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【舞台写真の注記】
注:婦人生活12月号附録「防寒毛糸編物全集」の画像使用は、株式会社婦人生活社に
ご了解いただいております。
注:祖父が武藤様とお呼びし、最近まで母姉妹が初代と思いこんでいた「佐吉さん」
というお方は、四世杵屋佐吉(1884〜1945)を指しています。両親が宿泊した湯河原
の旅館兼別荘の名前「芙蓉荘」も、長唄芙蓉会に因んだものと思われます。四世杵屋
佐吉は長唄の歴史に残る人物と聞かされておりますが、長唄はもとより、芸事一切に
無知な私は、その重みを理解する力がありません。
注:芙蓉荘での朝の件は、寡黙な父と、人前では極端に口数が少なかった母との取り
合わせですから会話が成り立たず、心配した祖父が草加煎餅を託して、佐次郎さんに
様子見をお願いした事情があります。宿泊した翌朝、障子を開けたところ、庭を隔て
た向かいの部屋に、佐吉さんと佐次郎さんの心配そうな顔があったそうです。
注:お浚いでは、お囃子は太左衛門さん(九世望月太左衛門、1902〜46、望月は長唄
囃子方の名門)に決まっていたそうです。一方、伊十郎さん(七世芳村伊十郎、1901
〜73、歌舞伎長唄界の唄方第一人者)は、伊四郎さん時代は兔も角、名取りでもない
母に合わせて唄ってくれたのは異例だったと、母の妹さんも語っています。お二人は
とても上品で、太左衛門さんは見るからに温厚な方、伊十郎さんは、佐次郎さん宅に
出かけた夜、佐次郎家お手伝いの娘が焦がれて、枕を抱えて寝たほどの人気でした。
注:佐吉さん亡き後の昭和25年、戦後、最初に開いたお浚いで、母は頼まれ、佐次郎
さんと唄方二人の四人で「三曲糸の調」を演奏しました。しかし、引き続き佐次郎さ
んが依頼に来られた折は、繊維問屋「内紛」の壁が立ち塞がり、母は舞台に立つこと
が出来なくなりました。
母は七十九歳の今も仕事の合間に、たった一人で「三曲糸の調」を弾くことがあり
ます。
注:母の女学校は毎年クラス替えがありましたが、偶然にも三年から五年までの担任
は同じ先生でした。その最初の年、真面目一方でしたが、緊張すると斜視になる母を
誤解して、教室で手厳しく叱りつけ、先生が後で詫びた経緯があります。戦後も英会
話の教育に尽力されましたが、女学校の生徒難の折、公私ともに順風満帆では決して
なく、母の記憶に残る師の一人です。
先生は算盤が苦手で、商家育ちの母を職員室に呼びクラス全員の成績を計算させた
ので、皆の成績が分かってしまったとか。その成績の、学年一番を自分のクラスから
出すために、担任同士も競っていたそうです。
母の地区では尋常小学校と高等小学校(当時は六・二制)が別々にあったのですが、
父の郷里では尋常小と高等小が一つ敷地内にあり、尋常高等小学校という名前になっ
ています。尋常小学校を卒業後、高等小学校に進むか、五年制の中学校や女学校(高
等女学校のこと。但し母の女学校は絵や書など特殊な授業が加わっていましたので、
名門でしたが、名称に「高等」はつきません)へ進む路がありました。母は府立の女学
校を目指したのですが、祖父に反対され私立へ進学。母の妹さんは、特に裕福な子女
の通う女学校(九段に記念碑があります)へ進学。父も母も最高学府への進学は許さ
れませんでした。
注:女学校優等賞の色紙には「たゆみなく学びの糸の経緯(タテヌキ、縦糸と横糸)に
今日織り出でつ大和錦を」と記されているそうです。署名は李子(ももこ)とお呼びし
ます。五年生の書道の先生です。教室は咳払い一つないほど緊張したとか。
注:お色直しの着物は、母が女学校を卒業した折に、長唄のお浚い用にと、祖父が大
黒屋(岡田染物店)に作らせたもの。その折、同じ店に頼んだ一着にお掛けがありま
す。厚手羽二重地に、片袖に三百、全部で千羽の鶴を、嘴に至るまで縫い合わせ部分
で柄合わせ。描くのも縫うのも熟練技です。戦争の影響で、鶴の目に予定していた金
泥はさすがに入れられなかったそうです。
母のお色直しの着物は戦後の昭和23年、母の妹さんが挙式した折の婚礼衣裳。式場
はバラック時代の問屋の二階。お掛けは着る余裕なし。翌年の十月二十日に新築前の
問屋で祖父病死。
母が結婚のとき使用した鬘(かつら)は、昭和12年、やはり長唄のお浚い用に人形町
で拵(こしら)えさせたもの。土台は金属の、板ではなく網を使用した高価なもの。自
毛で島田に結うと、お風呂のとき解かなければならなかった。そこで左次郎さんの奥
さんが祖母にすすめ、祖父の知らない間に作らせてしまったので、厚みを増した母の
島田を見て、祖父は訝(いぶか)ったそうです。
当時、母姉妹のお正月用の髪は、朝五時に起き、浅草の仲見世で簪(かんざし)を求
め、連絡してあった人形町の髪結いで島田に結ってもらいました。その折の足は、片
道七銭、早朝往復割引九銭の市電でした。
注:着物が七点写っている画像は上段左から「浴衣」「銀鼠の錦紗地に下がり藤」「総
絞りに花模様の刺繍」「藍鼠地に御所解き模様」 下段左から「御召し、濃紺二色使い
地に象牙色の縞模様」「紫の平絽地に撫子模様」「鶸色地に蝋纈染めのよろけ縞」鶸は
ヒワ、蝋纈はロウケツと読みます。
