大正関東地震 自伝抄録・祖父の肖像より抜粋
快晴
微風が吹いていた
午前十一時五十八分に地震
東京は一瞬にして阿鼻叫喚の巷と化した
私の付近では潰れた家は殆どなかったが
屋根瓦が崩れ落ち
電車通りを土煙りが朦々と立ち込めた
遠くに火の手
妻は先に母親と子達を連れ丸の内方面へ逃げた
私は店の前でトラックを呼び止め
商品や家財の搬出を交渉
手当たり次第に積み込んで
秋葉原の広場へ運び込ませ
それを二度繰り返した所で火の手が迫り
運転手は二十円払ってくれないと積まぬと言い出し
お金は残らず妻が持って行ったので
店員の手持ちを借りて積ませたが
五時頃
急に風が強まり
店にも煙が覆ってきて
諦めるよりほかはなかった
私は残っていた店員四、五人を連れ上野公園へ逃げた
途中、パンを買いたかったがどこの店にも食べ物はなく
公園は避難の人で立錐の余地もなかった
芝生の上で一夜を明かし
翌朝、避難していた妻の母親と巡り合った
腹が空いてどうにもならなかったので
店員の金を借り集め
谷中方面へ米を買いに出かけ
売れ残りの南京米を買い
拾った洗面器で米を煮ようと
博物館の噴水を汲みに行ったところ
職方の某に出合い
その住まい(箕輪)に同行
火事を免れていたので
ひとまず厄介になった
家族の行方が心にかかった
本所方面に避難した弟も気がかりだった
本所方面では数万人の焼死者があったとの噂
私は火の鎮まるのを待って尋ねに出たが
浅草橋の広場の
焼け死んだ死体の惨状は言語に絶した
中にもしや弟でもと思い
死体の一人一人を覗いて歩いた
それから程なく母親と子達と
弟にも巡り合うことが出来
皆で無事を喜び合った
一同は私の母親の生地、埼玉県草加のA方に厄介になった
当時の私の商品は店の他に
尾張屋倉庫、東神倉庫、自家工場
および二十余軒の請負職方等に散在していたが
そのどれもが焼失
僅か一、二の職方の元にあった加工依頼品だけが焼け残った
トラックで搬出した商品や家財も灰になり
積み出しの際、手に触った白金の時計だけが手元に残った
当時の私の不動産は
店と
隣家を買収して拡張準備中の工場と
貸しつけてあった店舗四戸と土蔵一棟の
どれ一つとして焼け残ったものはなかった
店は一切現金売りで売掛けはなし
私の好意の時貸し千七百円は回収不能
仕入先に預けてあった材料二万五、六千円分は
ある者は焼失したので弁済の義務なしと抗弁
ある者は半額を弁済
ある者は年賦で全額償ってくれた
当時の私の資産は
三菱銀行に預金四万円
近江銀行、明治銀行等の預金が合せて一万円
有価証券二万三千円
火災保険は弁償の義務なしと契約にあったが
政府の補助融資があって
保険額の二十分の一が見舞金として支払われ
私の手元にも見舞金一万円近くが入った
支払い制限令により
銀行預金の引き出しは一日百円まで
明治銀行は渋谷に立ち退いたので
草加から渋谷まで毎日徒歩で引き出しに行った
当時の私の債務は仕入れ未払金二万九千円
罹災直後は
多くは無条件で半額は負けてくれたが
それを等閑視(いい加減視)する失策を犯し
私は債務全額を年賦または月賦で支払ってしまった
余焔の鎮まるのを待って私は店の焼け跡に立った
どちらを向いても果ても知らない焼け野原であった
再び旧のように家が立ち並ぶのは幾年後であろうか
営々と築き上げた努力の結晶も一夕にして煙と化した
それを思うと商売する気力が起こらず
田舎で鮒を釣って暮していた
再び焼け跡へ灰を掻きに来て驚いた
焼け野原に同業者が露店を出して盛んに商売
私の店の焼け跡では立ち退き先の札を
顧客が蝟集して読んでいた
それを見た私は今更ながら自分の遅鈍さに呆れ
直ちに関西方面へ仕入れに向った
東海道線は不通だったので中央線を利用
名古屋に着くのに二十時間余りを要した
十一月にバラック建ての店舗が完成
私の一家は田舎(草加)から戻ることが出来た
当時、私が名古屋や大阪から仕入れる荷は量が多く
船便に拠ったので到着するまで一ヶ月余りを要し
毎日、荷物が着くのを芝浦まで見に行った
震災後一年ほどは品物さえあればいくらでも売れた
良いもない、悪いものない
安いもない、高いもない
それ故、裁縫請負職方で気働きのある者は
自分で生地を仕入れ直接製造販売を始め
相当の成績をあげたので忽ちこの種の業者が続出
市内はもとより近郊までこれらの卸行商が氾濫した
私の職方も卸行商を始めた者が多く
私の縫製に支障が出たので
店の二階にミシンを並べ縫製すると
ミシンを踏むたびにバラックがキイキイ鳴って気味が悪かった
そのうちミシン二十七台を備えた工場が完成
早速製造を開始した
大正十三年四月、長女七歳で死亡
はじめ風邪と言われたが脳膜炎であった
死の数日前から意識不明になり
何の苦悶も見せず
眠り続けたまま死んで行った
未曾有の災害直後の好況は長続きする筈もなく
交通機関の復旧に伴い
従来は専ら東京を仕入地盤にしていた東北方面の客が
東京を素通りして関西方面へ向うようになり
東京の物資が豊富になるのと反比例して売れ行きが鈍り
同業者も激増したので私の商売は競争が激化
品薄の綿糸の現物が四百円のとき
定期先物は二百四十円と大逆鞘になり
綿糸の動きにつれ騰貴していた綿布も値下がり
震災後続出した同業者の中には早くも倒産する者が現われた
無から無への軌跡
雨の日、父が襤褸布団で寝ている枕元で
母と二人、足袋を甲縫いしている腑甲斐なさを悟り
私は仕事を探そうとしたが学問もなく資本もない
§
§
欧州戦争勃発後の暴騰相場と戦後の暴落
大正関東地震の前年に長男病死
大震災直後の好況とその後の暴落
大正関東地震の翌年に長女病死
近江銀行休業による取り付け
恐慌による綿布相場の漸落、商品価格の低下
§
§
勅令による綿布の売買裁断禁止、厳重な統制
取締官庁は我々業者を厳しく監視
私は業界の頭目視され、一層監視が酷く
国賊と罵られてまで金を儲けようとは思わず
疑いをかけられるようなことは極力避けたが
それでも幾度か取り調べを受け
何としても店を子供に引き継ぐまで頑張ろうとしたが
遂に辛抱出来ず
昭和十五年十二月、廃業した
自伝抄録・祖父の肖像を載せた
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コクピット
昔の今 昭和二十年代?
随想 繊維問屋にて
犬猫狸
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