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注:店という言葉は「祖父および父の店」の意味に使っている場合があります。
【祖父の肖像】---その二---


 前頁より

 お金というものはいくら酷使しても疲れもせず不平も言わない
 それを空しく遊ばせて置くほど愚かなことはない
 という雑誌の記事を祖父は忘れず
 ある日、神田の問屋へ足袋を売りに行った帰り
 少年時代を過ごした鯉寺の近く
 懐かしい川勝小学校(この時は中学校)とは半丁もなく
 栄久町四十二番地、今(執筆当時)の三筋町停留所近くに
 間口二間の二階建て、家賃十五円の貸し家があり
 そこに祖父は足袋の小売店を開いた


 この時、祖父二十五歳
 二十五歳までの四、五年間が
 祖父の最も苦しい時代であり
 祖父の最も楽しい時代であった
 ある西洋の富豪の言葉「貧乏な家に生まれた者ほど幸福なことはない」を
 祖父は微かながら知ることができた


 栄久町の足袋店の屋号は
 祖父の祖父の生地から高木屋と名づけ
 屋号を藍の暖簾に染めさせた
 足袋のほかにシャツ、股引、腹掛、メリヤス等も仕入れて売った
 当時の一日の売上げは三、四円から十円
 利益は平均二割から三割
 小売の商いは小さなもので
 足袋は卸商(製造卸)でないと発展できないと思い
 小売店には多くを頼らず、足袋製造に専念していた


 この年の大晦日、夜店を思い立った
 当時、大晦日には足袋が平日の二十倍、三十倍売れたので
 店は父に任せ
 母親と二人で夜店を準備
 母親の夜店は下谷竹町の橋の際、目抜き通りで
 平素は露店を禁じられていたが
 大晦日だけ出店に寛大だった
 祖父は浅草広小路の長崎屋呉服店の前
 ある道具屋の場所を一夜二円で借りた

 晴天で冬には珍しい暖かさだったが
 夜の九時頃、俄雨
 商品を濡らすまいと戦場の騒ぎ
 大晦日の夜店は十時過ぎから賑わうので
 客足の少ない宵の雨は大きな誤算
 その日の夜店の売上げは
 母親は十五円、祖父は四円五十銭
 おまけに商品は汚れ、祖父は濡れ鼠で
 母親から「お前があんまり欲張るからだ」と言われ返す言葉がなかった
 父(祖父の父)が商っていた高木屋は七十円余り売上げた


 その後も祖父は仕事の都合で夜店を開いた
 下谷竹町の、裏通りの湯屋の前は
 誰でも勝手に店を出せたが
 よい場所は夜店の権利が数百円で売買された
 祖父の夜店は場所が悪く
 売上げは一晩で一、二円程度
 十時には店を仕舞った
 仕舞いかけに客が来て
 四円三十銭売上げた夜もあった


 或る晩、年増が十三銭の足袋を買い
 白銅を十五銭出したので、釣り銭二銭を出すと----

   お釣なぞ要りませんわ
   こんな良いところで夜店をしている方の
   お釣なぞ頂きませんよ

 と言ってさっさと行ってしまった
 そういう本人も夜店の安足袋を買うほどであり
 夜店の客と言えば十人が十人、値切るのが普通だったので
 とても不思議な客だった


 するうちに父親が腸チブスを患い肺炎を併発
 明治四十二年十二月、六十二歳で逝去


 祖父の改造足袋は主に草鞋履き用に売れたが
 その頃、ゴム底の地下足袋(直足袋)が出回り
 草鞋より体裁がよく経済的で需要が伸びた
 同じ頃、一足十銭という安さの紀州足袋(紀州産)も現われ
 大阪商人が市中で大々的に宣伝、販売を開始
 祖父は改造足袋の前途に不安を覚え
 営業方針の変更を余儀なくされた

 同業者に赤足袋の行商卸をやっている者がいた
 赤い綿ネルに文羽(?)で造る幼児用の赤い足袋を
 市中の足袋屋へ卸す行商で
 大きな資本が要らないので祖父も真似たが
 価格が低く、冬の一時期に限られ
 有望な商売にはならなかった

