折々の文章


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クリスマスの季節 −5−
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K薬局の薬剤師さんは、お医者さまの代わりもご紹介してくれ
ました。やはり大学に研究室を持ち、大手一流会社の嘱託医を
なさっていた方で、神田の診察室にお出かけの際は、西欧の黒
塗りの高級車が送り迎え。

父の結石が治まってからも四半世紀は、私が症状を引き継ぎま
した。最も激しかった痛みは中学時代の最初の一撃です。最近
は書く熱意も冷めましたが、三日三晩から一週間ほど、神田二
階の居間と台所を際限なくのたうちまわり転げまわった、痛み
止めの注射が嘔吐を誘い、嘔吐の衝動が激痛に輪をかける、痛
みが去った瞬間こそ、平安という言葉がぴったりでした。奔放
に駆けまわった環境から一変、神田に越して、運動から切り離
されたのが原因と思っています。

代わりのお医者さまは私の背中を強く押してから「毎朝お小水
を調べ、血液の酸性度に気を付けることです」とおっしゃるほ
かは暖簾に腕押し、稀に訪れるご重役然とした来客以外、患者
がなくお暇だったのでしょう、診察室では嬌声に応えるご様子
でしたが、それが綺麗所とのお付き合いと知ったのも昨日今日。

私の鎮痛治療は、両親が懇意にしていたご近所の開業医にお願
いし、代わりのお医者さまには私の方から遠慮。程なく亡くな
られ、数日後、本当の奥さまから届いた紙片数枚には、お医者
さまが過去に診たことのある有力者何人かの不行跡が記されて
いました。以降、症状に不安のある我が家の治療は、兄の出産
時にお世話になった病院へ。


 ※


私も生まれる時は兄と同じ病院を予約したのですが(予約した
のは別人)戦火が激しくなり父の実家に疎開。料理・裁縫には
教育を施されていた母も、家事・子育ては右も左もわからなか
った、その一切を躾けてくれたのが、嫁仲間から疎まれていた
姑。姉兄の多かった父の面倒は長姉が母親代わり。

誕生後、親子三人で富士川沿いの疎開先へ。父の肺は結核性で
したので、徴兵検査を通らなかったのですが、日中戦争が始ま
ると大陸の戦争に従軍、上等兵で除隊、結婚、軍需会社に勤務。
誰からも可愛がられた兄はご近所でオイモの給食。母と赤ん坊
は栄養失調。地元のお医者さまから「この子は育たない」

空襲で軍需会社の銀座の事務所が焼け、疎開先で親子四人の共
同生活。頼りは富士川の、土手と河原と水の流れ。禁止の立て
札より命が優先。カボチャとソバとウナギ漁。収穫したソバは
一升瓶一本にも満たず。当事の苦い想いから、戦後はカボチャ
を口にしなかった父・・・と書いた記憶がありますがそれは多
分誤り。ウナギもソバも亡くなるまで好物でしたし、晩年の衰
弱時もお粥は口にしませんでしたの、お粥同様、カボチャの歯
ごたえが戦前から嫌いだったのでしょう。


 ※


誕生日のワインはお休みしました。代わりに陳列棚から世界各
国のビール小瓶を各一本、片端から籠に入れ、代金は忘れずに
レジで精算、宴会に間に合った家族三人で、つまり夫婦と扶養
義務のある子で、三等分しながら賞味と講評、曰く「これはう
まい」「これはまずい」「これは病みつきになる」「これはい
ける」

妻はお隣りを偲ぶ会を、もうお一方と一緒に開くつもりだと話
していました。お隣りは検査入院の最初から、ご近所にも病気
を伏せていましたので(父の晩年も同様で、葬儀の日程が決ま
るまで、都内在住の親族にも病気を非通知)、局外者でも話せ
る範囲で今までの経過を、日頃お隣りと顔を合わせ、告別式に
も出席された皆さんに伝えて置こう、そんな趣旨です。会葬者
はご家族も驚くほど多数でした。

あれこれ尋ねないで欲しい、言葉を濁しても気分を損ねないで
欲しい、病気など重い何かを抱えているときは、そんな気持ち
になる人も少なくないと思います。


 ※


父の実家で、食卓を賑わしたニワトリは軍鶏(しゃも)の雌でし
た。五右衛門風呂は下駄で入りました。戦前は味噌も醤油も自
家製でしたので、巨大な桶も搾る道具も残っていました。

父方の祖父は顔まで記憶、祖母は動きだけ憶えています。母方
の祖父母はその反対ですが、四人とも笑顔と温もりの記憶があ
りません。抱いてくれたのですが、私がもの心ついた時は、三
人は(四人ではなく三人は)衰えてしまったのでしょう。

