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クリスマスの季節 −2−
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テレビの娯楽番組を見なくなりました。歳なんですね〜。昔か
らのテレビ局では、興味がわかないだけでなく、見るに堪えな
い番組や、見れば見るほど不快になる番組も増加。尤も、この
傾向は私一人であって、家族はまったく違うようです。昨晩も、
娯楽番組をめぐって家族の顰蹙(ひんしゅく)を買いました。唯
一、夕刻の7時前後に、ある局から放映されている海外の連続
ドラマが、録画を頼んでも見たい番組になっています。家庭が
舞台で、筋も珍しくないですが、歯切れのよい会話と機敏な動
きに惹かれました。
分業の社会ですから孤立しては生きられません。なかでもテレ
ビの影響は絶大です。躾も、親より先にテレビが口出しします。
配分および再配分も、寡占媒体が決定的に影響します。
「失業者は、行き詰まりを打開する調節弁ではありません。職
を確保するための経済であり政治です。」 こんな単純な言葉
を表わすのに、随想を長々と書いてしまいました。舞台壇上へ
の過度の集中も、家計の逼迫が生む「子に付与された機会」の
逸失も、調節弁と同じ次元の課題です。
今朝(二十日)、畦道の霜柱を踏んだ途端、小三の感触が蘇り
ました。
※
小三の冬の体育はサッカーでした。
養子の父は、廃業させられた問屋を、祖父の遺志を継いで戦後
に再興、郷里への仕送りとは別に、母の親族三人の、生活の援
助と、結婚の世話と、進学と新居と問屋開店の資金を拠出した
ため、やがて資金繰りに窮してしまい、市川の住まいを売却、
僅か三日の猶予で神田に引っ越すなど、お人好しの典型のよう
な遣り繰りが続き、さらに親族五人が名を連ねる「暖簾継承権
の裁判」に遭遇させられ(父の競争相手二社が父のために証言、
両親の無条件勝訴)一層寡黙になりましたが、半世紀近く経っ
た今も何かの拍子に、過去を風化させる言動に出合い、父の位
牌の前で、母が涙していることがあります。
時代が違うのです、歴史が繰り返すことはありますまい、と思
っていました。しかし最近は考えが変わりました。観念に帰依
するのでも、結論を鵜呑みにするのでも、条文を暗記するので
も、演説に熱狂するのでもなく、生の情報一こま一こまを観察、
提案は根拠まで立ち入り、少数意見にも、棄却された批判にも
謙虚に耳を貸さないと、家庭でも社会でも歴史は繰り返すと、
特に昨今は強く思っています。
忘れることは可能でも、白紙に戻すことは出来ないです、家庭
の歴史も。個人も社会も無謬が存在できない以上、一事を以っ
て白紙委任することも不可能でしょう。では過去と現在の、一
こま一こまの生情報を、一定の訴求力を維持しながら、流し続
ける担い手は誰で、媒体は何なのでしょう。
当時は「出来」を購入する余裕がなく、兄弟の制服は上着も半
ズボンも母の手作り。その仕上がりが職員室の話題になり、見
本の試作を頼みに、わざわざ係の先生が家に来られたそうです。
被り物は苦手ですが、学帽は転校するまで放せなかったです。
気落ちや涙の、表情を読まれないで済んだのです。帽子には蛇
腹、靴は編み上げ。
朝礼前も昼休みも放課後も、霜柱が立っては消える運動場でサ
ッカーボールを蹴っていました。朝夕はランドセルを枝に掛け、
着帽のまま泥濘(ぬかるみ)を走っていました。
洗濯機なんてなかったです。しかし真冬も半ズボンでしたから、
上着の跳ねは乾いてからこすり落とし、短いソックスだけ洗え
ばよかった。
その日の体育はサッカーの試合でした。神田に引っ越してから
始まった結石は兆候のかけらもなく、走りまわるだけが喜びで
