折々の文章


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クリスマスの季節 −3−
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キン目がひときわ精彩を放っていた魚屋では、水を満たした大
樽に一枚板を渡し、店先で魚を捌く包丁の、小骨を絶つ音まで
聞こえてきました。出刃は樽の水でこまめに洗い、腸(わた)は
刃先で脇に押しやりバケツに落とす、逢魔が時刻、籠を下げた
主婦の間で、仕官学校の制服もどきに鍔(つば)付きの黒い帽子、
黒いランドセル、黒い編み上げ靴、黒い半ズボン姿は目立ちす
ぎで、大人の視線に気づいていれば、鰻屋の土間でも唐辛子の
屋台でも、立ち止まることはなかったです。

菜切り包丁は幼い頃から馴染んでいます。砥石で包丁を研ぐの
も練炭コンロに火を入れるのも、手伝いという感覚ではなかっ
たです。しかし出刃は新聞の社会面を連想するだけで、魚屋の
包丁とは結びつきませんでした。

和包丁も牛刀も、私は実際に産地に出かけ、学んでいるのです
よ。牛刀の老舗では、創業者一族に案内され工場見学、商売に
結びつくことはなかったですが、職を転じた際も手書きのご返
事をいただき、その後も二十年ほど年賀状が送られて来ました。
和包丁は刀鍛冶のご主人の、ご本人の仕事場だけでなく、砥ぎ
師の作業場とお仕事も拝見、研ぎの役割を改めて認識、幾度か
お邪魔したある日、自らの運転で案内され、いただいた「くる
み餅」が絶品でした。

学校帰りでも、お仕事のお付き合いでも、味わいのある機会と
いうものがあるのですね。元旦ですから、縁起物(包丁)のお
話を割り込ませました。


 ※


クラスの有志十数人で年賀状のデザイン・コンテスト。なのに
元旦に届いた賀状は三分の一。「やっぱりこれだけ! ほかの
連中はこれからなんだ」と、不満気に聞こえたのは錯覚でした。
「あんたのデザイン、見せてよ」
「ある訳ないじゃん、今から描(か)くんだから」

おや、この子の賀状、お父さんが住んでいた場所と同じだよ。
番地は? 離れているな〜。○丁目は昔、林だったんじゃない
かな。落ちている栗を剥(む)いて、生のまま食べた辺りだ。


注)下の図柄五点は、「有志」の一人が先ほど(元旦の深夜か
ら二日の朝にかけ)描いた賀状の仕掛りです。実際に郵送した
葉書には、図柄の縮尺を宛名面に並べ、「あなたのはコレ」と
わかる記号を挿入。







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寝言から判った図柄の意味は「馬は正月休みにつき、午年です
が馬抜きで失礼します」、馬を外した理由は「描く暇がない」、
英字の綴りは、洒落が通じ難いので仕切り直しとか。

原案(人物1人だけの図案)ができますと、一瞬で、如何様に
も変化させられるのですね。お菓子屋のバイトで貯めたお金で
昨年十月、自分専用のマックを購入してから、パソコンとの相
性が格段によくなったとか!? 世の中は私の学生時代とは比
較にならないほど進歩しました。なのになぜ不安ばかりが募る
のでしょう。もっと地について欲しいです、寡占媒体も経済も。


 ※


当時、近所には三人の同期生が住んでいました。しかし学校関
係の母のお付き合い先は、兄の同期生の保護者が主で、招かれ
てお邪魔したのも大概は兄の同級生宅、母に連れられ。

兄は活発で運動能力に勝(すぐ)れ、その分じっとしていられず
一進一退、結核性の疾患を完全に克服できたのは、特効薬の現
われた小六の時です。登校は続けていましたが、下校後、蒲団
に縛られた状態の時は、子を伴った兄の学年のお付き合いにも、
母は代わりに私を伴い、私は他家で一人ぽつねん。

離れの洋館に、所狭(せ)しと画材のあったお宅を訪問した際、
和室の縁側に腰を下ろし、甘い葡萄酒を飲んだ記憶があります。
美味しかった! 暫くして気分が悪くなった! 座敷で休ませ
てもらった! それが中学生以前にお酒を口にした最初で最後。
絵画教室の催しに呼ばれたのでしょう、しばらくは油の匂いが
抜けなかった。

