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編集中記 【その50〜その58】

【その50】

  いくら心象といっても、卒業できなかった小学校の資料は写真一枚残ってはいない
ので、もう半世紀近くも過去の出来事を描写するには無理があります.結果としてそ
こには創作が入るため、挿入した逸話は仮に「真」であったとしても事実ではありま
せん.この編集中記はその典型です

  今のAは苔むして、横柄の上に破廉恥の不夜城を築くまでになりましたが、九歳当
時のAはまだ純真で正義感にあふれていました.そのAが男女何人かと放課後の掃除
当番にあたった日、女子は雑巾がけの分担を済ませ、教室から廊下に出ていましたが、
男子は悪ふざけに興じAをからかい、机と椅子を戻す作業をサボっていました

  揶揄され、孤立した際の脱出法は、一人ですべてを片づけて、さっさと外へ出るこ
とですが、男子の騒ぎが大きかったせいか、中年の教師が教室にずかずか入ってきて、
他の生徒には目もくれず、皆の前でA一人を叱責しました.さすがのAも我慢がなら
ず、怒りの抗議をしようとしたのですが、自己表現の拙さに加え、声も言葉にならず、
出たものと言えば悔し涙だけ、そういう時は教師の手を振り切って、再びさっさと表
へ出ることです(孤立させられた時は、あるいはより積極的に孤立しなければならな
い時は、相手の手を振り切って我が道を行く、そのような選択が、大人の職業生活に
も必要なのかも知れません----つまり「社会的に影響のある社内の不公正」や「環境
や情操に悪影響が懸念される社内の選択や決定」を知った時は、迎合してはならない
し、見て見ない振りをするのであれば、直接の関わりがないとしても、加害責任は免
れないと思います)

  当時の私も、はた目にはAと同じに見えたでしょう.しかし5年間を通じ、私に害
意を抱いていた生徒の記憶がまったくなく、むしろこの小学校には郷愁や愛着さえ感
じています.もしこの小学校がなかったら、私の感情生活は随分と無味乾燥なものに
なったと思います.この小学校には余裕と自由がありました.その余裕は、善意を美
しいと感じる余裕に結びつき、その自由は、情操を豊かに育む開放感につながりまし
た.つまり、子どもの共同体とは性善であり、環境と状況に恵まれていれば、仮に公
正を欠く教師がいたとしても、前向きに乗り切ることができるのであり、反対に優れ
た教師を配しても、荒涼とした環境と殺伐とした状況下では、問題発生の回避が難し
くなる、のだと思います.ともかく、エム君に会ったのは、この4年生のときでした

