少数で没落の憂き目が多数は栄枯盛衰の習いですから、余生はほどほどでよ
い、ノレンの安楽死もやむなし、と悟りきった少なからずの旦那衆に、バブルとはベ
ラボーにもほどがあります
問屋街の裏の隅の、昔は倉庫、今は空き家の十坪に2億円がついたのがバブルです.
これでは老体にも火がつくのは当然です.老いた体に薬物を大量に投与され、一時的
に興奮状態に追い込まれ、急に薬物投与を中止されれば、おかしくなるのがあたりま
え、ですが、私はバブルに躍らされた人々にはあまり同情を感じません.問題は不運
にも、当時相続の発生した人々、およびバブルがはじけた後の町の荒廃です
タイムアップなので手短に
都心のビジネス街でも古くからの街は、一歩裏に入ると「昔からの住人」が吸い殻
を拾い、道路を掃き、水を打ち、自分たちの街を守ってきたのですが、バブルで荒ら
された街は寂れるばかり、せめて統廃合の後に、辛うじて生き残った学校だけは、思
いっきり広く、あふれるばかりの緑に囲まれた、瀟洒な低層の建物になれば、それだ
けでも人々の心が安らぎ、可能性を信じるキッカケにもなるでしょう.都心で、ビジ
ネスマンの脚の間をウロチョロ歩く小学生の自然は、一体どこに行ったのでしょう
May 12, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その34】
昔は日本橋や神田界隈の問屋には、従業員が住み込んでいたのが普通です.昭和30
年代の前半位までは、製造や卸の労働力は主に中学へ探しに行ったそうです.中学を
卒業後、単身や集団就職で、例えば女子は縫製工場の女子寮に入り工員として、また
男子は問屋に住み込み店員として、日本の経済を支えていたのです
現金問屋は当時、店一升金一升?の状態でしたから、住み込みのスペースは極めて
狭く、二階も屋根裏もすべて倉庫の、狭い通路を片づけて、雑魚寝同然の店もありま
した.尤も商品の山に囲まれ、穴蔵に寝ているような安心感もあったようです
食事は三食とも店の中、お手伝いが用意したり仕出し弁当に頼ったり、食事の手配
は問屋によって違いはあっても、出されたものを食べなければ飢えてしまうのはどこ
も同じだったと思います
除夜の鐘を聞きながら、お節を振る舞ってもらえる問屋もありました.昔の現金問
屋は、大晦日が一年で最高に忙しい日なので、仕事が終わるのも真夜中になり、食べ
るより帰りたい気持ちが先になり、遠慮がちに箸をつけ、お酒もほどほどに、さあ、
故郷へと、元旦の朝一番の列車に駆け込んで、新潟や山形へ飛んで帰りました
何を目標に働いていたのでしょう? 番頭になること、ノレンをわけてもらうこと、
独立して小売店を経営すること、服飾デザイナーになること、などなどでしょうが、
口には出さずとも、終身雇用を願うより、独立を考えていた方が圧倒的に多かったと
思います
問屋対抗の草野球も盛んでした.また秋の夜長は裏通りに縁台を出し、主人と丁稚
のヘボ将棋、佳境に入る頃、ラーメンの屋台がチャルメラを吹き鳴らし一時休戦、問
屋の主人が従業員に椀飯(おうばん)振る舞いすることもあり、そのような問屋では、
屋台が水を分けてもらい、器を洗ったりしていました
昭和30年代も後半になると、現金問屋から「カイシャ」に脱皮するところが目白押
し、時代は大きく変わりました.同時に独立の気概も次第に薄れ、業界にも、終身雇
用を当然視する若者が就職するようになりました
このML(の参加者が集まる筈の将来)でも、終身雇用を当然視してきた人々が圧
倒的に多いのではないかと思われます.昭和30年代に就職し、現在インターネットに
アクセスしている人々の中心が問屋出身者とは思えません.残念ながら生活の場にお
けるインターネットは、技術者や、趣味人や、SOHOや、エリートビジネスマン(およ
びその出身者)だけがその利益を享受する「租界」の域を出ていません.しかし、社
会の現実は違います
無事に終身雇用を乗り切って、第二の人生に充実を見出している人々、同じく踏み
出すのに意欲的な人々、終身雇用の足元を救われ不安な気持ちを抱いている人々、同
じく切羽詰まっている人々、年金の受給を受けるまでのつなぎの職場が是非とも必要
な人々、年金の支給額が少なく困っている人々、などなど現実は複雑です.それでも
同じ世代だから分かりあえる、引退者同士だから話が通じる、のでしょうか
例えばゴルフ場です.新興のゴルフ場はそれほどではありますまいが、会員の動き
の少ないいわゆる名門コースでは、中小企業のオヤジさんグループとエリートビジネ
スマングループが別々に生まれてしまい、融和できないでいるケースがあるようです
例えば同窓会です.成功を誇り、精力的に海外を旅行するその話題で賑わっている
旧友のグループもあれば、絵画やクラシック音楽について語り合っている旧友のグル
ープもあり、あるいは「迷い」や「困窮」からの救いを「懐旧」に求め出席したもの
の、失意を深めてしまった旧友もあり、さらに欠席を頑なに拒む旧友もいる、その拒
む事情を計るほど「昔、子ども」は純真ではありません
「生きるための規範」がないとしたら、「共通項」のないこの種のMLは難しいと思
います
May 13, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その35】
折角、神田界隈に来たのですから、秋葉原まで足を伸ばしませんか.その前に、JR
総武線または都営浅草線の「浅草橋駅」で降りて「江戸通り」を蔵前方面へ歩きまし
ょう.雛祭り、端午の節句、七夕、クリスマス、お正月などの、少なくとも数週間以
上前がおすすめです.あの辺は「素人お断わり」の札がない限り、百円一個でも自由
に買えます.なにしろ、きんきん綺羅綺羅きれいです.ツリーの装飾やしめ飾りも、
数が必要な場合は結構な節約になります.但し、ツリー用のランプは電気製品なので
秋葉原です.秋葉原デパートの並び、ガード下に密集している小物専門のお店を何店
かあたれば、もっと満足できるかも知れません
電気の秋葉原は昭和通り口ではなく電気街口なのでお気をつけ下さい.営団日比谷
線の秋葉原駅は昭和通りに面しているので、多少歩く必要があります
秋葉原も変わりました.この地の大型店が、郊外へ進出したことが原因でしょうか.
