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 この画面の解像度は幅800ピクセルを想定しています.


【着物の模様】


現在(2000年1月11日)、の手元に残っている着物の模様です。
戦時中、祖母の長襦袢に仕立て直した着物の柄も含みます。



昭和10年一越(ひとこし)縮緬古代紫色地に御所解(ごしょどき)模様

昭和10年一越縮緬御納戸(おなんど)色地に御所解模様

昭和11年一越縮緬鴨川づくし
忠臣蔵の一力茶屋と討入の場
母が長唄「二つ巴」を演奏するため

昭和13年紗綾形(さやがた)綸子(りんず)(ひわ)色地に鈴ちらし
鈴は手絞りの鹿の子に刺繍
(ししゅう)入り

昭和15年留袖(とめそで)幔幕(まんまく)に菊
店を母に継がせるため祖父の家紋

昭和15年(ろ)縮緬の留袖白鷺に葦
夏の結婚式は稀ですが、祖父は
着物作りの最後と考え描かせました

同じ絽でも絽縮緬は、盛夏のごく一時期に限って着るとのことです。
画面を明るくしますと白鷺の下の写真中央に絽の地肌が現われます。





※2000年2月8日追加
昭和17年の結婚式で母が着たお色直しの衣裳(一越縮緬)は、昭和12年に
祖父が母の長唄用に描かせた振袖です。お掛けは職人が屋根裏で描いたそ
うですが、お色直しの新調は時代が許さなかったのです。この振袖、母に
次いで佐次郎さんの義妹が、戦後は母の実妹が結婚式で着ています。着物
の模様は  が身頃、は裾廻し(裾の裏側)、   は袖です。


※2000年2月15日記述
着物の模様の、画像へのアクセスが多いのに驚きました。一日数件あれば
よいと思っていましたところ、その十倍はあるのです(----人気サイトに
比べますと誠にお恥ずかしい---)。いろいろご感想が寄せられ感謝してお
ります。その中で「画像が小さくて残念だ」「ありふれた模様だ」に関し
ましては、私の紹介が舌足らずであったと反省しております。補足しまし
ょう。先ず、最も大切な「心」の準備のために、過日、ML内で投稿した
雑談の抜粋から入って行きます。

先日の日曜日、皇居の東御苑(公開)へ向う途中、空模様が気になり、行
き先を変え、東京国立博物館の「皇室の名宝−美と伝統の精華」を観てき
ました。ひどい混雑! しかし伊藤若冲の展示場所が奥だったことが幸い
してとても満足、お薦めの特別展でした。

レストランで昼食後、本館の常設展で、一、二の作品を観てから帰りまし
た。生憎、私の風邪がうつり妻子は留守番でしたから、ここ数十年、風邪
をひいたことのない母と二人だけでしたが、上野駅周辺の駐車料金の高さ
に驚いたほかは、平穏で豊かな日曜でした。

MLのサイトに載せた模様の着物、保存を考えますと頭が痛いです。よい
お智恵はないでしょうか?

戦前に、着物を作ってもらったお店は、歌舞伎の名優、Uさんが贔屓にし
ていたO呉服店です。Uさんは舞台衣裳にもこだわったのでしょう、その
お店の屋号はDです(その後Oは呉服店ではなく染物店であり屋号はDK、
またDKと競っていたとされる染物店にDHという店もあることを知りま
した)。

やはり戦前、長唄の会で母の「鴨川づくし」の着物を見て、富裕で知られ
たA社の創業一族B家に頼まれ、祖母が紹介したO染物店も、戦後は技術
者不足のためB家で手一杯になり、今では技術も廃れてしまったというの
が関係者の弁です。

因みに司町のO染物店の奥様も、またご主人は西陣のご出身で人形町で絹
の白地問屋をやっておられたNさんも母の幼馴染、どちらも女学校の同級
生ですので、今でも行き来があり、会うたびに母の「お掛け」を見せて欲
しい----。

母は「お掛け」を人に見せません。しかしカラー画像でご紹介しなかった
のは私の考えです。すでにご紹介したモノクロの婚礼写真に、その「色」
が鮮明に現われているからです。

着物の写真の画像は、解像度を上げれば細部まで見事に写る、という訳で
ないことを知りました。画像を大きくしますと、織り目が現れたり柄がバ
ラケてしまい、着物の持ち味が消えてしまうことがあるのです。また一枚
の着物の図柄総点の、一番多く掲載した画像でも着物全体の半分程度、ど
れも襟や肩など、目立つ部分は載せていませんでしょう。柄合わせの見事
さ、着物全体の優雅さは、とてもモニターではご紹介出来ません。本当は
現物をゆったり見てもらえると嬉しいのですが---。