                                         May 29, 1997  plnssnr@reverie-prmnr


【その51】 端正な顔立ちの男の子、肌が白く、そばかすの魅力的な小学生、背筋を伸ばし、遠 くを見つめながら、少し上向き加減に歩くエム君、なぜこの子が声をかけてくれたの か.途端に恥ずかしさで真っ赤になり、おどおどもぐもぐ言葉にならない声を発しま したが、エム君は私の顔をみつめ、私が落ち着くまで暫く待って、「この道から帰ろ う」と澄んだ声で誘ってくれました.この時から下校時間の一致する土曜日は、二人 一緒に帰ったものです 初めて会った日は嬉しいよりも窮屈だったのですが、エム君は私の気持ちを知って か知らずか、小道をずんずん先に進み、砂地の竹垣に辿り着くと、例の擂り鉢を示し、 アリジゴクの捕まえ方を教えてくれた、二人ともお昼はまだでしたが、砂をすくうの が面白くて、採っては逃がし、また採っては逃がし、次第に打ち解けていきました 最近、昔、住んでいた家の近くに車で出かける用事があり、帰りにエム君の住んで いた家を探したのですが、区画整理のため、住まいはおろかその場所さえわかりませ ん.昔は、私の住んでいた家の前を東に進み、雑木林を横切った住宅街にあったので すが、記憶を呼び覚ます痕跡はことごとく失われ、もしやと期待した医院の建物も、 何の関係もありませんでした 当時のこの辺りには、二階建というものがおよそなかった.瓦屋根にのぼると、ク ロマツの並木やクロマツの林のほかは青い空に白い雲、実にのんびりしたもので、晴 れた昼下がりはどの家も、昼寝中を思わせる静けさでした May 30, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その52】 遊びにおいで、と誘ってくれたのもエム君です.エム君の家は庭も建物も広かった のですが、洋館の診察室を除くと瓦屋根の庶民的な造りで、南向きの縁側の前庭には、 丈の高い草花が密に茂り、玄関脇にはツワブキやトクサがありました エム君には妹と幼い弟がいましたが、家の中はひっそりとして、相手をしてくれた のはエム君とエム君のお母さん、大人の苦手な私だったので、エム君のお母さんの顔 や姿は記憶になく、ただ、品のよさを子供心に感じていた----、彼はなぜ誘ってくれ たのでしょう 当時は考えもしなかった想念が今になって浮かんできます.彼はなぜ一緒に帰って くれたのか? 姿形は違っても、二人には共通する何かがあったのかもしれません. しかし私は自分のことにかまけて、大切なものを見落としていたようです なぜ人は友を求めるのでしょう.自分のために? だとしたら私は友を必要としま せん.相手のために? だとしたら私は友とは呼びません.自然に理解し合える相手、 自然に情感を共にできる相手、一緒であろうと離れていようと、親しかろうと疎遠で あろうと「ああ、君もそうなのですね」と言える相手、それが私にとっての友なので す.しかしエム君に対しては、私は「自分のために」だけを考えていました.私はエ ム君を眩しがって、エム君を理解することも、エム君を感じ取ることもできなかった 紅茶と洋菓子をいただきました.喫茶にはマナーがある、ということさえ知らなか ったのですから、今、思い返すと冷や汗が流れますが、恥ずかしかったとかおいしか ったの記憶はなく、ただ、お菓子を義務のように食べていたことを憶えています 当時は、食が細く、食欲も頼りなく、肉を受けつけず、油の強い食物が食べられず、 食べることを義務のように感じている子どもがおりました.例えば戦争末期や敗戦直 後に生まれ、乳児の時に栄養失調を患った子どもの中に、このような食べかたをする 子どもがいたのですが、成長するにつれ、受けつけなかった食物にも食べ慣れていっ たので、わがままや躾の問題ではなさそうです 次は運動場に出てみましょう.朝礼前、授業と授業の合間、昼休み、放課後と、勉 強以外の時間は子どもが群れていたあの運動場です.クラスの別も学年の違いも意識 せず、一緒になって転げまわった赤土の運動場を覗いてみましょう May 31, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その53】 厳冬期の早朝、霜柱を踏みつけてのサッカーは、足をいかに引き抜くかで勝負が決 まります.霜でぬかるんだ運動場は、水抜き直後の田圃と同じで、くるぶしまである 編み上げ靴がなかったら、田圃でサッカーをやるような真似はできなかったでしょう. 当然、靴も足も泥だらけになりますが、真冬でも長靴下をはかない生徒の、脛や腿は 素肌ですから洗濯無用、では革靴は? ここでぷっつり記憶が途切れます 朝一番の運動場は限りなく開放的です.ランドセルを立ち木に吊るし、通学路脇の ゴールポストでサッカーボールを蹴り始めると、学年もクラスも違う「仲間」が三人 五人と駆けつけて、ゴール一つを交互に攻め合い、全身、湯気に包まれて、夢中にな って遊んだものです 脇の通学路が黒い制服で埋め尽くされ、やがて通学の列が途切れる頃、非情のベル が鳴り始めます.さあ大変、枯れ木に咲いたランドセルが、誰のものか分かりません. 懸命に選り分け、下駄箱まで全力疾走、ランドセルを土間の簀の子に放り投げ、朝礼 の列に割り込みセーフ、だとよいのですが、まあ、間に合わないこともありました 小学校に教室がなかったら、どんなによかったでしょう.