編集中記 【その59〜その66】
【その59】
雪が溶けて、赤土がむき出しになった運動場にもただ一個所、雪が凍りついている
場所があります.それは運動場南端とクロマツ林の境、林から運動場地面までの1〜
2メートルの斜面です.この斜面の勾配は結構きつく、西よりの斜面は松の根を足が
かりに駆け上ることもできますが、東よりの斜面は高さも増し、砂地をずり落ちずり
落ちしないと林に添った通学路に上がれません.ということはずり落ちずり落ちしな
がら上がって帰った、ということになります
運動場南端の斜面は北向きになるので、この地方の降雪量でも、一度積もると雪は
なかなか消えません.積雪の観測は一冬に数回程度、運動場や畑の雪も、太陽が昇れ
ばみるみる消えるほど、雪国とは縁遠い地方ですが、そのわずか1〜2メートルの斜
面でまさかスキーができるとは----、子どもの知恵は逞しい
先日からずっと頭をひねっているのですが、どうしても思い出せないことがありま
す.孟宗竹の破片一節分、その艶のある側を滑走面に見立て、靴に取りつけてスキー
板とした筈ですが、竹片を靴に固定した方法が思い出せないのです
斜面は松の根がはびこる泥混じりのアイスバーン、傾斜はUの字の右半分と変わり
なく直滑降で転落向き、また地面に激突すれば簡単に止まれるので、暴走の恐れはあ
りません
斜面でびびると腰が引け、バランスを崩して宙を仰ぎ、尾骨に次いで背中を打ち、
軽い脳震盪を起こしてもまだ懲りず、竹片を松の根に引っかけ全身を強打、とこの調
子で三ヶ月分の擦過傷と打撲と捻挫を小半時で経験しましたが、とうとう滑れるよう
になりました
運動中はケラケラコロコロ笑い転げ、日がな一日遊びまわる子どもを見たら、大人
はケッタイに思うでしょう.しかし、一歩運動場を後にしたら、ケッタイな子どもの
Aの心は不安におののき、Bの心は悲しみに泣き崩れ、Cの心は----、なんてことも
ないとは言えません.他人を理解する難しさ----、ついでですから現在に戻って、少
し「理解」について考えてみます
Jun 7, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その60】
例えば、文字の表現です
絵本や童話に類した文章や、子どもの気持ちになってやさしい文章を著わすと、子
どもは素直に受け取ってくれるのですが、学生や社会人は必ずしもそうは応じません.
平易な言葉でのびのび表現した著者を単純と思い込み、用語や様式の硬い著者を高度
と思い込む傾向が大人には見られます
実験してみて下さい.先ず、子どものように素直な気持ちであなたが著わした文章
を示して、特に青年や中年がどのように反応するか見て下さい.次いであなたは、○
○論や○○説を使った経済論や難解きわまる哲学風芸術論を著わして、同様に反応を
みて下さい.勿論いずれも、内容および執筆態度は真摯でなければなりませんが、さ
て、あなたに対する他人の理解は同じでしたか? 変わりましたか?
男の大人って、私もその一人ですが、どうしてああ自分を偉く見せたがるのでしょ
う.あるいは自分の素直な気持ちに錠を施し、大人の男って、どうしてああ大人面を
したがるのでしょう.どんなに厳かな顔でも、またどんなに殺風景な顔でも、大人の
顔には必ずその子ども時代の素顔が隠されているものです.慣れてくると大人の顔に、
その子ども時代の素顔を読み取ることが出来るようになります.但し、私が男のせい
か、女の大人に対してはこの再現がうまく出来ません.さて皆さんはテレビの画面で、
「大人の物言いをする子ども」に、滑稽を感じたことはありませんか? 人間の本質
は大人側に属するのでしょうか、子ども側に属するのでしょうか
私の好きな顔は嬰児を抱いている母親の表情、その前では、慈愛という言葉も影が
薄くなります.幼い子のちょっと緊張した表情、大人の気持ちを和らげてくれます
Jun 8, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その61】
例えば書物です
MLの参加資格----(参加資格を無制限にすると参加者が増え、未熟な管理人には
MLの運営ができなくなると考え、近くの本棚から個性的なネーミングの書物を制約
条件につけ加えたのですが、これでは読書の強制になることに気づきました.自由と
気ままと悠長と曖昧を愛する管理人にはこれは不本意、なので多少MLの参加資格を
書き換えました.七十歳八十歳の波長を優先する余裕がありさえすれば、まあ、年齢
を除いて、参加資格などどうでもよいのです.その参加資格----)でとり上げた「孤
独な散歩者の夢想」と「ガリヴァ旅行記」も「理解」を考えるよい手本だと思います
晩年に記した随想を理解するには、読者にもそれなりの知識と人生経験と感情移入
が必要になります.「孤独な散歩者の夢想」から、つまり死を間近にした「老人の繰
り言」から何かを感じ取るには、読者も自分を同じ境地に置いてみる必要があります.