絽の留袖は、そう、絽には絽縮緬やいわゆる絽(ひら絽)など種類があるの
ですね。その絽縮緬は、夏の、それも最も暑い一期に限るという観念が当
時の商家にはありました。ですが、盛夏に結婚式を上げるなど普通では考
えられませんでしょう。事実、絽縮緬の主はその後六十年間、たった一度
着ただけです。時代が時代ですから、悲愴な想いが商人にあり、滅び逝く
美の象徴として「着る機会のない着物」を作らせたと、遠い昔、常に商人
の傍にあった主は思っております。

長唄「二つ巴」の演奏用の着物の模様は、古典の図柄を土台に、忠臣蔵の
「一力茶屋」の景を模して描かせたものです。柄合せの技巧だけでなく、
着物に費やす商人の心も、遠い過去になりました。

残っている帯も見事です。しかし帯の織りは今日、コンピュータ技術に拠
って膨大な型が制作できるとかで、ご紹介しても「なんだ、何処にでもあ
る」となりますので画像の掲載はやめました。同じく昭和三十年前半に、
同じ染物店に作ってもらった留袖で、どの帆にも家紋を入れた「銭屋の船
出」も、戦前との技術の差は一目でしたので掲載はやめました。

戦前のこれらの着物には、注文主も、制作側も、持ち主も秘めていた「も
う一つの美」が隠されていたのですね。着物の主は、実際にO染物店の、
ご主人が職人と力を合わせて下絵を描くその場に立ち合っておりました。
なぜかおわかりですか? O染物店がつくる着物とは、名優であれ商家の
娘であれ着物の主一人一人の、その美を最高に引き出す工芸だったのです。
その技には機械仕掛けのコピーなど----。確かに現代はコピーが氾濫して
いますが、コピーでは、立ち入ることのできない領域があるのです。

美術館等で着物の現物をご覧になれば読み取れると思います。その美の系
譜に、着物の主は、無論、主が再三強調している「素人」としてですが、
主題の同異ではなく、モノクロ写真でご紹介した一部の着物の主題の「斬
新さ」でもなく、古典的図柄の筆づかい、色づかい、そして全体的雰囲気
に、時代の個性を観ております。因みに主は、着物の書籍に親しみ、着物
の美術展にも通い、さらに今でもO染物店の着物の関係者、つまり幼馴染
と会い、着物を話題にしておりますが、画像を並べただけの資料では、本
物の凄みも伝統の変遷も読み取れない、と申しております。

私のサイトでは「表現」を試みています。着物は所詮、現物でないとその
美はわかりません。

着物を直接インターネットで観ていただく訳には行きません。また絹の着
物は滅びます。しかし滅びの美も、拙い言葉で恐縮ですが、文章を添える
ことによって、さらには「自らが実践する生活」によって、復活させるこ
とが可能ではありますまいか。掲載しました模様の艶(あで)やかさを読み
取っていただけましたでしょうか。



さらに追記です。上の「戦前」という言葉は誤りです。母に指摘され冷や
汗をかきました。傍観者の悲しさで、つい言葉遊びが顔を出します。戦前
ではなく、昭和十年代の「両親の挙式の前まで」と改めなければなりませ
ん。昭和も十五年になりますと、祖父は業界の頭目としてたびたび警察に
呼ばれ、税務署からは縁の下まで調べられ、もし着物の柄に金泥を使えば、
憲兵に引っ張られてしまったであろうと聞かされています。やがて商売ま
で廃業させられてしまう十年代の状況が、美感に無縁とは思えません。
それは例えば現代の、子育て真っ盛りの歳に失業や倒産を経験した感受性
が、遊興や暇つぶしの「観照眼」とは別であるのと同じです。私の美も、
その種の次元に立っています。


※2000年2月16日記述
美を追い求める今になって、内外の、政経の歴史を疎かにしていたことが
悔やまれます。コピーの量産品は別ですが、丹精こめた工芸品では、同じ
古典模様であっても、時代の個性が滲み出るのではありますまいか(工芸
の表現者は、時代を越えた普遍性に埋没するのを恐れるのではありますま
いか)。 上の着物の主は、現代の着物に御所解を見出しても、黙している
ことが少なくありません。関心がない? いいえ、探しものが見つからな
いのだと思います。仮に、鎖国の時代と侵略の時代の双方に同一の技術、
同一の主題、同一の雰囲気の、完成度の高い着物があった場合、どちらの
着物にも、各々時代の個性はないとお考えですか?

