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クリスマスの季節 −4−
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舎人公園(東京都足立区)のカモを見たら浜辺が恋しくなり、
稲毛海浜公園(千葉市美浜区)のカモを見たら海に出たくなり、
葛西臨海公園(東京都江戸川区)で遊覧船に乗ったらエンジン
の響きが心地よく、体ポカポカ気持ちウトウト。
写真はこのひと月(01年12月中旬〜02年01月中旬)テキトウに
撮ったカモです。東京港では横着を決め込み、デッキには一歩
も出ないで船室で居眠り。なお、水に浮かんでいる鳥の名前は、
何もかもカモと呼んでいます。
※
今日は十六日・・・
記憶とは不思議なものです。来る日も来る日も飽きもせず繰り
返していた日常を、よく憶えていないのです、私は。
普段は何を食べていたのか、大体は判っています。しかし同じ
体験でも、過去についての「断片」と「表現」は違うのでは?
卵は一個づつ頒けてもらい、朝の味噌汁の実はそのつどシジミ
売りから買い求め、夕方の売り声「ナット〜〜ッニトウフ!」
の「ニトウフ」という食べ物を食べたいと思ったなどは、苦労
話や自慢話じみてしまい、丁寧に書く気持ちがわきません。
郷土博物館や生活資料館に出かけますと、自分の記憶の貧しさ
や誤りがよくわかります。外部の資料に触発されれば、過去は
無数に蘇ります。しかし外に頼る記憶の展開は、やがて「その
時代に生きた」を免罪符に、体験と寸借の境が薄れてしまいま
す。「これから」にとって大切な想い出は、教本や資料館に拠
らずに、自ら掘り起こす必要があると思います。さて、その営
みをなんと名付けましょう。内規の敷設(ふせつ)・・・ まあ、
そんな言葉です。
※
長年一人でお住まいで、久しく往き来していた人が亡くなりま
すと、その瞬間から、その人の住面積に匹敵する異次元が現わ
れてしまいます、この広い宇宙に。
実際に見えている空間の一所に、暗黒ではないですね、空白で
もありません、自分がまったく関われない異次元が出現、異次
元は歳を重ねるごとに一つ、また一つと拡がり、やがて知覚で
きる一切が呑み込まれてしまいます。
幻覚でしょうか。次元を異にする瞬間、主客が入れ替わる「内
規」に断絶があるのでしょうか。色彩に餓(かつ)えてしまう所
以です。
※
私にも苦手だった食べ物があります。「出されたものは何でも
食べる、出されたものは残さず食べる、出されたものに文句を
言わない」が当たり前でしたので、苦手な食べ物も食べはしま
したが、小学生時代には玉子焼き、味噌汁、漬け物、イワシの
丸干し、お浸し、それにご飯で十分でした。出された量が多い
と、見ただけでゲンナリ。
駅への直線道路が開通した頃、父に連れられ、丸椅子の並んで
いる食堂に入った記憶があります。
「何にする」「・・・・・・・・」「中華ソバ?」「・・・・・・うん」
とまあ、こんな調子だったのでしょう、器から漂って来る異臭
に食欲を削がれ、ナルトの渦に目をまわし、濁った肉片にベソ
をかき、神田に引っ越して屋台のラーメンに遭遇するまで、中
華ソバ屋は看板も見たくなかった。
玉子焼きは好物でも、卵の産みの親は食べるに忍びなかったで
す。小学校低学年の頃、お盆の帰省だったのでしょう、父の実
家に泊まった夕方、家の裏手の、透き通った水が勢いよく流れ
ている小川に沿って、掃き清められ、固められた地面がありま
した。その地面に、まかれた野菜屑欲しさに、放し飼いのニワ
トリが集まってきたことがあります、無論、晩ご飯のオカズに
なるため。
その一羽をつかまえ、頚をひねったまでは見ていられましたが、
トリの体内の、あらゆる部位の浮いている鍋に怖じ気づき、夕