神田の店は空襲で焼けましたので、両親が引き上げてきた時は、
母の両親、嫁ぐ前の叔母、学校通いの叔父、我々家族の合わせ
て八人が同居、我々四人は六畳間で寝起き、農家にモノを持ち
込み食糧に換えるなど、この頃の苦労話は、何度聞かされても
混乱してしまい、文字への変換は端(はな)から断念。

交換の時代、父は結核を患い、半年ないし一年ほど寝込んでい
ます。期間が曖昧なのは、確かめるのが憚(はばか)れるからで
す。涙を見たいなんて思いませんでしょう。戦争で廃業させら
れた祖父は、一言(ひとこと)も不平を漏らさず「お富や、すま
ないねえ」

本郷のお医者さまとご縁がなかったら、そして商売を立ち上げ
た父が、薬に稼ぎを注(つ)ぎ込まなかったら、今の私も、私の
子らも存在しません。構図や色彩に違いはあっても、皆さんも
同じなのですよ。

引き上げてきた母を見て、祖母は泣いたそうです。宙(そら)を
見つめる赤ん坊に、叔母は胸を撞(つ)かれたそうです。






 ※


担当のお医者さまも、助手のお医者さまも会合でしたので、人
工呼吸を続けてくれた若いお医者さまと、看護婦さん数人と、
婦長さんと、訪問看護科の看護士さんと、婦長さんの「担当外
ですが、付き添わせてやって下さい」の口添えで呼ばれた看護
婦さんが、父の最期を看取ってくれました。

「お母さまが着くまで手を擦(こす)ってあげて下さい」と教え
てくれたのはこの看護婦さんです。ただ、ベッドの両側から父
の手を擦っても、呼吸している時と変わらなかったです。末端
まで血液が流れず、さらに冷たくなる余地はなかったのです。

若い看護婦さんの顔は濡れていました。救急車で入院してから
十日で亡くなりましたので、衰弱しきった枕辺で会話できる機
会は限られます。この看護婦さんが父を担当したのは前回の入
院時です。別の科の入院棟で、入院期間は一ヶ月。退院してか
ら二ヶ月も過ぎています。

確か看護婦さんは、病院所在地の出身で、ご本人が生まれた病
院も、親御さんが通っていた病院も、この病院だったと思いま
す。私との私的な会話はこれ限りで、あとは在宅介護を理解す
るため、顔を合わせるたびに、緊張した遣り取りが続いていま
した。

前回入院時の平日は、食事時間に事務所から地下鉄で通い、休
日は妻と一緒に車で見舞い、介護の準備に追われていましたの
で、父と意思を通わす機会は昼食時の一時間止まり。看護婦さ
んが流してくれた涙の意味を(肺ガン末期の、父の入院時の言
動を)見聞きするのは無理でした。

私は入院中の父をほとんど何も知りません。一日二十四時間の、
五パーセントほど会っただけでは、気持ちは勿論のこと、動作
も会話もわかりません。

家族をどれほど理解していたのでしょう? 特に自立してから
の親のこと。若かった親のこと。

観劇や読書に没我する方が夢中になれます。寡占媒体の番組や
報道に好奇する方が面白いです。直接「利害」に響くのに、家
族関係には手抜きが多い。


 ※


市川の我が家では、国内で二台目か三台目の大型洗濯機を入れ
たことがあります。父は病み上がりの体で商売を立ち上げ、昭
和二十五年の春には法人登記、母も総力を挙げて手伝いました
が、我々兄弟はヒトの子で猫の手にあらず、父は家事の可能な
限りの合理化に着手しました。

無口や控え目は消極的で、お喋りや見栄っばりは積極的、なん
てことないですよね。お喋りに夢中だと、動きがお留守になり
ます。前向きかお荷物かは、大見得や口数ではなく、足跡や作
品で判断しましょう。

大きかったです、音も形も。横軸で、半回転する筒状の金属容
器に、上から洗濯物を放り込んで、引き寄せ式の蓋を閉めます
と、筒が半円を描きながら行きつ戻りつ、グワッソ、グワッソ、
グワッソ、グワッソ

業務用と教えられました。家族四人だけの生活が始まった何年
後かに、玄関脇に風呂場兼洗濯場を増設、洗濯機を設置、業務
用は家庭用に続いて二台目の洗濯機。

積極的で、行動的で、進取の気質だったのです、静かな父は。
しかし衰えを増した晩年は、遭遇する相手次第で、幼児のよう
に指図され従属させられ、母や我々家族が父への矛先を逸らさ
なかったら、父は耐えられなかったと思います。俺が俺がだけ
の自己主張にも、確かに一理ありますね。


 ※


昔話で気になるのが交通手段です。昭和一桁の頃、遠足か何か
で「清水公園に出かけた、豊島園で遊んだ」などと教えられま
すと、「えっ、電車で?」と尋ねてしまいます。

浅草(母方の祖母の実家)や人形町(母の女学校時代の「下町
派」の友人宅)や大塚(女学校の最寄駅)へは路面電車を利用。
時には円タクも使われていました。しかし神田から清水公園ま
では答えが返ってきません。電車利用となりますと、私も経路
を考えてしまいます。