したので闘争心に燃え、一度の試合で忘れられない出来事が続
けて二つ。
ボールを競り合っていた相手が宙に飛んだのです。すぐに謝り
ましたが一斉に非難の眼差し。相手の体が小さな私にかぶさっ
てしまい、勢い余って飛んだのです。「腰車がかかってしまっ
たのだね」、倒れた子が無事だったのを確認してから、先生が
口にした言葉です。
試合は再開しましたが、もう夢中にはなれません。しかしゴー
ルキーパーが、転がり込んだボールをその場に置いて、大きく
後に下がったとき、わだかまりを払うつもりで、思いきり蹴っ
てしまいました。
引っ込んでいればよかったと今でも思っています。状況は憶え
ていませんが、規則を知った上で蹴ったことは間違いないです。
道義的にでしょう、非難の声を上げたほぼ全員の男子生徒に、
先生は、「今のゴールは有効だよ」
次にサッカーに出合ったのは子らの愛読書、テレビでも放映さ
れていた連載漫画。今は? やはり歳なんでしょう。観ている
だけのスポーツは、次第に視野から消えて行きます。
「折々の写真/千葉県の公園」より房総風土記の丘
※
今朝(二十三日)まで贈り物を買う余裕がなく慌てました。予
定していた雑貨はあっさり中止、どれも身につける洋品(衣服
の冬の添え物)に変更、予算も大幅に削減、減額分は気持ちで
補うことにして
以前、社会に出ている子に「洋品」を贈ったときは、若者の好
みなど想像もできずに、銘柄を頼りに選んだ帰り道から、中年
向きかなあ〜と後悔。その後は「洋品」を避け雑貨一筋でした
が、不景気な昨日今日は実用本位、再び「洋品」選びに挑戦し
ました。
一にも二にも売り場なんです私の場合は。男物も女物も駐車場
もあるお店で、家族の行動範囲を外しますと、昔の住まいから
バスで通ったJR駅近くの百貨店一つ限り。
次に「洋品」専門の売り場を避け、衣料品売り場の人台を片端
から点検しました。但し、目をつけたのは服ではなく添え物の
方。店の係員の、売り場を飾る感覚を寸借したのです。大体が
現物限りでしたが、現在流行(はや)っている品ばかりで、しか
も売り場本来の衣料品に不釣合いなほど高い添え物などあろう
筈もなく、目当ての添え物を人台から外して、売り場の雰囲気
が物足りなく感じられれば先ず正解?
男も女も若者向きの「洋品」はこの方法で足りますが、難しい
のは同世代に向けたモノ選び。どんなに吟味しましても、モノ
では解決できない要素があまりに大きい・・・
※
私道の端から表通りを覗き、幼稚園から戻る兄を心待ちにして
いた時、耳にしたのが「失業」です。
私道の奥の我が家の西隣りには、その後、ある自治体の首長に
選ばれた人で、都内に集合店舗ビルを所有していた一家が住ん
でいました。表通りに面したお隣りは、建て替えたばかりの広
い家で、中堅企業の役職者一家が移り住んでいました。ここま
では母から教えられた想い出です。
その隣りの、初老のご夫婦のご主人が、子ども心にも不安を覚
えた「失業」状態にあったのです。竹竿と餌箱を携え、自転車
で出かける姿を目にしています。その隣りのご主人も失業中。
お二人とも戦前は会社員でしたが、お一人は失業理由不明、も
うお一人は病気のため、戦後何年も職がなく、我が家と交際の
あったご一家は、ご主人が亡くなられても、お葬式は出せなか
ったそうです。ご一家の暮らしは、偏に奥様の内職にかかって
いました。
内職をお願いするだけでなく、お弁当を人数分用意した母に連
れられ私もお邪魔、お昼を一緒に食べた記憶があります。畳の
穴が床下まで抜けていて、部屋を歩くにも足許を確かめながら。
ご家族の一人は高校卒業後、父の店で働き始め、一連の業務を
任せられるまでになりましたが、芳しくない出来事が二度まで
発覚、その折の両親の憔悴に、私は居ても立ってもいられなか