飯のオカズはないものと覚悟、トリ肉を食べられるようになっ
たのは、高校時代、女の子が用意してくれたお弁当から。
当時、同じ家族でも食べ物の好みは分かれていました。トリ肉
は相半ばでしたが、世に美味(おい)しいとされる食べ物を、喜
んで食べていた家族が三人、倹(つま)しく、ごくごく控え目な
食卓に平安と幸福を見出していた家族が一人。
現在の私は、父と雰囲気がよく似ているそうです。声だけです
と、父に親しんでいた人々をギョッとさせてしまいます。しか
し食べ物の好みは違っています。また父の寡黙は真性でしたが、
私の寡黙は擬制に過ぎません、呂律が回るようになってからは。
※
名ばかりの垣根に、我が家は山茶花とレンギョウが、お隣りは
梅とドウダンが、この団地に入居以来春夏秋冬、彩りを添えて
くれました。混濁した意識の中から「○さん、ありがとうござ
います」と告げられた言葉を、妻は生涯携えて行きます。
父の残像が、克明に現われるようになったのは、父が病気を告
げられた冬の前年、誰もが肺ガンなど夢にも疑わなかった夏か
らです。近年は毎週末、寝泊りする場所が替わるため、太陽の
下で、落ち着いて団地を眺める機会がありません。
父の闘病生活が始まった瞬間から、生活が新たな航路に乗った
ことを、今頃になって気づきました。家族への関心や気配りが
滞った原因を、父の介護に結びつけていましたが、三回忌の記
憶も遠退いた今、滞りは何処にもなく、歩んでいる道はこうな
んだなと(逸れた分岐点を振り返って、旧に復そうとする試み
の愚かさを)自覚しています。
お隣りは昨夏体調を崩され急速に悪化、介護されるご家族のお
役にたてばと、近所の親しい方と一緒に妻もお手伝い。
ご主人亡き後、十年以上もお一人でしたので、ご旅行中やお孫
さん誕生の折は、新聞や牛乳を預かるなど、お世話する機会も
少なくなく、ご自分の意思を行動で表わすお隣りを、人生の先
達として、妻は親しみを深めていました。
幼かった娘の姿が見えなくなれば、先ずお隣りに上がり込んで、
遊んでもらっていたのです。私も寂しくなります。
※
父が病死した夏の一年後、私の仲人の奥様が逝去、その翌年の
夏には父方の従兄弟、年末には母方の叔父、先週はお隣りと、
お付き合いのあった人々の不幸に、いろいろな想いが浮かんで
きます。しかし面識のない親戚の訃報や、ご無沙汰している友
人の親族のご不幸は、年末に喪中の葉書を受け取った際、「嗚
呼、お互い、そんな歳になったんだなあ」と思うだけで忘れて
しまいます。葬儀や法事は、お酒を飲まないせいでしょう、そ
れぞれのご家族の姿を、我知らず教えていただく機会になって
います。
私は不器用なので、合掌も瞑目もうまくできません。形はなん
とか繕いますが、父の葬儀の際も、祭壇や遺体を見つめるだけ
で、拝んでも何も浮かびませんでした。初詣の折も、願いごと
に見合う敬虔さが湧きません。ですから願いごとはなしで参拝、
社寺や祭壇を観ては想い、想っては観るのを楽しみにしていま
す。父の遺影にも気持ちが動きません。
私には父に会える場所があるのですよ。お墓は涙が流れるだけ
です。
茨城県の公園を訪れた帰り、惰性で運転していますと、ふっと
懐かしさが湧いて、その場所を過ぎたのに気づきます。
夢で出会うのもその場所です。
プレイを終え、お風呂に入っている裸の父
スタート前に、仲間と話しているポロシャツの父
帽子を脱いで、お昼を食べている食堂の父
父は生ビールにカレーライス、ビジターの私は鰻丼か鉄火丼
三十歳代の私はお酒を飲んでいましたので、生ビールの杯を重
ね、さらに黒ビールと水割りと地元の清酒。持たせてくれるお
土産は、苞(つと)に入った納豆と「笑顔」でした。
※
何にします? よいものがないでしょう。もう一色、加えても
よいですか。これはサービス、これもサービス!