授業なんて何もわからな かったのです.ただただ下を向いて小さくなって、ベルの鳴るのを待っていたのです から、教室なんてあってもなくても関係なかったのです.でも私は当時も今も、よい ことがよいと分かり、悪いことが悪いと分かりますから、私には今も教室なんか要ら ないのです.政治や経済の高処にあって、右を左と言いくるめる大人はきっと、小学 生のころ教室で勉強し過ぎたので、頭脳疲労に陥って、道理ということが分からなく なっているのでしょう 私の手元には、北京や南京の工業系大学を卒業した残留孤児二世の、勉強のために 用意した「小学国語辞典」がありますが、今の小学生はこんなにも多くを学んでいた のですね、ご苦労様、なんて涼しい顔してますが、「小学国語辞典」から出題された ら、今も私は落ちこぼれます Jun 1, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その54】 下級生は専ら校庭で鉄棒や鬼ごっこ、また上級生は土のコートでバスケット、では 部活やクラブは? 記憶にないのですが、部活という言葉を知ったのは我が子が学校 に通うようになってからなので、多分この小学校には、部活やクラブや親子レクはな かったのではないかと思われます.因みに体育館は、雨天体育場や式典会場、あるい は学芸会舞台として使われていたのであって、休み時間や放課後はひっそりとしてい た印象があります 要は学校の「校庭、競技施設、運動場」は生徒が自分たちの判断で自由に使いなさ い、ということだったのです.子どもに任せて何か起きたら? ああ、小学生ってそ んなにも信用がない生き物だったのですか.人を押しのけ、心を傷つけ、騙しあい裏 切りあう生き物だったのですか.それはあなたがた大人の現実です.事故はいつでも 起こります.不幸にも事故にあったら自分たちで助け合う----.勉強よりも大切な教 育があります.しかし今は、運動場を開放してもあまり子どもは残りません.他に楽 しみや「仕事」があるのでしょう.あるいは、勝利の拳が蓄財や権力に直結する社会 では、奉仕や助け合いも選択科目の一つに過ぎない、ということを、子どもは知って いるのでしょう 昼休みや放課後はさすがに生徒が多いので、サッカーで運動場を独占する訳にはい きません.となるとソフトボールが、稀には軟式野球が、サッカーに替わります.運 動場四隅のうち、校庭側を除く三隅がそれぞれホームベースになり、さらにノックや キャッチボールが加わるので、外野は四方八方に目を配らないと痛い思いをします. メンバーはそれこそ目分量、ジャンケンをするときもありましたが、むしろその場の 勢いで二つに割れ、それから過不足を調整します.ある時は力関係で、またある時は 阿吽(あうん)の呼吸で守備が決まり、打順はジャンケン、ではピッチャーは? あっ、オトだ! 運動場の南側はクロマツ林の外れで、しかもクロマツの地面より1〜2メートル下 がっていたので、南側であってもクロマツ側は陽あたりが悪くいつもじめつき、その ため西南の角に置いたホームベースは滑りやすく人気は二番手、同じクロマツ側でも 東南の角に置いたホームベースは砂地なので一番人気、陽あたりは良いのですが、隅 といっても実際は運動場の中央寄りになって、東西から飛んでくるボールを含め3ゲ ーム分を守備しなければならない北側のホームベースはおまけ人気、となると、お昼 は噛まずに呑み込んで、放課後は当番をさっさと済ませ、この学校の敷地で教室から もっとも遠い地点、つまり運動場の東南の角を目指して一直線に、全力疾走したもの です Jun 2, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その55】 オトが誰なのか私は知りません.姓名だけは正確に記憶していますが、学年もクラ スも、また運動場以外の素顔も記憶にありません.当時からオトについては、○○○ という名前だけが私の知っているすべてであったと思います.万一彼が同級生であっ たとしたら、教室での私はよほど閉塞していたのだと思います.しかし同級生ではな かったのでしょう.六年生でないことは確かです.最上級生はほとんど一緒ではなか ったように思います.私は五年を終了後に転校したので、普通の小学六年生の気持ち が分かりません.このことが今でも悔やまれます.一生に一度の貴重な体験を、一つ の小学校で最上級生を経験するというダイヤモンドより大切な「教育」を、絶対に受 けることができないのですから(飛び入学----! やはり私は、勉強のできる人々に はついて行けません) 当時の私にも学年で一、二番を誇っていたことがあります.大したことではありま せん.朝礼の列の、並ぶ順番の話です.当時は昇順に並んでいたので、運動場から朝 礼の列に駆け込む私には深刻な問題でしたが、この話は脱線です.今は守備の話 力関係から、あるいは遠慮から、私のグローブは指の間が開き切って、手の甲側に 反り返っているアンコ抜きの使い古し、それを真っ先に選んで外野に一目散、肩が悪 いので、中継してもらわないとボールがホームへ届かなかったのですが、長打のボー ルを拾いに行く足が早かったので仲間公認の外野手、そして用具運搬係りも兼務.打 撃力は非力とメチャ振りからよくて内野ゴロ、普段はフラフラしたファールフライが 相場.