った。
暗かったです、市川の我が家の夜は。玄関の隣りに台所、その
隣りは土間に簀の下(すのこ)を敷いた風呂場、廊下の脇に汲み
取り式の手洗い、掘り炬燵のあった六畳間と寝室を兼ねた八畳
間、ほかに明かずの部屋が二つありましたが、夜分は手洗いの
天井に夜叉や魔物が現われましたので、夏は蚊帳(かや)に潜り
込み、冬は蒲団を被って寝たものです。本当に聞こえて来たの
です、幽鬼のすすり泣きや呻(うめ)き声が。
※
市川時代、クリスマスの季節に誰かに誘われ、教会の日曜学校
に出かけたことがあります。居心地が悪く、一刻も早く帰りた
かった。
次に教会に出会ったのは学生時代、父の同業者の組合が、レー
ザー裁断および自動縫製の機械設備を視察に出かけた、その一
行に加わり、ニューヨークに立ち寄った時のことです。純白の
衣裳をまとった花嫁が、花婿に手を引かれ、歩く前方に教会が
ありました。短いドレスに、褐色の肌が際立って美しかった。
── 海外旅行は当たり前になりましたが、「日常の旅」は未
だに内に籠もったままです。年齢条件一つでさえ、軛(くびき)
が行く手を遮ります。二十年も三十年も「一所」に腰を据えた
生活が、自由とも経験豊富とも思えません。 ──
知人や縁者の結婚式で、教会を訪れることもありますが、私の
場合、教会や仏閣は、美と伝統の世界に属しています。
お正月気分は早々に返上しませんと体がだるくなります。なの
にクリスマス気分は半世紀もの間、体から抜けません。
十数年前、一年中クリスマスの飾り物を販売している会社の社
長さんと、品川で面談した記憶があります。欧州に同様のお店
があるのは知っていましたが、会社はそのお店の輸入代理店で
した。クリスマスの季節には、銀座の百貨店一階に特設会場が
設けられます。しかし今年の一階は、そのお店の特設会場は見
当らず、クリスマスに向けたアクセサリー売り場が並んでいま
した。面談時は、鎌倉の直営店に出かけ、季節外れのクリスマ
ス飾りも見ています。
お正月飾りの多くは、捨てるか燃やしてしまいます。一方、ク
リスマス飾りは、一年中売っているお店があったのです。クリ
スマス飾りには、季節の行事とは別の何かがあるのかも? 電
飾と、ツリーと、贈り物と、お料理とお酒とお菓子でクリスマ
スを祝っている皆さんは、その何かをご存知なのでしょう。し
かし半世紀もの間、ずっとクリスマス気分に浸っていた私は、
浮かれ過ぎて、その何かがわかりませんでした。
※
昔は暗かったです。父が闇屋にまちがえられ、一晩勾留された
時は、夜分、知らせに来た叔父(高校生?)が、血相を変えな
がら玄関を叩いたそうです。同じ玄関に押し売りが坐り込み、
鞄から取り出したゴム紐を、買ってくれと凄まれた時は、私は
母の背後で凍りついていました。包丁で脅された時は、兄(小
学校低学年)が駆け込んだのでしょう、警官が押し売りを連行、
それからは「警官を呼びますよ」が押し売りの撃退法。
木戸の木製の錠は、工夫すると外からも開きましたが、私の出
入りは、錠をこじ開けるより、よじ登ってから飛び降りる方が
多かったです。捩じ込み式の玄関の錠は、締めて置きますと、
縁側から入られてしまうので役立たず。ただ、部屋に上がられ
ても、盗むに値するほどモノはなかった。六畳間には、普段着
が「適量」入った箪笥と、ラジオと、炬燵と押し入れ、八畳間
には、単に押し入れ、以外に何かあったかなあ〜? お掃除は、
叩(はた)いてから掃き出すだけ。散らかり放題モノがある今と
は違い、足の踏み場にも、気遣う必要はなかったです。
※
内職をお願いしていた家の北西側に、今ではその狭さに驚くほ
ど広かった三角形の公園がありました。公園の南側は三軒長屋
のマーケット。
マーケットを西に向けて通りすぎ、大きな家一軒分歩いた突き