着物の主が今日、御所解をとりあげる場合、古典的主題に最先端の斬新性
を求めているのだと思います。昭和十年代の商人はその資質や生い立ちの
上に、状況に捕縛された「観照眼」によって美を想い、一着あたり、当時
の西陣織の丸帯の、最高値を上まわる財貨を投じて描かせた着物に、時代
の斬新性を求めていたのだと想います。同じ古代模様でも、それぞれの時
代に固有する持ち味がなければ--------。最高に値する工芸はどれも、状
況の束縛から、逃れることはできないのではありますまいか。

祖父は関東大震災と東京大空襲で店を焼かれ、後者では基盤まで覆されて
しまいました。母は二二六事件を記憶しています。銃弾が飛んでくると噂
され、昭和通りは無人、警官の姿もなく、雪の中に、ひき逃げされた死体
が横たわっていたそうです。戦争は学校生活まで浸透しましたが、世相は
意気軒昂であり、母の場合、暗い生活がはじまったのは太平洋戦争からで
す。しかし父は、すでに輜重兵として従軍、輜重隊は狙撃や砲撃の標的に
なりますから、日中戦争で死の恐怖を体験、深夜の行軍中に事故で歯を失
い、生涯、具合の悪い入れ歯生活、上官に殴られた顎の傷も死ぬまで消え
ませんでした。歴史の年表によりますと(月次の順不同)


昭02:金融恐慌はじまる  
昭03:治安維持法改正  
昭04:世界恐慌はじまる(昭05に日本へ波及・昭和恐慌)  
昭06:満州事変、不況激化  
昭07:満州国建国宣言、五一五事件  
昭08:国際連盟脱退、綿布輸出量世界一位  
昭09:東北冷害などで大凶作  
昭10:綿布輸出量史上最高、17年ぶり貿易黒字  
昭11:二二六事件、人絹糸生産高世界一位  
昭12:日中戦争はじまる、南京占領、物価騰貴、独空軍ゲルニカ爆撃  
昭13:国家総動員法公布、電力国家管理  
昭14:国民徴用令公布施行、価格地代給与等釘づけ、
   国策会社盛んに設立、第二次世界大戦はじまる  
昭15:日独伊三国同盟調印、町内会・隣保班等訓令、大政翼賛会発会  
昭16:現役陸相が組閣、12月8日太平洋戦争はじまる。


当時は

昭13:大日本陸軍従軍画家協会結成  
昭14:陸軍美術協会結成、第一回聖戦美術展  
昭15:陸軍省盛んに画家を大陸戦線へ派遣  
昭16:第二回聖戦美術展、美術雑誌第一次統合

など、我が国の芸術家が否応なく戦争に駆り出されて行ったのですから、
衆人環視の着物の模様を、想う通りに表現するのも容易ではなかったと思
います。


着物の主は戦後半世紀間、服飾デザインに従事、着物の模様も最先端から
批判的に眺めてきました。マティス、ミロ、ニキなどの作品を愛し、それ
らの特別展では巨匠の作品を模したアクセサリーやスカーフを買い求め、
後者は惜し気もなく裁断、ブラウスに仕立て直し作品の個性を楽しんでお
ります。


 ※


商売をしていた頃の私は、起床後まもなく裁断屋へ出勤、裁断の手筈を決
め、工場と職方への割当を考え、朝食を済ませ、店に坐って商いを監視し
ながら、絶えず仕入れと職方に応対、釦の数を計算、製品を収納、工料と
仕入れ代金を支払い、毎月発行する商報の帯封を書き、それを三百六十五
日繰り返していたが、夜業だけはやらぬ事にしていた。

毎日、昏方になるのを待ちかねて、銭湯に出かけ、その湯に浸かっている
間こそ開放される時であった。湯の帰り、大きな月が昇った時なぞ、うっ
とり眺め、歌を考え、危うく自動車に挽かれそうになったり、立ち話なぞ
して遅く帰ると、留守に新製品が仕上がっていて、客が買いたいと願って
も売り値がわからず、私の帰りを待ちわびていたりして、湯に行ったとて
道草も出来ず、始終商売に監禁されているようで、時にはしみじみ、商売
が嫌になったこともあった。

商売をやめて二年余りになるが、長年の習慣が染み込んでいて、今でも朝
起きたときなど、重要なことを忘れているのではないかと案じてしまい、
落ち着いて習い事でもと思っても、なかなかそれが出来なかった。


    父の歌いでしよと我か枕辺に
       新聞をもて子の己れを起す


斯う志て私はいまでは其の日其の日の時間を消すことに苦しんでいる。い
まの無聊の苦しさに比べると往時の寸暇も無くて苦しかつた事なぞ何でも
無い。否それはいま憶えば苦しみではなくつてそれは大きな楽みであつた
のだ楽みも大き過ぎると一寸苦しみと間違い易いそれを苦みと思つたのは
私の思ちがいであつたと今となつて悟つた。

                        銭湯/明治生まれの商人の述懐


三升の寿司飯
和裁の点数
婚儀披露宴御席表
風呂敷包みより軽かった
馬力が我が家に到着した日
父親って孤独ですね
本郷のお医者さま
故郷って、いいですね
昭和30年9月の草野球
昔の今 昭和二十年代?
市川市菅野から千代田区神田へ


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遠い昔の「舞台」写真
舞台写真の注記
昭和二、三十年代
遠い昔のこぼれ話


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