 跣足袋の行商卸も始めたが
 跣足袋には多くの有力業者が販売の地盤を固め
 対抗するには貸売りが必要で
 商人度胸のない祖父は踏み込めず
 現金売りで通し、思わしい結果を得られなかった


 祖父結婚、三十歳
 翌年、長男が生まれる


 ある正月、改造足袋の材料に
 鉄道荷役の法被(古着)を四百枚仕入れたが
 法被には「生け」と称して
 破れていずそのまま着られる古着があって
 三十一日はひと月遅れの大晦日、川口に市が立つと聞き
 祖父は川口へ出かけることにした

 川口は五里もあり
 出遅れるとよい場所を確保できないので
 古法被数百と若干の足袋を車に満載
 小僧一人を連れ、家を出たのは午前の一時

 御徒町の暗闇で「オイ、待て」と警察官が誰何
 どこから来た、どこへ行く、積み荷はなにか----と尋問され
 縄を解いて積み荷を見せ、事情を話して疑いは晴れたが

 上野広小路で再び警察官が誰何
 古着商の鑑札がないので連行されそうになったが
 懸命に事情を話して解放された

 道潅山の下を過ぎ
 王子を越して
 赤羽の渡船場でようやく夜明け

 暁の川風は頬を刺すように冷たく
 河原は霜で真っ白だった

 川を越えるとほどなく川口

 着いたのは朝の七時
 出店の商人は影も見えず
 不審に思って土地の人に聞くと
 市は夜!
 確かめずに来た軽率さを祖父は悔いた
 町の中ほどの、火の見の下に店を出した

 午後の二時頃には、股引草鞋履きのお百姓さん姿のお客が現われ
 古着、小布、シャツ、股引、足袋、下駄、農具、乾物、野菜、おでん等
 出店商人も相当増え
 どの店も繁盛、市は真夜中まで賑わった

 祖父も古法被を山積み
 その脇に足袋を並べたが
 足袋は完売するも、法被の売上はたったの三枚
 古法被一枚の、原価十三銭を三十銭で売り
 安いと言われ値切られもしなかったが
 古法被が売れたのは十年も昔の話と知り
 足袋を大量に持ち込めば相当な売上になったものをと
 人に言われるまま出かけてきたことを祖父は恥じた

 十七円の売上を懐に
 居酒屋で食べたケンチン汁と
 傾けた徳利の濁酒が
 忘れられないほど旨かった

 夜市の帰り
 売れ残った古法被を車に積んで
 午前二時、道灌山の下に差し掛かると
 一方は鬱蒼とした山、一方は稲田の
 数丁先に坂がある
 一本道なので迷う筈はなく
 小僧を見にやると
 急で車では越せないと言う
 今度は祖父が見に行くと
 木陰に電燈が灯って路面に反射
 遠くより望むと急坂に見えたのは
 睡眠不足による錯覚だった

 前の藪から獣が逃げたが
 この辺り、悪い狐が棲むという落語さながらで
 狐に誑かされるとはこのような事を言うのであろう----


 二月初旬、若い男がズボンを売りに来た
 綺麗な仕立てで値段も頃合いだったので
 持参した五、六本全部買い上げた
 男はズボンを仕立てる職方で
 神田方面の問屋の仕事を請け負い
 二月は閑なので
 ピン切れ(断ち落とし)を仕立てて売り歩くのだと言う
 下谷入谷町の某方に寄寓しているが
 自分に仕事を出してくれる卸店があれば
 独立したい意向であった

 祖父は仕立物卸の売買を極めて有望に思い
 いつ始めようかと深く心に期していたが
 布地を裁断する技術は足袋作りで熟達
 他の技術も研究すればできると思い
 男の語り終わるのを待って