あたりに駄菓子屋。駄菓子屋は我が家の北東方向、魚釣りや虫
採りに出かける途中の路地にも。
突きあたりの駄菓子屋は東向きで、松林に陽を遮られ暗い雰囲
気。後背に田畑の広がるもう一軒は南向きで、平台に並べられ
た木箱のガラス蓋が通るたびに光っていました。
暗い駄菓子屋の前を北に折れ、さらに西へ曲がり小一時間ほど
歩きますと校庭の隅から小学校へ。途中は荒(さび)れた住宅街
に続いて鬱蒼とした松林と塀の高いお屋敷街。
暗い駄菓子屋から南に行けばすぐに交番。交番の斜め向かいに
パン屋。パン屋から、古本屋など数軒隔てた並びに、雑誌が目
立つ新刊本屋。新刊本屋から南へは、小三か小四の頃に砂利道
が拓かれ、私鉄と国鉄の駅へ一直線。本屋の角を西に折れ、ど
ぶ川に沿って歩くとT字路の角に下駄屋。この下駄屋はお正月
になりますと、立派な和凧も商っていました。
下駄屋の向かいが熟睡に適した床屋。下駄屋と床屋に挟まれた
道を南下、商店街を進めば私鉄の駅。さらに路地を南下、街道
を横切った先に国鉄の木造の駅。駅の裏手の、線路の向こうは
荒地同然でしたが、今は住宅の密集地。
下駄屋の前で北に進み、さらに西に折れ、三十分ほど行くと小
学校と学園の最寄駅を結ぶ通学路。小学校へは私鉄沿いの路地
を歩いて通ったことも。一、二年の頃は私鉄利用。やがて徒歩
一辺倒。自動車はおろか、自転車さえ気にする必要はなかった
です。砂まじりの路を右にフラフラ、左にノソノソ寄り道三昧。
通学の途中、ある場所に差しかかりますと、私は決まって文人
の幻を見たものです。名前を小耳に挟んだのでしょう、その人
の知識を蓄えたのは中学になってから、文庫本を読むようにな
ったのは学生から中年にかけて、なので小学生の私は予備知識
ゼロでしたが、脳裏に現われる幻の印象は、成人してから学ん
だ人物像にそっくりでした。因みに当時ご本人は存命・・・を
知ったのも神田に越してから。
母にお使いを命じられ、交番近くのパン屋に出かけた折、「ウ
チはパンを売ってるの。あんたが口にできる食べ物じゃないわ。
頒(わ)けてあげるのはお情けよ」などと顔に書いてあるオバサ
ンから、その場で上下に切り分け、周囲にたっぷり余白を残し、
イチゴジャムを零点二ミリの厚さに塗ったコッペパンを渡され
てからは、パンの美味(おい)しさに惑わされることなく、二度
と買うまいと長期にわたって○○パンを逆恨み。看板のメーカ
ー名を、その店の商標と思い込んでしまったのです。
駅へ一直線の道ができた頃、どぶ川も埋められ、新刊本屋から
東北方向、我が家の庭側一、二軒先を、穴ぼこだらけの道が開
通。好きな道ではありませんでしたが、心持ち近くなりますの
で、遅くなった下校時に利用しました。
民家から漏れる明かりが一つもなく、通りに掛かると武者震い、
蛮勇奮って踏み出すのですが、すぐに怖くなってしまい、声を
発しながら駆け抜けました。雨上がりは穴ぼこに水が溜り、闇
に斑(むら)も認められましたが、瞼(まぶた)を閉じても見るも
のが変わらなかった冬の夕刻、巨大な火の玉が東の空に現われ、
北へ走って消えたのを、見たと信じるのは難しかった。本人曰
く「信じられない!」
この道で魅せられたのが、板塀から食(は)み出した青いアジサ
イ。未だに、あの花を凌ぐアジサイを知りません。
穴ぼこ道が通じてまもなく、新刊本屋に近い空地に魚屋が開店、
我が家の魚はそのお店から。
見ていて飽きることがなかったです。なかでも奇妙なのがキン
メダイの目。幸い自立するまで、キンメダイは食膳にのぼりま
せんでした。あの目が台所の俎(まないた)に乗ったら、食べる
勇気はなかったです。
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