しかしいくら感情移入といっても、若者や中年が「老人の心境」になり切るのはとて
も無理、つまり、「これからの人々」には理解できない書物もあるのです.だから眠
くなる、そのような書物は理解できるなどとは考えずに、そっと本棚に戻しておいて
下さい
スウィフトの「ガリヴァ旅行記」の訳者の一人、中野好夫の解説(新潮文庫版)も
注目に値します.レッテルがいかに理解にほど遠いかを改めて認識できると思います.
また「ガリヴァ旅行記」を執筆した当時のスウィフトが何歳であったかも、特にこの
MLが対象としている年代層にとっては、意味のあることだと思います
現役の方々は自信があり過ぎるように思われます.あるいは自分に夢中になり過ぎ
るように思われます.生き残りの競争のためにはそれも必要でしょう.しかし、我々
はもう十分に生きてきました.従ってこのMLでは、自分のためにではなく、嬰児を
抱く母親のために、あるいは幼な子の笑顔のために----幼子と書くのが正しいのでし
ょうが、なぜかいつも幼な子と書いてしまいます----、たわいない茶飲み話や、老い
の繰り言や、パソコンの素人談義に花を咲かせていきたいと考えます.そしてもし可
能なら、パソコン入門や書物を著わすお手伝いを、ということになるのでしょうが、
これからの我々には時間が腐るほどありますから、まあ、のんびり歩きましょう
もし「老人」にも「役割」があるとしたら、それは現役の真似をすることではなく、
現役の大人には担えない「何か」であると思います.高年者の中でも幸運にして「何
もしなくても食っていける老人」には、それなりに「社会が必要としている何か」が
あると思います.無論それは、パソコン教室や自分史の執筆とは別のことです
というとすぐにシンポジウムを開きレジュメを公表し、団体を組織しナニナニ運動
を始めましょう、となるのですが、それではやはり「現役に過ぎる」と思います.我
我は引退者とその予備軍です.感情も観念も硬直化して、柔軟性と協調性に欠ける老
人とその予備軍です.動けますまい、現役の行動様式を真似しても----.ではどうす
るか、とまた畳み掛けられそうですね.散歩者の夢想MLではなく、孤独な散歩者の
夢想MLになりそうです
問題意識----、大学で聞かされた言葉です.妙に印象に残っている響きですが、我
我の現役時代にはこの言葉は、現実が先行し過ぎて、効力を失っていたのではありま
すまいか.最近亡くなられたある方に
「----まだ十分に理解できるところまでには到達しませんが、問題意識の所在は明ら
かであり、また共感されます。『他者』とのディスカッションによって----」87年10
月26日
とおっしゃっていただいたことがありましたが、その時は正直言って、私には自分の
問題意識の所在が何処なのかわかりませんでした.自分の抱いている問題意識の所在
さえ『他者』に教えてもらわなければ分らない、というほど「理解」とは難しいこと
だと思います.先に正解(結果)を求めないで下さい.まず自己の知識と経験と感性
を動員して理解に努め(過程)、次いで自分の力で正解を創り上げて下さい(過程)
Jun 9, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その62】
8日の日本経済新聞は1面で中高年の再就職難が深刻化している旨、報じています.