予算は三千円です、包装もリボンも要りません、カスミソウと
この色を、と頼んだところ、保冷室からお花二色とカスミソウ
をガバッと抜き出し、別の保冷室から青々とした葉を数本取り
出し、机の上で花束作り。
作業を見ていれば、お花の本数は自ずとわかってしまいます。
本数に単価を掛けますと、お花二色だけで予算の倍! おまけ
に花束用の包装紙まで。
「お花を届けるまでのお時間は? それならこのままでよいで
しょう」と言いながら渡された花束を見て「この方がずっとい
いや。予算、控え目だったかなあ」と思いながら「おいくらで
すか」
花屋さんは一瞬怪訝な顔をしてから「ハイ、三千百五十円!」
気に入った花屋さんでの買い物風景です。ご主人も顔を覚えて
くれたのでしょう、昨秋の結婚記念日ではお花を買い損ねまし
たので、何日か早いですが、誕生日のお花、買える時に買って
おきました。
※
私の過去の記憶は、ほとんどが文字に換えられ圧縮されていま
すので、解凍しませんと、解(ほぐ)す緒(いとぐち)さえ見つか
りません。解れたとしましても、そのままでは文字が連なるだ
けで、解釈や認識はできますが、創作を交えずに画像に復元す
るのは困難です。
例外は以前の随想で触れた「廃墟に寄り添う二人」と、先ほど
触れた「ある場所の父」です。どちらも原画のまま記憶されて
いますので、光線や場所に触発されますと、色も形も損なわれ
ず、細部まで克明に再現できます。
我が家の家族についての記憶は、絶えず更新され、幾重にも上
書きされ、玩具(おもちゃ)箱と、洗濯籠と、本棚と、道具箱と、
食器棚と箪笥と納戸をひっくり返した状態ですから、鮮明であ
りながら具象化できずに、混迷の度を深めています。
私は「基本」を「家族関係の現場」に置いています。基本とは
ただ単に基本です。他のいかなる言葉も加わりません。また血
縁でも記憶が上書きされない状態は、「家族関係の現場」から
遠退いていると思っています。
父の介護も、父の死後、母が倒れた時もそうでした。父の看病
は母が、母は妻が介護したのですが、看病および介護の当事者
と、折々面倒を見るだけの関係者とは(あるいは単に見舞いだ
けの関係者とは)、精神の負担も体の疲労も較べものにならな
いと思います。しかし過去数十年、私が列席した葬儀や法事で
は、序列や地位や仕事関係が儀式を支配、介護に献身した特定
の家族が、故人に次ぐ扱いで紹介され感謝された例(ためし)を
知りません。現場経験を抜きにして、情況を公正に評価し、次
世代に生かすことができるのだろうか。
※
父親の記憶は何歳まで溯(さかのぼ)れるのでしょう。父は戦後
の台風時、出水を避け、決まって真夜中に自転車で発ち、松戸
を経由して神田に出かけ、働き者で通っていた某から「ヤッち
ゃんには負けたよ」と言われたとか。
七人兄弟(一人は出産直後に死亡)の末っ子でしたが、戦後は
養子に出た父が実家に仕送り、テレビ受像機も担(かつ)いで実
家に持ち込んだなど、母の昔話からは、身を粉(こ)にして働い
ていた父の姿が伝わってきます。しかし、私の当時の父親像に、
働いている姿は影もなく、寡黙なんだから挨拶もヘタで、仲人
なんかとても無理と思っていました。
面倒見のよかった父は、仲人も当然のように引き受け、小売店
の招待旅行でも、同業組合の会合でも、紡績の○○会でも代表
して挨拶、旅先の宴会では唄も歌ったなど(私には絶対無理)、
昔の写真と母の話を総合しますと、私の父親像が、とても歪ん
でいることを知りました。ただ、父の考えや想いは、最近の二
十年は十分に意思を通わせていましたので、当たらずとも遠か
らずでしょう。
父は無欲ではなかったですが、自己顕示には凡そ無縁で、自己
の仕送りや援助のことは母以外、姉兄(伯父伯母)にも話さな
かったそうです。しかし、無口や控え目は災いも招きます。ど
こにでもいるでしょう、見栄を張る輩(やから)が。実績も作品
もないのに、相手を組み易しと見るや、すぐに仕切りたがる手
合いからは軽んじられ、晩年の父と介護していた母は、随分つ
らい思いも重ねています。
えっ、ご自分は大丈夫ですって! 俺は大丈夫かなあ? 今の
私は、むしろ引き下がる方ですが、絶対かと詰め寄られますと、
自信はないです。
皆さんの周囲に八十歳の人はいませんか。その人、丁丁発止と
立ち回り、青年や壮年と互角に競っていますか。あるいは、右
も左もわからない新入社員より、もっと劣っているように見ら
れていません? その人の働き盛りを知らなければ(知ってる
方が珍しいですよ)気立てのよい皆さんでも、幼児をあやすよ
うな声音(こわね)で接してしまう?
※
偶々ある場所で見かけた言葉 Pictures of Ancient Japan を、
今朝ほど(25日)英語ばかりのサイト http://www.msn.com/
の Search the Web で検索したところ、やはり英語ばかりで、
八万六千八百九十一件検出、その一番から十五番が表示された
画面の六番目に、なんと、文字化けしない日本語で
散歩者の夢想メーリングリスト
商人の自伝(〜S15)、商家の写真集(〜S30代)、スペイン旅行記、
遼寧省の僻村紹介など美と生活を主題にした表現の試み
http://www02.so-net.ne.jp/~reverie
とあるではないですか。え〜、うそ! このサイト、英字なん
てゼロも同然なのに・・・???