大手スーパーの家電取り扱いの影響でしょうか.ともかく、家電からパソコンへ重心
が移っているのは事実です.しかしパソコンも近年、投げ売り屋が、倒産などで少な
くなり、本体の値段的な魅力は(新古品や過剰在庫の処分のために捨て値で販売する
本体は)めっきり少なくなりました
秋葉原の流通経路は素人にはよく分かりません.相場を電話一本で聞けるお店を発
見できれば、家電はその買い方が一番安い、こともかつてはありましたが、この種の
商売も、今一つ活気に欠けます
因みに、家電の下取りサービスとは、流通業者が消費者にお金を支払って不要品を
引き取るのではなく、消費者が流通業者にお金を支払って不要品を引き取ってもらう
システムです.家電の取引は、配送料も据付料もすべて別建て、それを販売店が政策
上、下取り値引きサービスとか送料込みといった表現を用い、消費者の購買意欲を誘
っている訳です.本来、下取り品のある購買者は、下取り品りのない購買者より、廃
棄物を処理する費用を余計に負担すべきなのですが、現実は必ずしもそうなっている
とは言えないようです
尤も我々のことですから、下取りを有料表示に切り替えれば、不要品は家電業者で
はなく、自治体のゴミ収集日に出したり、郊外の空き地や山林に捨てに行くのは目に
見えています.つまり家電業界は、我々の垂れ流しを、未然に防いでくれているので
す.しかし、インターネット通販が盛んになるとどうなるでしょう.送料などの「こ
まごました費用」は別建てになりますか? 不要品の引き取りにもお金がかかるとな
ると、業者も消費者も、そこには触れない方が賢明です.ますます自治体のゴミ集収
日が賑わいます----(電気街の裏手から上野方面へ、ガード下の両サイドを探検する
と、新たな発見があるかも? 但し、車の出入りにはくれぐれもご注意を)
パソコンの本体は、ソフトの代理店で値切った方が安い場合もあるようです.ソフ
トの代理店はハードで儲ける訳ではないので、頼み込めば、政策的な価格があっても
不思議はありますまい
パソコンの周辺機器はやはり「秋葉原」です.問題はどこのお店が一番安いか、で
すが、仮に超特価の大目玉でも、意外や意外、大型店も場末店もどこに行ってもまっ
たく同じ値段、ということがあります.反対に周辺機器のある種のモノは、常に他店
より安く値づけしているお店もあるようです.但し、目抜きの大型店より場末の小型
店の方が安いだろう、と考えているのでしたらそれは「予断」です.そういう場合も
あり、そうでない場合もありますから、実際に確かめる必要があります
編集中記は散歩者の夢想MLのホームページの一部です.つまりいわゆる中高年の
初心者を想定して書いています.念のため
中古のパソコンは私は、秋葉原であってもなくても、中古専門のお店では買いませ
ん.もし、あなたが有力者であるのなら、「モト」から直接、中古を流してもらうの
がよいでしょう.しかし我々のほとんどは有力者ではないのでこれは無理、となると
内容に魅力のある中古は高すぎるように思われます.個人同士で、自分のパソコンを
売買するケースも見かけますが、それにも食指が動きません
中古は「もらう」ことをお勧めします.高年になるほど「もらう」ことに抵抗を感
じる方が多くなりますが、マニアの手元には、処分に困っているパソコンの1台や2
台はあるものですから、人助けと思って、遠慮なくもらうべきです.ついでにキーの
練習ソフトと、ワープロと、通信ソフトとモデムもつけてもらい、初歩の初歩程度は
教えてもらうようにして下さい.その際、今まで書物で勉強してきたパソコンの知識
は一度捨て、また「うぃんどうず」だの「色つき画面」は一切不問に付して、電子メ
ールを扱えるだけで感激し感謝する必要があると思います(使わなくなったパソコン
は、初心者に積極的に贈呈し、ついでに、相手が電子メールを一人で操作できるまで、
援助してはいかがですか)
少しパソコンに慣れてきたら、今度は新品を探すのもよいでしょう.しかし、買っ
てしまえば下調べの楽しみがなくなります.また滅多にないチャンスです.我々にと
っては特に大切なパソコンです.簡単に使い捨てにするつもりはありません.となる
と、秋葉原の主なお店を片端から訪問し、同じ事を繰り返し聞いてまわるのがよいと
思います.その際、書物で得た知識を延々と披瀝して、店員を辟易させる初心者がお
りますが、それでは親身なアドバイスは得られません.最初は質問の方法さえ分から
なくても、店を変え曜日を変え、繰り返し繰り返し尋ねることで、やがては目処もつ
いてくる----のではないかと思います
May 14, 1997 plnssnr@reverie-prmnr