編集中期【その61】で触れた問題意識には当初から、バブルや空洞化が表面化する以
前から、雇用の深刻化が予感され失業が大きな位置を占めてきました.教育と雇用は
無関係ではありません.またSOHOでは馘首と失業は紙一重ですから、中高年の当事者
の一人として、失業は重くのしかかってくる問題です
中高年の失業者は奈落の淵に立たされ、絶望の極に追い遣られることさえ珍しくあ
りますまい.その絶望に向かうには、仕事がないとしたら「心の支え」が必要だと思
います.絶望しているのは自分一人ではない、という想い.その想いを支えてくれる
他者との心の連帯----、失業は心の癒しの問題でもあると思います
過去、他のMLへ参加していた経験から一言.MLには時に、「普通の発言」とは
波長の異なる投稿が紛れ込むことがあります.精神的に追い込まれている人々の、常
軌を逸した投稿やそのMLの趣旨に相応しくない投稿がそれです.高がMLです.特
に中高年の参加しているMLでは、MLの趣旨に合う合わないと決めつける前に、的
はずれの投稿の、その人の心を推し量り手を差し伸べる必要がある場合は、MLの参
加者には打鍵する程度の援助しかできないのですから、「本来の発言」を全員一時停
止してでも、的はずれの投稿に真摯に応じる必要があると思います
Jun 9, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その63】
再び過去に戻り、さらに運動場から教室に入ってみましょう.教室は鬼門でしたが、
記憶をほぐせば、教室にも愉快な情景が現われるかも知れません
まず教室ではなく学校の行事から一つ、軽井沢の林間学校をとり上げます.学校が
楽しいと感じられたその象徴が軽井沢の林間学校です.悲観的な心理状態では唯一と
さえ思えてしまう、それほど林間学校は楽しかったのですが、それは林間学校が家庭
からの初めての解放であり、あるいは自立への最初のトライアルであったことにも関
係していると思います.子どもにも自由は必要です.自分たちで洗い、片づけ、食事
をつくり、年下の子の面倒をみる、つまり自分たちで「助け合う自由」も子どもには
必要なのです.距離を置いた大人の援助は欠かせませんが、弱いからこそ子どもは助
け合いの精神を身につけており、例えば小学校三四年位から高校生まで、私立も公立
も都会も田舎も混ざり合って年に一度、少なくとも一ヶ月は、親も先生も家も学校も
子どもの世界から退いて、子どもに自由を与え、自主と自立の精神を養うことが大切
だと思います
軽井沢は中上級の生徒が一緒になった共同生活でした.担任もクラスも学年も関係
なく、----記憶がはっきりしません.小間切れの心象を記します
先生の輪ができなかったことが、教室のスターと落ちこぼれの色分けが消えたこと
が、林間学校のすべてでした.戸外の闇での肝試しは、自分一人が頼りであって、親
も先生も助けてはくれません.励ましてくれるのは仲間であり、無事の生還を喜んで
くれるのも仲間です.トーナメント方式のソフトボール大会は勝つための戦いであり、
ピッチャーは上級生を含めた真剣な打ち合わせで決まります.日頃の戦績に基づいて、
教師には意外と思われる子どもが選ばれます.そして勝つ!
家庭では喧嘩三昧の兄弟姉妹が、頼もしい兄になりやさしい姉に戻るのもこの時で
す.炊飯から着替えから荷造りまで、生活のすべてを自分一人でやらなくてはならな
いのですから、林間学校では助け合いの精神と思いやりが、そして自主性と自立心が
養われます.今の日本の子どもはいつ「自由」の教育を受けるのでしょう? 子ども
に対し、教師と親と受験制度と経済体制と情報がべったり干渉し雁字搦めに拘束して
いる今の日本には、勉強はあっても教育は存在しないように思われます
教室に戻ります.次は、音楽室
Jun 10, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その64】
子どもの「のど」は多様です.教師が熱意のあまり、オペラ歌手のような発声法を
子どもに命じ、それを授業の開始のつど全員に課し、耳のよい教師のこと、音をはず
したり発声の下手な子どもを昼休みや放課後に呼びつけて個別指導、するとしたら音
楽室は拷問部屋に変わります
転校した小六の音楽は得点のための筆記の授業、しかし、先生の表情を再現させる
ことはできそうです.中学の若い音楽教師は三重丸、穏やかな先生は生徒に無理強い
しませんでした.つまり自分にとっても他人にとっても楽しくない、または不快な、
さらには滑稽な生徒の歌は聞きたくない、という当然の要望を、他人の不幸を肴に楽
しむ手合いを除き生徒全員の幸福のために、いとも簡単に実現してくれました.私語
でざわつく教室の、グランドピアノに隠れて蚊の鳴くように歌っても、合格点をくれ
たのです
私にはこの歳になってようやく、なくては困る音楽が何曲か集まりました.モーツ
ァルトの未完の曲もその一つです.私はこの曲を聴けることに無上の喜びを感じます.