 自分は仕立物卸を始める意向だが
 その折は職方として仕事を引き受けて欲しいと申し出
 職方と卸店の関係、工料、裁断の方法を細かく聞き出し
 おぼろげながら仕立物卸の売買を知り得た祖父は
 矢も楯もたまらなくなって神田方面へ店探しに出かけ
 市区改正になって間もない場所に目をつけ
 間口九尺、家賃十五円、敷金百円の貸し家を借りた
 この時の祖父の資金は銀行預金七百円、足袋と足袋材料五百円

 足袋作りと栄久町の足袋店は存続
 母親と弟と小僧に任せ
 足袋店の資金には手を触れず
 遊び金七百円を仕立物卸の資金に充て
 妻と小僧一人を連れ神田へ移った

 七百円のうち敷金と商品棚の支払いを済ませると
 商品の仕入資金は五百円ほどになり
 文明紺(綿布の商標?)(一反八十五銭)
 生藍棒(?)のシャツ地(一反一円五十七銭)
 カネ里(?)という晒の綾(一碼(ヤード)十三銭)
 晒木綿(一反二十三銭)などを仕入れ
 綿布が職方より仕立てられるのを待って
 大正三年三月三日に店(卸)を開いた

 開業当日は帆前掛け三枚だけで
 合計三十九銭の売上げだった

 店の付近には有力な同業者が軒を並べ
 間口九尺の店に客がつかないのは当然だったが
 それに加え製品が職方任せで
 大型サイズの中に小型サイズが混入したり
 祖父の裁断も衿繰りを背中側に開けるなど滑稽な失敗を重ね
 生地相場の下落や展示中の褪色のため原価割れの商品もあって
 万一、仕立物が不結果に終わった場合
 祖父は足袋の卸も考えていた

 しかし、ここで足袋の卸を始めると
 店周辺への問屋卸(大卸)ができなくなる懸念があった
 仕立物の店(卸)を開いただけで
 足袋問屋は祖父が足袋も卸すであろうと考え
 よい感情を持っていなかったが
 その時はその時のことと祖父は腹を決めた

 足袋の卸は秋から冬のはじめに限られ
 問屋卸(大卸)ができないと
 それまでに製造した足袋を貯蔵しなければならないが
 在庫を持ちこたえる資金がないので
 足袋の問屋卸(大卸)は祖父の命綱になっていた

 開店初年度の売上げは僅か二千九百円
 損して売ったものもあるので利益は出ず
 この間も改造足袋の製造に励み
 足袋の問屋卸も続けられたので
 生活費への食い込みは避けられたが
 職方への支払いに窮して
 祖父と祖母の晴れ着を入質、五十円に替え
 支払いに充てたこともあった


 ここで再び原稿が欠けています----


 その頃の祖父は店に来るお客を神様のように有り難く思った
 たとえ僅かでも買ってくれるお客は真実有難く思った


 祖父は仕入の素人であり小買いなので
 同業者より仕入も工料も割高で
 型入れも不慣れなため裁断の無駄が多く
 儲けを極力薄めないと同業者に対抗できないと考え
 すべて他店よりも安く売ったため
 安すぎて却って売れない品さえあった

 同業者は二割三割も儲けて売ったが
 祖父は五分七分の儲けだったので
 染めが悪いなどと噂されたが
 品物がわかるブローカーがよく買いに来た

 当時は十四日払い、晦日払いが普通であったが
 はじめは一片の信用もなかったので
 現金引き換えでないと釦一つも買えなかった祖父は
 開店後ほどなく綿布相場が暴落したその影響を免れて
 開店二年目で二万円を売上げ
 三年目に十万円
 四年目に二十万円と嘘のように躍進した

 九尺間口では狭すぎたので
 空いた隣家に早速移り
 人手も足りなかったので栄久町の店を閉鎖
 母親と弟も祖父の店に合流した


 同業者は綿布を日本橋の綿布問屋から仕入れていたが
 祖父は産地直接仕入れを思い立ち
 数日分の売上げを懐に名古屋と大阪に出かけ
 旅館に着くとウロ覚えの店名や荷箱にあった店名を
 電話帳で引いて所在地を確かめた

