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注:店という言葉は「祖父および父の店」の意味に使っている場合があります。
【遠い昔のこぼれ話】
【銭湯】戦前の神田の店にはお風呂がありませんでした。遠縁のYさんの店にあった
お風呂は、偶々その家が旧家であったという特殊事情です。祖母は月々白木屋で四〜
五百円も散財、やがて買うものがなくなってしまい、外商員相手に無駄話で時間を潰
したほどですが、日常の生活は当時の問屋一般と変わりなく、祖母の一家は従業員同
様、近くの銭湯を利用、湯上がりには神田駅のガード越しに、富士の雄姿が見えたそ
うです。
銭湯通いの件は、母は女学校では口にしませんでした。
日本髪に結った時も銭湯に行くのですが、母は挙式の二日前、銭湯では可哀相だか
らと、Yさんがお風呂を貸してくれたそうです。旧家であっても成功しても「何様然」
は野暮の骨頂、母の幼馴染は向こう三軒両隣、別け隔てなしでした。
【別れ】神田の店周辺は昭和初期、呉服の古着卸、駄菓子の製造卸(龍閑町一帯)、作
業衣の製造卸が混在していました。但し、震災復旧時に龍閑町は区画整理に遭い、駄
菓子の製造卸は一斉に錦糸町へ移転、股引(ももひき)に素足で餡を練っていた姿は母
の前から消えました。
龍閑町界隈では、羊羹から飴菓子、干菓子、砂糖菓子、花林糖、煎餅と、当時の駄
菓子小売の扱う品はどれも自前で製造。後に駄菓子小売相手の花火問屋も出店、こち
らは区画整理後も暫く残っていたそうです。
問屋は問屋、素人は相手にしませんので、駄菓子も花火も母たち子らは、銭湯裏手
の駄菓子屋さんを利用。因みに私は、最近まで駄菓子に対する母の気持ちを誤解して
いました。母が嫌っていたのはオマケ目当ての飴の買い食いです。
区画整理後、母の幼馴染は駄菓子製造卸の移転で、作業衣卸と古着卸の子らに減り
ました。店の真裏は古着商。古着と言いましても、よい物から襤褸同然まで様々でし
たが、高級呉服の古着商で、緋毛氈の敷かれたN商店の、華やかな婚礼衣裳に囲まれ、
将棋をさすのが母の遊びの一つ。男女別学の学校と違い、男女「共遊」の、中にN商
店の七人子の長男、母より一歳下のNさんがいました。
古着の卸商はそれぞれ独立店舗。しかし販売は専ら、三本の幹線道路が交差する角
の常設市場。年末には行火(あんか)を抱え、各店の枡席に坐り、お正月用の着物を商
っていた、その常設市場は震災後、五階建ての大きなビルに建て替えられ、枡席での
商いも消えました。
常設市場ビルの最上階はダンスホール。そこで踊っていた娘はダンスの巧みで玉の
輿、に魅せられ母もダンスは祖父が待った!
古着卸を廃業したNさんは、往時は当たり前だった借地住まいを、泡期に地上げに
見舞われ、底地買いの洗礼を浴び、昨年(1998年)、昔の地主とは似て非なる底地権者
に、七十七年間住んでいた我が家を追われました。眼の検査帰りの母を認め、自転車
を下りて待っていたNさんと立ち話の母は、父の体が気になって、すぐに別れてしま
った翌日、N商店は取り壊され、Nさんの姿も消えました。
訴えたかったのです、昔の母にNさんは、この社会のどうしようもない不条理を。
信託銀行右隣り、微かに写っている古着商の、娘さんが後妻に納まったのが本郷の
F先生です。もしF先生を紹介されなかったら、両親の一家は、一人生き残れたらよ
い方でした。
【薬缶】両国回向院の、祖母の実家の法事に参加したのは、祖母と、母の姉の梅ちゃ
んと、母の三人でした。丁度お経が終わった時、祭壇の飾りが倒れ、軒先に御堂の瓦
が雨のように降ってきました。ひどい揺れが収まってから、実家の人々は浅草へ、祖
母は二人の手を引いて神田の店へと急ぎました。
梅ちゃんは怯えてしまい、被服廠(徒歩十数分)方面へ行こうとするのを、祖母が強
い調子で呼び止め、足を早め、神田の店(徒歩二十数分)へ引き返しますと、店は瓦一
つ落ちていません。大振りの銅(あか)の薬缶を回しながら、従業員は炊きたてのご飯
をかけ込んでいましたが、祖父は家族の顔を見てようやく人心地。