同時に、夭折した表現者の晩年の心象に深い関心があります.文字であれ色であれ音
であれ、私にとっての傑作はいずれも「老人の作品」あるいは「晩年の作品」に属し
ています.その中には、我々の平均寿命を上まわる年齢で制作した未完の彫刻も含ま
れます.表現力が尽きた後の、あるいは生命力が滅びる際の、諦観や絶望や極限に促
されて制作した表現が、まったくの偶然ですが、いずれも私にとっての傑作になって
います.老いには、また死神には、微塵も人間の表現活動を損なうことはできないよ
うです
中学の音楽の先生は心象の中で瑞々しく息づいています
拷問部屋の先生の方は表情が分かりません.一人か複数かも、男か女かも思い出せ
ません.悪魔の化身でなければ地獄の使者だったのでしょう.今では黒い影にすぎま
せんが、そのダース・ベーダーからの贈り物が、今も私の宝石箱で赤々と耀いている
のですから不思議です
Jun 10, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
(K.427も 好きな部分だけですがよく聴きます.未完の彫刻は特定の一作を指します.
この二人の表現者についても、好きでない作品が無数にあります.しかし、伝え聞い
た作品だけを鑑賞するようでは、表現者の「起伏」を理解することはできないと思い
ます)
【その65】
生まれて初めて、都内繁華街の劇場だったと思いますが、劇というものを観に行き
ました.と言っても自分に閉じこもりがちな子であったので、クラス全員が外出する
その目的も行く先も知らないで、幕が上がって初めて劇を観に来たことを悟りました.
その劇の名前は「森は生きている」、宝石箱の中身は12人の妖精の終わりを知らな
い焚き火の歌
劇の筋は、涙を流して感動した、筈であると思いますが印象は枯れました.大人に
なってからテレビで見た「森は生きている」は、物語りにも画面にもなじめませんで
した.今も赤々と耀いている宝石は、小学生当時に魅せられた終わりを知らない焚き
火の歌.その歌声と情景が、今も心の中で燃えています
意味はうっとうしい、説諭も改心も煩わしい、永遠に歌の中で暮らしていたい、そ
の想いを四季折々の情景に託し、12人の妖精が歌います
Jun 10, 1997 plnssnr@reverie-prmnr
【その66】
北西の角に位置する音楽室を抜けると、西側道路に添って体育館がありました.昼
休みや放課後に体育館を覗くと、暗くひっそり静まり返っており、底冷えのする真冬
はとても遊ぶ気にはなれませんが、真夏は涼みがてら、壇上に上がったり、飛び箱や
マットを使って遊んだことがあります
なにしろ休み時間になると、先生の姿を見ない学校でした.自由時間の教師と子ど
もは、自由時間の子どもと大人は、別々の世界に属していました
引退者と現役者の関係にも同じことが言えると思います.定年の瞬間、会社は昨日
まで働いていた人間をお払い箱にします.会社は決して引退者の言を受け入れません.
一般に今の世の中では、普通の勤め人が「社会的」に発言できる機会は、また普通の
勤め人が私生活や趣味とは別に「社会的」な発言を聞いてもらえる機会は、自分の勤
め先とその関連先に限られますから、引退と同時に勤め人は、「社会的」な発言を聞
いてもらえる機会を失います.情報を一方的に聞くだけで、あるいは引退者同士で発
散し合うだけで、現役の世界から疎外されたまま晩年を送るのが現代の引退者です
大人社会から疎外された子どもは落ち込むでしょうか? 私個人の場合はそれは歓
迎すべきことでした.今日のように「大人社会の暗部」を後から後から報じられる状
況下では、むしろ子どもの私の側が、大人社会から疎外されることを要求したと思い
ます.子どもの心は白紙です.社会的不公正とその隠蔽工作、さらにはその正当化が
横行する社会には何の未練も抱きません.しかし、同じ疎外された者であっても、引
退者となると反応は違ってきます.引退者は別の世界を築くことなく、現役社会の附
属物として振る舞っているように思われます.あるいは現役社会におもねり、しがみ
ついているように思われます.そろそろ我々は、子どもの魂を取り戻してもよいので
はありますまいか.現役の「振り」をする老後であっては、現役の追憶にひたり、現
役に懸想する老後であっては、子どもや孫に顔向けできない、ように思えるのですが
Jun 10, 1997 plnssnr@reverie-prmnr