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注:店という言葉は「祖父および父の店」の意味に使っている場合があります。
【祖父の肖像】---その三---


 前頁より

 余焔の鎮まるのを待って祖父は店の焼け跡に立った
 どちらを向いても果ても知らない焼け野原であった
 再び旧のように家が立ち並ぶのは幾年後であろうか
 営々と築き上げた努力の結晶も一夕にして煙と化した
 それを思うと商売する気力が起こらず
 田舎で鮒を釣って暮していた

 再び焼け跡へ灰を掻きに来て驚いた
 焼け野原に同業者が露店を出して盛んに商売
 祖父の店の焼け跡では立ち退き先の札を
 顧客が蝟集して読んでいた
 それを見た祖父は今更ながら自分の遅鈍さに呆れ
 直ちに関西方面へ仕入れに向った
 東海道線は不通だったので中央線を利用
 名古屋に着くのに二十時間余りを要した

 十一月にバラック建ての店舗が完成
 祖父の一家は田舎(草加)から戻ることが出来た

 当時、祖父が名古屋や大阪から仕入れる荷は量が多く
 船便に拠ったので到着するまで一ヶ月余りを要し
 毎日、荷物が着くのを芝浦まで見に行った

 震災後一年ほどは品物さえあればいくらでも売れた
 良いもない、悪いものない
 安いもない、高いもない

 それ故、裁縫請負職方で気働きのある者は
 自分で生地を仕入れ直接製造販売を始め
 相当の成績をあげたので忽ちこの種の業者が続出
 市内はもとより近郊までこれらの卸行商が氾濫した

 祖父の職方も卸行商を始めた者が多く
 祖父の縫製に支障が出たので
 店の二階にミシンを並べ縫製すると
 ミシンを踏むたびにバラックがキイキイ鳴って気味が悪かった
 そのうちミシン二十七台を備えた工場が完成
 早速製造を開始した


 大正十三年四月、長女七歳で死亡
 はじめ風邪と言われたが脳膜炎であった
 死の数日前から意識不明になり
 何の苦悶も見せず
 眠り続けたまま死んで行った


 未曾有の災害直後の好況は長続きする筈もなく
 交通機関の復旧に伴い
 従来は専ら東京を仕入地盤にしていた東北方面の客が
 東京を素通りして関西方面へ向うようになり
 東京の物資が豊富になるのと反比例して売れ行きが鈍り
 同業者も激増したので祖父の商売は競争が激化
 品薄の綿糸の現物が四百円のとき
 定期先物は二百四十円と大逆鞘になり
 綿糸の動きにつれ騰貴していた綿布も値下がり
 震災後続出した同業者の中には早くも倒産する者が現われた

 祖父は高値の品物を膨大に抱えていたので
 暴落が続くので気が気ではなかった
 それでも信用の有り難さで
 軽い損をする程度で売れていた

 当時は一難去ってまた一難の始末で相当苦労させられた
 この時、祖父は四十二歳の厄年

 三女生まれる

 難関をようやく突破したと思った昭和二年
 銀行の取り付け騒ぎが起きた
 当時、祖父は営業上の取引に近江銀行を利用
 近江には二万八千円の定期預金があった
 定期預金の見返りに
 当座での過振り(当座借越)を頼んでおいたので
 近江危うしの噂を聞いて
 定期預金相当額を借り越してしまったが
 今度は近江は大丈夫という風評が立ち
 騒ぐことは無理に銀行を潰すようなものだと承知
 取引きを続けていた

 近江は平素から風評がよくなかったので
 流動資金以外の金は近江には置かなかったが
 金利が他行に比べ高率だったので
 つい金利に惹かれた祖父の愚かさ(←祖父自身の述懐です)

 数日後、近江銀行が休業を発表
 その発表を祖父がまだ知らない朝
 名古屋の取引先一つが祖父の店に掛け取りに来た

 近江が潰れた、祖父が危ないと
 今度は祖父の店が一斉に取り付けを食ったが
 祖父は買掛けを無造作に支払った
 その頃の祖父はそれ位の金額は
 痛痒を感じないで決済することができた

 昭和四年十月、店舗改築
 二男生まれる


 その後、商売は順調だったが
 綿布相場の漸落による商品価格の低下のため
 商いは減少した
 年商は
 昭和四年 五十一万四千円
 昭和八年 三十四万円
 数量は左程減った訳ではないので
 加工設備に変化はなかった
 不況を乗り切るため
 扱い品目の拡大や輸出方面への販路開拓を試みたが
 この頃から祖父の聴力が衰え
 輸出は断念せざるを得なくなった


 不況の打開策の一つに見本市があった
 東京、大阪、名古屋の各地で
 様々な卸業者が結束して
 毎年、春秋二回開催
 種々の顧客優待法を講じたので人気を博した

 東京では商工奨励館主催と実業商報社主催が同期に二箇所で開催
 祖父は後者に加入、会場は上野公園の自治会館で
 参加は玩具、文房具、帽子、袋物、洋品雑貨の各卸業者百余店
 祖父の同業者も四、五店が参加した

 祖父は毎回、会期三日間で四、五万円を売上げ
 業種を問わず、それだけ売上げる参加者は一店もなく
 他の参加者は驚きの目で見ていたが
 好成績の理由は
 見本市の客はその九割が永年取引の馴染み客で
 多くが地方客のこととて
 平素信用している店を選ぶのは当然の話
 囮一、二品を安く売っても客を惑わすだけで
 手持ちの少ない店(弱小店)はとかく出荷も遅れ
 見本市での販売力は普段の商いの反映であった