火の手は店の並び、五、六軒隔てた洋食店から上がりましたが、従業員各自に避難
を命じ、祖母が子らと一緒に草加(祖父の母の郷里)へ向かったのは午後の三時。し
かし避難する人々が溢れ、神田川(店から二百メートル)まで歩くのがやっとで、家財
を荷車ごと神田川に投げ捨て、皇居の二重橋前広場(徒歩約三、四十分)へと向きを
変え、日比谷公園近くで一晩野宿。その折、商売にならないからと、無料で配給して
くれたパン屋さんがありました。翌日、祖父の母(八十歳まで生存)の案内で草加着。
一方、祖父は祖母とは別に、神田の店に火の手が迫ったのを確かめてから上野公園
へ避難、祖母の母親と偶然出会って、焼け残った職方の家に厄介になり、遅れて草加
に着きました。店舗の復興には、草加の大工一家が力になってくれましたので、震災
直後の問屋も、昭和初期の店の建て替えも、戦後の店のバラックも本建築も、縫製工
場の建物も、この大工一家に頼むことになります。
昭和初期の新築時は、祖父の家族は、浅草の祖母の親戚の住まいに同居。小学生の
母姉妹は浅草から円タクで登下校。当時、タクシーは交渉次第で、例えば神田から大
森まで一円ポッキリ(つまり円タク)。当時の店には、手回し式電話器と、喇叭状の拡
声器付きラジオもあったそうです。
【物干し】神田の店は、南北は隣家に、東西は路地と幹線道路に面していましたので、
朝日と西日に不自由はなかったのですが、昼日中の太陽とは縁がなく、洗濯物は屋根
の物干しを利用、物干し端の会議が成り立つほどでした。しかし何も屋根へ上がるま
でもなく、二階は隣同士、筒抜けでしたので、各戸の事情や行事も口コミで知れ渡り、
例えば十三のお祝いは、店から神田明神まで着物見物の列ができたそうです。
母の結婚前の友人知人は「長唄の世界」「小学校までの隣近所」「女学校関連」に分
かれています。長唄では番衆町のお師匠さん宅に遊びに来ていた母より二歳上の娘さ
ん。先妻のお子ですが、後妻に大切に育てられ、お稽古を終えた母と遊んでいました。
母が女学校を卒業した数ヶ月後に結核で死亡。晩年は蝋のように白かったそうです。
お師匠さんは大阪時代、生い立ちに事情があって苦労されたのですが、戦死された
息子さんも大阪から引き取ったお子で、母のお稽古仲間でした。
豊かになりますと、大揉めに揉めても二号さんを囲ったり、二号さんが後妻に納ま
ったり、二号さんのお子を引き取る例が珍しくなかった時代です。その背景には、妻
や子が容易に病死してしまう医療事情もあったのでしょう。戦争直後、母の容体が急
変して明日をも知れないとされた時、まだ死ぬと決まった訳でもないのに、祖母(母
の実母)は父に「二人の子を育てるのは大変でしょう、妹(母の実妹)を後妻に」と話
したほどです。長男と長女を亡くした祖母には「重い病気=死」という観念が染み込
んでいたのです。
母の女学校時代の級友が今も人形町や小伝馬町にご健在です。ご主人は亡く、時代
も変わりましたので、廃業されている商家も少なくありません。しかし、お一人で内
内にご商売を続けている方もいらっしゃいます。例えば西陣の帯の織元から絹の白地
問屋に嫁がれた奥様、綿布問屋の奥様など。皆さんの元気の秘訣なのでしょう。人形
町ではお囃子の名門のお子が同い歳でした。
【三曲糸の調】教室は違いましたが、母が女学校で仲良くしていたお一人に、戦前は
杵屋六左衛門さん(佐吉さんとは違う派)に師事、戦後も活躍している本職の唄方が
いらっしゃいます。その方が同窓会場の母に、戦死したお子と同年輩で、母のお師匠
さんのもう一人のお子が、母に会いたいと話していたことを伝えてくれました。お師
匠さんと「三曲糸の調」を稽古していた母の気迫が階下のお子にも伝わってきた、そ
の時の印象が四十年後も新鮮で、母が二人の共通の知人であるとわかった折、お子か
ら母についての思い出が語られ、一緒に演奏したいと話されていたのです。
---------- 30-Oct-1999
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