私の同期生で学外で遊んだ一人は、表通りに面したお隣りの二
番目の子。ここも母親同士のお付き合いの延長でしたので、一
緒に下校した記憶は皆無。組も違っており、学校で話す機会も
なかった筈。

この家のお庭は和風仕立てで、私の遊ぶ余地はなかったのです
が、池の周囲の木賊(とくさ)が妙に気になり、そのず〜っと後、
今の住まいの一角に、農協の植木市で見つけた木賊一株を植え
ました。尤も、見境なくあれもこれも植えてしまった庭にはと
ても合わず、数年後に抜いてしまいました。

南西に向いた六畳間の明かりは二灯式で当時の私には珍しく、
笠から下がっていた紐を恐る恐る、引いては点け引いては消し。

二灯式の六畳間はお祖母(ばあ)さんの居室と思っていました。
現在の私と大して違わない歳のご婦人が、ひっそり暮らしてい
る様子。

今の小学生も私を「年寄り」と記憶するのでしょう? 少し早
いですが、自分を若年とも中年とも違った世界の住人と、昨年
の「橡の木の葉展」を契機に自覚するようになっています。


 ※


パン屋の並びに住んでいた子は、何年も同じクラスでしたが往
き来はなかったです。我が家から東へ歩いて五、六分の、野草
園を思わせる広い庭の子がM君でした。

制服を脱いだ日常は、学校とは関係のない子らが遊び友達。で
すが、遊びによって顔触れの変わった仲間の名前は一人も思い
出せません。当時も呼び名のほかは知らなかった。

小二の頃、校庭で遊んでいた生徒を集め誰かが写真を撮ってく
れました。その時、列の中ほどに立っていた女の子の姓名と顔
貌(かたち)は今も記憶、学園近くの、大きな門構えの女の子も
同様です、一度も言葉を交わす機会はなかったのに。

お互い馴れ親しんでいましても、必ずしも深く刻まれる訳では
ないのですね。

特に職場! 人間関係も、「一所」に二十年も三十年も腰を据
えてしまう社会は息が詰まる?

生まれた土地を一歩も離れず、生涯、一所で暮らし続ける生活
を尊重します。しかし私は選ばない。国内、さらには海外も旅
したいですし、言葉が通じるのであれば、故郷は一所でも、折
折の居住地は縛られたくありません。

貧しいです、年齢制限が転職を阻む社会なんて! 不況とは関
係ありません。二十代も四十代も六十代も転職が当たり前の社
会と較べて下さい。活力の欠如? 自立心の喪失? 創造力の
枯渇? 狭隘? 固陋? 甘え?

競争のない経済は瓦解しました。しかし我々社会の、出入りを
拘束されている職場環境、採用条件、労働法規、社会慣習、お
よび観念は相変わらずです。


 ※


久しぶりに都内の公園に出かけました。薄氷に鴨、日溜まりに
鳩、緑色に輝く烏の濡れ羽、洋凧がわずかに三つ、春夏秋冬い
ずれの季節も、休日にかかわらず閑散として、桜の賑わいが信
じられません。青いですね〜、お正月の空。


 ※


お正月の記憶が浅いです。楽しみが凝縮している筈なのに、人
の姿が浮かびません。火鉢で焼いたお餅、お皿に盛った蜜柑、
加留多、双六、羽根突き、和凧の、それぞれの情景は鮮明です
が塗り絵のような味気なさ。遊ぶ対象に夢中の時は、表わす意
欲が損なわれます。

父と母の和服姿、嬉しくもあり、眩しくもあり。


 ※


五日の夕餉に、幼稚園の通園時間が二十分と聞かされ、小学校
の並びなのにヘンと思ったのがヘンでした。片やまじめ一筋、
片や道草全開、ならば小学生の通学時間が園児の通園時間より
長くても不思議はありません。往路は木賊の庭の子と一緒に、
帰路は一人で。

二十三区に隣接する幼稚園の子がたった一人で、大人の足で二
十分の距離を通っていたなんて考えられます? 端整で物静か
なM君の、お人形そっくりの双子の弟妹も、幼稚園から手をつ
ないで帰る姿を、母は何度も見たんだそうです。