 見本市が盛んになるにつれ
 問屋街でも二箇所の見本市に時を合せ
 店頭で見本市を開催
 祖父の店でも倣ったが
 上野の会場に人手を割き
 店頭は人手が足りず
 客が蝟集しても、難聴でどうにもならず
 祖父は悲しみと苛立たちを募らせた

 見本市は期中から出荷を催促されたが
 四、五百の荷物を梱るには十日も要し
 店頭は荷物の山、通行人は足の踏み場もない始末に
 道路妨害として
 幾度も警察から呼び出され大叱言を食った


 雅量のない祖父は
 仕入れ、裁断、職方指図、販売、宣伝の枢要すべてを
 自分でやらないと気が済まないので
 難聴のため店員に任せるようになっても
 自然、客扱いの怠慢が目につき
 値段でサービスをと考え
 儲けて売るべきを、思い切り安く売ることもあった

 儲ける時は大きく儲け
 値引く時は法外に安く売り
 極端な性格の祖父には
 利益率の「程」ということが分からなかった


 昭和二年は不況のどん底にあったが
 その後、回復
 昭和十年の年商は四十四万円に達した

 しかし難聴が進み
 商売を拡張するのが堪え難くなって
 運転資金を貯金に回し、商売の縮小を計ったが
 地方客が送金までして注文を寄せる
 それを断わるのは徳義上、出来難く
 注文に応じると
 自然、製品が間に合わなくなって
 知らず知らずに製造機構が膨れ
 昭和十二年の日中戦争勃発時までに
 請負職方三十四軒と自家工場とで
 日々、三百人近くが仕立て加工に従事
 当時、綿布はかなり安値であったが
 それでも年商は四十九万円になった


 翌昭和十三年六月、勅令により
 綿布は売買裁断等の禁止
 厳重な統制下に置かれ
 綿布の仕入れが絶えたが
 祖父の手元には相当手持ちがあり
 綿布相場が三倍に暴騰したこともあって
 半年しか商売が出来なかったが
 年商は七十七万円に達した

 取締官庁は我々業者を厳しく監視
 祖父は業界の頭目視され、一層監視が酷く
 国賊と罵られてまで金を儲けようとは思わず
 疑いをかけられるようなことは極力避けたが
 それでも幾度か取り調べを受け
 何としても店を子供に引き継ぐまで頑張ろうとしたが
 遂に辛抱出来ず
 昭和十五年十二月、廃業した


 商売をしていた頃の祖父は
 起床後まもなく裁断屋へ出勤
 裁断の手筈を決め
 工場と職方への割当を考え
 朝食を済ませ
 店に坐って商いを監視しながら
 絶えず仕入れと職方に応対
 釦の数を計算
 製品を収納
 工料と仕入れ代金を支払い
 毎月発行する商報の帯封を書き
 それを三百六十五日繰り返していたが
 夜業だけはやらぬ事にしていた

 毎日、昏方になるのを待ちかねて
 銭湯に出かけ
 その湯に浸かっている間こそ
 開放される時であった

 湯の帰り
 大きな月が昇った時なぞうっとり眺め
 歌を考え
 危うく自動車に挽かれそうになったり
 立ち話なぞして遅く帰ると
 留守に新製品が仕上がっていて
 客が買いたいと願っても
 売り値がわからず
 祖父の帰りを待ちわびていたりして
 湯に行ったとて道草も出来ず
 始終、商売に監禁されているようで
 時にはしみじみ
 商売が嫌になったこともあった


 商売をやめて二年余りになるが
 長年の習慣が染み込んでいて
 今でも朝起きたときなど
 重要なことを忘れているのではないかと案じてしまい
 落ち着いて習い事でもと思っても
 なかなかそれが出来なかった

 同業者で、歌をやっている人があった
 その人が新聞に投稿したところ

 ----以下、原稿の最終頁(92KB)へ続きます。


 祖父の行きつけの銭湯は、近場の神田ではなく日本橋でした。ほとんど毎日、銭湯
帰りに屋台の「鮨安」に寄り、好物のトロを、まだ明るいうちにいくつか握ってもら
い、食べて帰るのも祖父の楽しみでした。

 鮨好きの祖父は、夕飯を終えた夜の九時頃、近所の鮨屋は美味くなかったので、七
時頃から現われる屋台の鮨屋で、女学校に通っていた母と一緒に、祖父はトロを、母
は鮑(塩蒸し、当時は比較的安かった)を小さな西洋皿に盛ってもらい、火鉢のそば
で食べるのが楽しみでした。祖母や母の妹弟は、夕食後とて、一度お相伴に預かり、
寝られなくなってしまってからは、祖父と母だけの楽しみになっていました。祖母の
好みは赤貝の鮨でしたが、祖父は鰻やトロなど、今日でもご馳走とされる食べ物が好
きでした。

 祖父には徳利蒐集の趣味もあって、綿布問屋のご主人など、気の合った二、三人と
年に一度、北陸や京都の窯元を訪れ、徳利百組(二百本)を買い集めたそうです。今も
母の元には、木米らしき徳利が残っています。

 戦争は徳利を十数本を残して、なにもかも灰にしてしまいました。しかし母には記
憶が残されています。時間をかけて、祖父についての記憶も辿ってみたいと思います。

                             
---------- 19-Dec-1999



 着物の模様
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