 はじめは仕立て屋風情とあしらわれ相手にされなかったが
 足繁く通い
 前金で払い
 多すぎる量でも我慢して手当てしたので
 信用を得て
 東京の綿布問屋と同じ値段で買えるようになり

 綿布ブローカーを使って
 綿布問屋より安く同業者(仕立て物卸)に綿布を売ったが
 やがて祖父が売っていたのが気づかれてしまい
 綿布を買えなくなってしまった

 その後、格安の出物(綿布)は祖父のものとされ
 商売できなくなったと綿布ブローカーがこぼしていたが
 祖父は手を替え品を変え綿布を売らせたので
 仕入れはもとより営業のすべてに通じ
 資金も余裕が生まれ
 祖父は何物をも恐れないようになった
 しかし躍進する販売量に製造が追いつかず
 品切れが続出
 お客を失望させたのが遺憾であった


 開店五年目の大正八年六月、祖父の店の軒並びに
 土蔵付き四戸建ての売り家があったので一万二千円で買った

 その年の十月
 祖父の店の家主が俄かに一万円で売ると言い出した
 祖父の店は金物屋と二戸続きで
 祖父の店の家賃は二十六円
 金物屋の家賃は二十四円
 売り値の一万円は相場の倍

 祖父の裏に住む同業者が
 祖父が繁盛する理由を場所に求め
 祖父を立ち退かせれば自分が繁盛できると思い
 家を買ったばかりの祖父のこと
 一万円の金は出せないであろうと考えた挙句の小細工だったが
 祖父は即座に買ってしまい
 隣りの金物屋も立ち退かせ
 間口を四間半に拡張し現在(執筆時)に至っている

 祖父は二万数千円の出費にさしたる痛痒も感じなかった

 朝から晩まで山のように群れる客のため
 昼飯は三時になることも珍しくなかった
 それを祖父と祖母と小僧の三人でやり通し
 商い高は夢中の余り判らなかった

 客足の絶える夕方から裁断をはじめ
 ベッタラ市の頃は冬物の最盛期で
 夜を徹して裁断した


 祖父はその間も関西方面へ夜行で出かけ夜行で帰った
 仕入れる量が多いのでご馳走と酒と女で歓待されたが
 祖父には商売ほど楽しみなものはなく
 店の忙しさを思うと気が気ではなく
 馳走を振り切って帰るので
 仏様のようだと呆れられた


 この間、長女と二女が生まれ
 長男が九歳で病死した
 肺炎を患い
 殆ど快癒したが
 静養のため千葉県勝浦へ遣ったところ
 付き添いの祖父の母親が伝染病にかかり
 急遽、長男と帰京
 母親はほどなく全快したが
 長男は肺炎を再発して急死した

 私は今でもそう思う
 あの時もっと手當てをよく志て遣ったら
 死ぬのではなかったであろうにと
 親としての私は
 亡き児に済まぬような思いが消えぬ


 欧州戦争の勃発とともに物価が暴騰した
 綿布の価格は三倍四倍に跳ね上がった
 工料は二倍三倍と際限なく値上げを要求
 応じないと職方は罷業同盟を企てたので
 困り果てた祖父は縫製工場の自営を思い立った
 大正十年十一月
 浅草玉姫町の売り家を買い
 ミシン十七台を設置
 小さいながら工場を設けた

 祖父は毎朝、早朝割引きの市電で工場へ通い
 職工の養成につとめ
 漸く能率が上がり始めた時
 震災で工場は灰になった

 戦争の暴騰相場は綿布商にも成金を輩出したが
 戦後の大暴落で成金は水泡の如く消えてしまった

 祖父の仕立物はほとんど綿布のため
 暴騰と暴落で相応の影響を被ったが
 思惑には微塵も手を出さなかったので
 利益は少なかったが
 大きな損も免れた


 祖父の創業九年目の年
 大正十二年----

 当時は売上帳を記入しなかったので年商は不明だが
 銀行当座通帳を調べると入金高は六十八万円に達していた
 店員も十人余りいたので
 祖父が自ら裁断機を握る必要はなく
 長年着馴れた襤褸の厚司(アツシ)を脱いで
 結城の着物に着替え
 白金の時計を買い
 酒を飲むことも覚えた