しかし、三方から飛んでくるボールの処理、つまり三試合の状況を瞬時に見抜 き、ボールを取ったりよけたりする技に優れ、敏捷だったので捕球も及第 Jun 3, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その56】 オトの打撃力は抜群でした.背丈は学年の平均程度、ですが体躯は筋肉質でパワー が漲り、軽い一振りで隣りの校庭までボールを飛ばす.北側ベースの場合は、クロマ ツの立ち木を抜いて中学までボールを飛ばす.私が初めて中学の構内に入ったのも、 オトの長打を取りに行くためでした.ではオトの守備位置は? ピッチャーではなか ったように思います.ピッチャーは実力よりも押しの強い生徒の定位置、なので常に 奪い合い、オトはピッチャーの奪い合いがもつれた時に、一言発してもつれをほどく 調整役、それほど権威もあり頼りにもされていました オトが加わった野球は熱くなれたのです.子どもの遊びに手抜きはありませんが、 燃え尽きることのできる機会はそう多くはありません.鬼ごっこであれソフトボール であれ、「最高」に値する遊びには中身の濃さが必要です.そしてオトは、ソフトボ ールの中身を限りなく高めてくれました.子どもにとってこれほど偉大な存在はあり ますまい そのオトがピッチャーのもつれをほどこうとした放課後に、私を指名したことがあ りました.オトがいい加減に戦うことはなかったので、今もって私を指名した理由は 分かりませんが、オトの指名は間違いなく外野で守る私でした.これには皆も意外だ ったと思います.外野からピッチャーへ替わった私も驚きました.しかし、私には下 手投げに自信があった、キャッチボールでも、下手から投げる方が気持ちよく、しか も私のコントロールは抜群だった、と本人は密かに思っていたので、ゾクゾクするほ ど燃えました 当時この小学校では、ソフトボールのピッチャーは、ボールは山なりに投げるもの、 剛速球で三振をとるのではなく、山なりのボールを打たせて捕る、ピッチャーは凡打 を誘うボールを投げる、といった先入観があったようです.しかし、私の投げたボー ルは直線に近い低目の速球、なので打てる生徒はいませんでした.バットにあたる方 がまぐれだったのです.これは皆にとっては驚くべき出来事でした.奪三振のヒーロ ーが私であったことが、低目速球の投球よりも、皆には驚きであったのです Jun 4, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その57】 オトがいるとき、私は豪腕のピッチャーとして活躍しました.オトと組んだ時、私 は負けを知りませんでした.相変わらず自己表現の下手な子でしたが、この頃から私 の内面に、ある変化が起きました 私の定位置はその後も外野であり、それを不満に思うこともありませんでした.ピ ッチャーは教室のヒーローや押しの強い子どもの優先席です.彼らを差し置いてマウ ンドに登ることなど考えもせず、試合のつど抱いていた私の野心は、特大のホームラ ンを打つことただ一つ、奪三振など私にはあたり前のことだったのです.しかし、皆 から頼りにされていたオトと組むようになって、私は明らかに変わりました.学校を 感覚ではなく、思惟で観察できるようになったのです 次は雪の日の野菜畑に出てみましょう Jun 5, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その58】 雪の運動場は白一色です.ストーブで暖まった教室の、窓ガラスは内側から曇って しまい、手のひらで拭わないと運動場が見えません.ぬかるんだ赤土に雨水がたまり、 雨水の溜まりに雪が積もったのですから、暫く運動場は使えません.それでは畑で遊 びましょう.霜枯れた野菜に積もった雪はそこそこ厚く、子どもが跳ね回っても表土 を傷める心配はないでしょう.先生が農家に許しをいただきました.さあ、雪遊びの 時間です 子どもたちはおおはしゃぎ、雪合戦と雪だるまづくりに夢中です.先生も童心に帰 って雪玉を投げ合い、それは愉快な一時間でした.上気した顔を輝かせて、教室のス ターが雪遊びのスターになりました.雪遊びの終わりに先生を取り囲み、自分たちが いかに楽しかったかを互いに訴え、明日も是非遊びたい、と歓声をあげながらねだっ ていました.先生も愉快そうです.先生の顔にも子どもの表情が戻っていました 先生を囲んだ輪の外にも子どもがおりました.彼らもまた体から湯気を立て、雪合 戦の火照りを冷ましています.そろそろ時間です.教室に戻りましょう この時になってはじめて、私は「一人ではない」ということを知りました.「先生 の輪」に入れない子どもたち、教室のスターのはしゃぐ姿を控え目に見ている上気し た顔の子どもたち、私もその一人であることを雪の畑で発見しました.教室のスター はやがて社会のスターになるのでしょう.そして「先生」を中心に輪になって、華麗 な舞を舞うのでしょう.その中には中年や晩年になって、挫折を知る子も出るのでし ょうが、その子も自分一人で挫けてしまい、絶望する自分一人に夢中になってしまい、 「先生の輪」を遠巻きにする子どもたちを顧みることはないでしょう.自分に夢中に なる英雄たち、彼らには後悔はできたとしても、見過ごしてきた情景を呼び起こすこ とはできないのですから Jun 6, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
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