どのような仕組みなんでしょう。惜しむらくは、私のパソコン
に世界各国語の翻訳ソフトが欠けていること。ブラウザの裏か
奥かに、翻訳ソフトのアイコン一覧が隠されていますと、アラ
ビアの商家の祖父母の写真も、ロシアのご隠居の曾孫(ひまご)
の写真も楽しめますね。
※
父に肩車され、お祭りに出かけた記憶があります。通学途中の、
朽ちた社へは一度限り。普段から遊んでいたのは、M君宅の通
りを南下、駅へ向かう途中の神社です。
本殿の廊下から、地面に飛び降りるのが遊びでした。境内には
小さな池も。池には亀も。ですが神社の池に夢中になるほど、
貧しくはなかったです、当時の自然は。神社で遊んだ夜は、判
で押したように「瓜子姫とあまんじゃく」の夢を見ました。
お祭りは、昼は兄と一緒に、夜は一家四人で。
二年か三年の頃、夜店でイカに中(あた)り、衰弱がひどく、翌
朝、タクシーで本郷のお医者さまに駆け込んだことがあります。
お医者さまの診察室では、管(くだ)から液体を注入されました
が、当時の私の辞書には点滴という言葉がなく、つい最近まで
輸血されたと思っていました。
兄弟を診て、お医者さまは首を傾(かし)げたそうです。峠を越
したのを見届け、笑いながら「使った薬は大人の量だよ」
病んだ子連れは格好の獲物です。帰りの都電で財布を掏(す)ら
れ、大声を上げ、奪(と)り返した母の姿も記憶しています。車
内を後へ逃げようとする男に縋(すが)りつき、上着の中に隠し
持った財布をもぎ取ったのです。男は次の停留所で、後部の乗
降口から逃げて行きました。
水中花に魅せられたのも祭りの夜店です。
※
先ほどのお医者さまの口調、記憶とは別人でした。
葉巻で黄ばんだ白いおひげ、威厳に溢れていましたよ。葉巻は
不養生ではなく、ご自分の肺のご病気の、患者への影響に配慮
したためと聞かされています。描(えが)けたら描きたいです、
指も、お顔も、診察室も、薬棚も、間違って入ってしまった暗
い書斎も、外国語の蔵書も、待合室も、建物も。
薬学の博士号もお持ちでした。レントゲンなど検査の折は、ご
自分の研究室のある大学を利用。戦前は庶民が診ていただける
お医者さまではなく、戦後も(いつ頃?)京都の資産家の往診
謝礼が二十万円! 待合室の噂が医療費算出の根拠でしたので、
あながち誇大とは言えません。
戦争が人生観を変え、一般も診てもらえるようになったそうで
す。占領時は駐留軍の将校に部屋を貸した、その関係からでし
ょう、禁制の医薬を入手、露見して米軍憲兵に訊問され、幸い
重労働は免れたそうです。
風邪や腹痛は近所の先生でした。専ら父と兄がお世話になって
います。本郷のお医者さまの、ご指示とお薬を地元の先生に伝
え、うまく連携が保たれていました。
父は我々兄弟に栄養注射を打ってくれました。結核性疾患の兄
も、発育不良の私も栄養注射が命綱。やがてペニシリンもマイ
シリンも父が注射。兄より先に結核を患い、数年置きに突発性
の病気を患った父の注射は母が打ちました。アンプル入り数種
類の栄養剤(とても綺麗)、太い注射器(見たくなかった)、
熱湯消毒(沸騰が執行の合図)、部位は太股、期間は限られて
いましたが、衰弱のひどい時は毎日注射されましたので、股が
しこって腫れ上がり、脚を引きずって歩いたことも。兄の病気
は六年生の時、お医者さまから処方されたヒドラジッドの錠剤
で完治。
父は往診に来ていただいたお医者さまから、「これが最後です、
どうぞ、打ってあげて下さい」と言われ、胸部の皮膚を摘まみ
上げカンフル注射、それが祖父の臨終です。
地元の先生の記憶がありません。学校の健康診断を除きますと、
私が地元の先生に診ていただいたのは疫痢の一回程度、私が病
気になった時は、父の注射(栄養剤と抗生物質)が治療でした。
父の人柄を気に入った本郷のお医者さまが、よく教えてくれた
のですが、父とお医者さまの接点も、私には記憶のかけらもあ
りません。
本郷のお医者さまの後添いは、神田の店の斜向かい、古着商の
娘さん(ご結婚前は芸者さん)でしたので、そのご紹介で終戦
前後から我が家も受診。お医者さまのお嬢さまは成人後、何か
の理由で亡くなられ、我が家が駆け込んだ頃の看護婦役は、母
も見知っていた奥さまでしたが、お医者さまは聴診も注射も点
滴も、大概はお一人で何もかも。
お医者さまが亡くなられた数日後、K薬局の薬剤師さんが神田
の店を訪れ、我が家のために調剤したことのある自筆の処方箋
を十四、五通、置いて行ってくれました。
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