注:昭和26年の暮れに、母のお手伝いが郷里から連れてきた従業員(今年で勤続48年)
の記憶では、神田の店は大きなバラックで、新築になったのは昭和27年だったそうで
す。祖母の算盤を前にした写真は、その新築の二階です。現在は跡形もありませんが、
私が昭和32年から住んだ居間と台所も写真の通りで、他に、繁忙期は倉庫になった子
供部屋一、祖母の居間を商談用に改装した応接一が「住まい部分」のすべてでした。
昭和30年代までは住込みの従業員もいましたので、家族と従業員が一つ便所を使用
する状態でした。父が再興した問屋は次第に富んで、従業員の給与もよく、金銭的に
は豊かになりましたが、今日の住空間からは想像もできないほど、質素な面もあった
のです。
注:浅草は祖父母の縁(ゆかり)の土地です。祖母の短命だった父は警察署長。それ以
前は武家某の右筆の家系です。祖母の母は、名のあるお武家の末裔で、京からお駕籠
でお輿入れ。幼い頃、大水に遭い、一日中、水に漬かっていたところ、両足が萎えて
しまい、母姉妹が訪れた時は、いつも座布団に坐っていた優しい人です。
祖母は小卒ですが、勤め先は日本銀行でした。身元の保証があったのと、計算がで
きたのです。袴を履いて、浅草から徒歩で通っていました。その当時の神田界隈は見
渡す限り沼のような湿地で、遮るものがなく、浅草から日本銀行まで真っ直ぐ歩けた
そうです。
お玉が池については、お玉稲荷とその近くの猫の額の緑地に、千代田区教育委員会
の建てた案内板があります。但し発見するのは一苦労。
注:祖父の先祖は埼玉の庄屋です。維新後、浅草に移って足袋屋を開業(その際、姓
の一字を役所が勝手に書き換えてしまったとか)、鳴かず飛ばずを、その子(祖父)が
立て直したそうです。母の芸事の師は祖父の足袋屋時代の関係者です。※追記:その
後に入手した祖父の自伝に拠りますと、祖父の父方の先祖は埼玉ではなく下総國高木
村の庄屋であり、祖父の母方の実家は草加(埼玉県)の左官職とありました。
祖父は勢いに乗り、神田に繊維問屋を開店、大震災の復興期に、素材と仕立てを吟
味した作業衣を商い、巨富を築き、上野駅で祖父の屋号を告げると、知らない車夫が
いなかったとは、祖父の死の折、店を訪れた商工会役員の手向けの言葉でした。※追
記:やはり祖父の自伝に拠りますと「大震災の復興期に、素材と仕立てを吟味した」
の項はその反対で、祖父の事業は震災のため成功を覆されそうになったのであり、震
災直後は「よいも悪いもなく」ものさえあれば売れた時代だったそうです。その辺の
事情は、自伝抄録【祖父の肖像】をご参照下さい。
しかし、大震災の前後三年は「長男の肺病死、大地震、長女の肺病死」と続いたの
ですから、祖父母にとっては辛い時代でした。祖父は二十年後も、跡継ぎの死を悲し
んでいたそうです。長男が生きていれば、祖父母の間も、祖母の親戚との関係も、私
の両親の一生も違ったものになったでしょう。医学や戦争など、個人では手の施しよ
うのない状況によって、人間の一生が簡単に変わってしまう姿が、古い写真にはよく
現われています。
祖父も父も自助の人です。痛みの分かち合いを説きながら、自らは経済の基盤さえ
覆し、衆から報酬を絞り取り、自助を棚上げにするような権力や選良とは対極に位置
しています。二人は四六時中、事業の先行きに不安を抱き、家族を案じ、他者を頼ら
ず、基盤を侵さず、黙々と働き続けていました。同時に祖父は、自ら稼ぎ出した財貨
を、厚化粧の自己顕示に費やすのではなく、芸と履き違えた狂騒に投資するのでもな
く、伝統美様式の後援者として、娘を介した継承者として、費消し「生産」し続けて
いたのです。母が祖父を敬愛する所以です。
注:現在の母の仕事に褒状はありません。しかし母は、学業や三味線同様、些かも手
抜きせず、職人の自負をもって精緻な型紙作りに励んでいます。その腕は昔の成績と
遜色がありません。型紙はやがて母の足跡を完全に拭い去って、量産の衣服に転じま
すが、母はそれを当然のこととして、仕事に没頭できる機会だけで充足しています。
自立した下積みと、自助の下請けの相互依存こそが、分業社会の達成であり指針で
はありますまいか。名を成した一握りも、相互依存と独立した部分では、関係の鉤に
位置する秀逸の、十倍百倍に相当する功労が存在できるとは思えません。同時に、お
仕着せの結果を貪り、時間認識を覆す飽食ではなく、過程に見出す様式化された「生
産」を私は評価します。
注:先日、お茶やお花に「名取り」という言葉を用いましたところ、踊りと違い、例
えば母のお花は「古流生花教授、家元師範、松永斎□□□□」お茶は「江戸千家茶道
教授、好雪庵□□□□」ですから、母の流派では、師範や茶道教授がよいと指摘され
ました。どうもお恥ずかしい限りです。
注:編集の優先は「資料提供者の気持ち、資料の解釈、次いで画像の鮮明な再現」の
順になります。また資料の点検は休日の数時間に限られていますので、画像の縮尺版
を用意するなど見やすさへの配慮は、後回しになっています。
---------- 20-Oct-1999
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