「人魂の出そうなお墓、朽ちた社の神社、人気(ひとけ)のない
松林、担いで跨がないと自転車が通れない穴ぼこ」のある路を
ですよ。昭和二十年代も中葉に差し掛かる頃は、飽食に満ち足
り、世相は薔薇色で、人心は和みの極にあったのかも知れませ
ん。子育てが学習の賜物であれば、ヒトとヒト直接の情報伝播
の方が、万事を寡占媒体の演出に依存する情報社会よりマシな
のかも知れません。あるいは舗装するより、穴ぼこを保全する
方が安全なのかも知れません。

幼稚園の記憶は私にもあります。西外れの砂の地面、教室、先
生、校舎、エプロンなどがかなり鮮明に残っています。


 ※


幼稚園の制服「エプロン」も母の手作りです。私の卒園時はキ
ャラコ製(つまり敷布製)が、兄が着ていたのと合わせて六着
あり、木賊の家の奥様から貸して欲しいと頼まれ、母は卒園式
前夜、フランス刺繍で、子らが遊んでいる情景を描いて差し上
げました。木賊のお宅は私の小四か小五の頃、学校近くのお屋
敷街へ転出、我が家との往き来は絶えましたが、その四半世紀
後、父が入会していたゴルフ場にご主人も加入、何年か前には
奥様から母への電話で、途絶えていた消息を少しだけ耳にして
います。

当時の私は、昭和五年に祖父が母に与えた本で、色刷りの挿絵
入り世界童話全集が好きでしたが、父の遺品を整理した折も見
つかりません。その理由がわかりました。私の卒園時、母は全
巻を幼稚園に寄贈、当時はモノのない時代でしたので、大層、
歓迎されたのです。

世界の童話は、自分で読んだのではなく親から読んで聞かせっ
てもらったこと、好きな挿絵も、幼稚園時代までに記憶したこ
と、縁側で、猫のように丸まって童話の世界に入りこんで行っ
た幻影が、時代考証のオマケまでついて事実らしいと判りまし
たが、今は茶の間で親に先立ち、寡占媒体が大人の童話を話し
て聞かせ、幼児は筋と挿絵を潜在意識で一生育む、時代が変わ
ればヒトの感性も変わるのが「自然」でも、先端の渦に馴染め
ない資質には、歳の所為(せい)では説明できない寂寥感が生ま
れてしまう、この種の断絶の存在を、疑うのもよいです、想像
するのも感受するのもよいです、とりわけ高年者に接した場合、
考えてみようとする習慣なり居住まいが、果たして我々の社会
に根づいていますかどうか。


 ※


まだ一月の十二日ですが、もう一年が過ぎてしまった気分。

以前「勝手」に書き込んだ貿易掲示板に対する応答が次第に増
え、今週は一日二、三件の引き合いメールが着信、ただそれを
生かすには、言葉も行動も気ままにできない私ですから(ある
いは「我々の社会」と言ってもよいのかも)とても多くの困難
があります。

悔しいです、半生の(あるいは一生の)我が身の腑甲斐なさが。

電話で面談を予約してから(予約できればよい方)徒党を組ん
で先様に参上(我々の商習慣では、一緒に訪問する大概が金魚
の○、あるいは自己表現の内弁慶)気候の挨拶やらご機嫌伺い
の御託を並べ商談の緒につきますが、それからがとても長い。
尤も、御託は仕事の一部と解され、御託を並べた結果、削られ
てしまう私生活の時間にも鷹揚に構えています。

中国の、東北地方の僻村でもISDNへ、ならばファクシミリもG4
が生かされる筈で、繋がりっぱなしの国際回線も少しは息がつ
けます。現地担当者の知識不足で今一つ判りませんが、その郷
でも当局が「説明会を開きます、皆さんも勉強して下さい」と
話す「よくわかんない回線」も早晩開かれるとか。私の使って
いるマシーン数台は疾うに時代遅れで、よくわかんない回線に
はとても応じられませんが、僻村のマシーンは最新か準最新。

憮然としています、我々の社会の、反応の鈍さと自立心の欠如
に。基本は一つ、モノ心ついた瞬間から口にする二ヶ国語です
が、遅いですね〜、判断も対応も。

老若男女の、誰もがもう一つの言語に通じますと、内向きの寡
占媒体は莫大な利権を失い、情報伝達の巨大な壁が崩れ、人々
の視野は自ずと介在者抜きで外に向きます。結果、庶民の開明
度(?)は飛躍的に高まり、経済も、行政も、政治も、媒体も企
業も個人も、自惚れや得意の程度が薄められてしまいますから、
内々で威を振るう采配者が困るのかも?