 九月一日

 快晴
 微風が吹いていた

 午前十一時五十八分に地震
 東京は一瞬にして阿鼻叫喚の巷と化した

 祖父の付近では潰れた家は殆どなかったが
 屋根瓦が崩れ落ち
 電車通りを土煙りが朦々と立ち込めた

 遠くに火の手

 妻は先に母親と子達を連れ丸の内方面へ逃げた
 祖父は店の前でトラックを呼び止め
 商品や家財の搬出を交渉
 手当たり次第に積み込んで
 秋葉原の広場へ運び込ませ
 それを二度繰り返した所で火の手が迫り
 運転手は二十円払ってくれないと積まぬと言い出し
 お金は残らず妻が持って行ったので
 店員の手持ちを借りて積ませたが
 五時頃
 急に風が強まり
 店にも煙が覆ってきて
 諦めるよりほかはなかった

 祖父は残っていた店員四、五人を連れ上野公園へ逃げた
 途中、パンを買いたかったがどこの店にも食べ物はなく
 公園は避難の人で立錐の余地もなかった

 芝生の上で一夜を明かし
 翌朝、避難していた妻の母親と巡り合った

 腹が空いてどうにもならなかったので
 店員の金を借り集め
 谷中方面へ米を買いに出かけ
 売れ残りの南京米を買い
 拾った洗面器で米を煮ようと
 博物館の噴水を汲みに行ったところ
 職方の某に出合い
 その住まい(箕輪)に同行
 火事を免れていたので
 ひとまず厄介になった

 家族の行方が心にかかった
 本所方面に避難した弟も気がかりだった
 本所方面では数万人の焼死者があったとの噂
 祖父は火の鎮まるのを待って尋ねに出たが
 浅草橋の広場の
 焼け死んだ死体の惨状は言語に絶した
 中にもしや弟でもと思い
 死体の一人一人を覗いて歩いた

 それから程なく母親と子達と
 弟にも巡り合うことが出来
 皆で無事を喜び合った
 一同は祖父の母親の生地、埼玉県草加のA方に厄介になった


 当時の祖父の商品は店の他に
 尾張屋倉庫、東神倉庫、自家工場
 および二十余軒の請負職方等に散在していたが
 そのどれもが焼失
 僅か一、二の職方の元にあった加工依頼品だけが焼け残った

 トラックで搬出した商品や家財も灰になり
 積み出しの際、手に触った白金の時計だけが手元に残った

 当時の祖父の不動産は
 店と
 隣家を買収して拡張準備中の工場と
 貸しつけてあった店舗四戸と土蔵一棟の
 どれ一つとして焼け残ったものはなかった

 店は一切現金売りで売掛けはなし
 祖父の好意の時貸し千七百円は回収不能

 仕入先に預けてあった材料二万五、六千円分は
 ある者は焼失したので弁済の義務なしと抗弁
 ある者は半額を弁済
 ある者は年賦で全額償ってくれた

 当時の祖父の資産は
 三菱銀行に預金四万円
 近江銀行、明治銀行等の預金が合せて一万円
 有価証券二万三千円

 火災保険は弁償の義務なしと契約にあったが
 政府の補助融資があって
 保険額の二十分の一が見舞金として支払われ
 祖父の手元にも見舞金一万円近くが入った

 支払い制限令により
 銀行預金の引き出しは一日百円まで
 明治銀行は渋谷に立ち退いたので
 草加から渋谷まで毎日徒歩で引き出しに行った

 当時の祖父の債務は仕入れ未払金二万九千円
 罹災直後は
 多くは無条件で半額は負けてくれたが
 それを等閑視(いい加減視)する失策を犯し
 祖父は債務全額を年賦または月賦で支払ってしまった


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