 ※


魚屋近くの、新刊本屋で見た雑誌が印象に残っています。雑誌
を我が家で見たのは、市川では編物の雑誌、引っ越し先の神田
の店では婦人公論、あるいは製品企画に役立つであろうと、中
学時代、小川町や神保町で見つけた海外通販雑誌の古本程度で、
見たのは表紙だけでしたが、新刊本屋の小学生向け雑誌は、活
字離れを率先していた私にも羨ましかったです。当時、その種
の雑誌を置いていた家は豊かで教育熱心な、M君や、兄の同級
生Kさんのお宅など。

N君のお宅も教育熱心でした。N君は同級でしたが、勉強の枠
外にあった私の話せる相手ではなく、顔も憶えていません。し
かし行き過ぎた熱心さに関して、話題の一人であったことは当
時から知っていました。小学生時代の教科は中身をほとんど想
い出せませんが、親同士の会話は、児にも染み込んでしまうの
ですね。

古本屋にも縁がなく、小一や小二の頃は読み書きの授業が恐怖
で、もし勉強!勉強!と追いまくられていたら、居場所がなく
なってしまったでしょう。一万の難字を読み書きできる成績上
位より、誤字だらけ仮名ばかりの文章一万字を、自由に、奔放
に書こうとする勉強嫌いを評価します。怠惰とは違いますよ。
表現する営みが、手本に即答する訓練より劣るとは思いません。
また、積極性の演出に用いる無作法、楽しさを装うための悪ふ
ざけ、わかり易さの小道具としての子世代言葉、無知を正す独
習抜きの質問、共感を呼ぶための媚び諂(へつら)い、妥当性の
根拠に用いる賛否の多少は、どれも履き違いでしょう。


 ※


関連写真をサイトのどこかに載せた編物教室に、お宅を提供し
ていたAさんが亡くなったのは三十三歳、昭和二十八年のこと
です。久しく血の気がなく、肌が蝋のように白かったとか。十
年前に罹った風邪が元で心臓に異常を併発、通院を続けていま
したが、結核には打つ術がなく、訪問先の玄関で逝去。Aさん
亡き後、お宅は売りに出され、縁者は南米へ移住、ご本人はお
一人でしたので、関係者の消息も絶えています。

我が家の斜(はす)向かい数軒目にピアノの先生。門を入った西
側に梅が数本連なり、玄関脇の庭は全面芝桜。小三の頃、落ち
ていた梅の実に味を占め、毒と知らされるまで数度は試食。秋
には、枯れかけた芝桜が閻魔コオロギの格好の棲み処(か)にな
り、追いかけまわしたところ、先生のお母さまから「草花が傷
みますよ」

女の子は熱心で熟達したピアノの生徒。一方、私は先生のお母
さまからいただくビスケットがお目当て。神田に越してからは、
ご結婚された先生が夜分に訪れ、逃げの一手の兄弟ですから習
う生徒が見当たらず、代わりに繊維問屋の女子社員に合唱指導。

先生は、午前は歯科、午後は内科を開業していた同い年とご結
婚、当時は晩婚。私は中学時代、神田の二階台所で兄の頭と衝
突、失った前歯一本の差し歯が今もこのお医者さま製。お医者
さま曰く「どれも乳歯のような歯ですね、細工が難しい」

栄養失調の痕跡は歯のほかに顔にも一ヵ所。赤ん坊時代、オデ
キがいつまでも治らず跡が残ったのですが、その場所は教えな
いと判りません。歯は疲れると浮いてしまいガタガタになりま
すが、親不知を抜いたのと、縦に裂けた臼歯一本に蓋をしたほ
かは今もなんとか。歯を食い縛るのは禁物ですが、知らず知ら
ずに食い縛る日々が続き、さあ、いつまで持つんでしょう。

お医者さまは五十一、二歳で亡くなられました。医大在学中の
息子さんは卒業後お医者さまに。それより何年も前から奥さま
の姿が見えなくなり、看護婦さんから「奥さまはずっとご病気
で、お医者さまが一人でお世話をなさっています」

お医者さまは絵がお好きで、自らもお描(か)きになり、母が歯
の治療にお邪魔するたびに、絵の話になったそうです。




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