家族でタクシーに乗った記憶があります。一度は神田川の和泉
橋で下車、吐いてしまってから歩き出しました。日没後、再び
タクシーで帰りましたが、途中、必死に吐き気をこらえ、我が
家の私道前で降りた瞬間、オェー! それ以来、引っ越すまで、
私が神田に出るときは自転車を利用、千葉街道を経由して。

成田山へ初詣に出かけた時は悪夢でした。タクシーの揺れに行
火(あんか)の炭火が加担、出発直後から吐き始め、涙をためな
がら参詣後、再び帰り着くまで胸はムカムカ、胃の腑のお昼は
・・・思い出したくありません。昭和二十年代後半から三十年
までの出来事です。


 ※


二月ですね〜。

四半世紀前の誕生日、運転免許更新の最終日だったことに気づ
き、慌てて警察に電話したところ、「日曜日は受け付けません」

兄は小型自動車の運転免許を十六歳で取得。教習所に通わず鮫
洲に出向き一発で合格。

区内の中学に入学後は運動部一筋でしたが、中一の頃はまだ体
力が回復せず、学校から帰って来ると、入口にへたり込んでし
まう日もあったそうです。運転を習った場所? 某河川敷。

私は学生生活の要領を会得した夏休み、路上免除の隣県に通い、
教習所で練習しました。実地の訓練は、店(父の繊維問屋)と
工場を結ぶ朝夕二便のスバル・サンバー。日光街道と昭和通り
の渋滞を縫って。

取得した免許証には習った覚えのない大型自動二輪も併記。お
役所の好意に甘え、路地裏に定住する同業者のナナハンを借り
ましたが、あんなに重いのを引き摺ったら十メートルも進めま
せん。呆れ果て、天を仰ぎますと本物の飛行機。

飛べるのですから軽いのです。でもセスナは紙みたい。私の体
重では重石にならず、宇宙に飛んで行ってしまいそう。そうだ、
ヘリコだ!


 ※


玄関脇に風呂場を作る前は、台所と手洗いの間が風呂場でした。
土間には簀(す)の子板。風呂桶は楕円形の木製。焚き口は建物
と垣根の狭間(はざま)にあり、汲み取りの際は肥桶(こえたご)
の通り道になっていました。燃料は、さあ、古紙と薪を使った
のは確かですが、石炭はどうでしたか。

土間のお風呂と増設したお風呂にそれぞれ一回、父と一緒に入
浴した場面を憶えています。

玄関脇のお風呂の熱源はガス・バーナーでした。桶は四角い木
製。西日(にしび)があたり、カラッとしていました。土間の風
呂場は北向きで風の出入り自由。引き違い戸の曇りガラスには
赤腹(イモリ)も。

果樹園の水路を埋め立てて売りに出された家ですので、私の就
学前は、東西に細長い庭の、塀に沿って端から端まで、流れを
断たれた溝川(どぶがわ)が残っており、泥水(どろみず)を掻き
回したりザリガニを採ったり・・・

溝川を埋めた後も押し入れが黴(か)びてしまい、敷いた蒲団は
湿気(しっけ)てしまい、病気を培養するような環境でしたので、
風呂場に住んでいた蛭(ひる)の記憶も誤りではないのかも。


 ※


昭和三十年の末か昭和三十一年の初めに父は車を買いました。
運転手は若いOさん。

我が家の門は実に大袈裟でした。瓦葺(かわらぶき)の屋根があ
り、閂(かんぬき)を下ろして施錠する観音開きの正門が、私道
正面に聳(そび)え立っていたのです。普段は正門の左側の木戸
を使用、その位置に車庫を作ってから引っ越すまでは、右側の
木戸を使用しました。

車庫は太陽や風雨を遮(さえぎ)る倉庫仕立てで、Oさんはトヨ
ペットを部品一つまで磨いていました。神田に移ってからもク
ラウンはOさんが運転。両親は気づいていませんでしたが、こ
のOさんが中学生の兄に運転を教えたのです・・・などと、後
から後から別の記憶が蘇ってきますので、なかなか父に集中で
きません。

テレビの画面も憶えています。しかし・・・

「舞台写真」で昭和二十七年と書いたのは怪しいです。何かの
行事で(すでに聞かされている行事の内容を、念のため、確か
めさえすればご紹介できますが、私には関係のない行事ですの
で記述は略します)護国寺で開かれた茶会の記念写真の、中央
はF先生、F先生の向かって左は祖母。

護国寺での大きな茶会の、掲載した写真の茶席では、F先生と、
神田在住で母の女学校の五年先輩と、母など五人が御点前(お
てまえ)。四人とも先生のお弟子。

F先生は浅草の足袋問屋の後妻に入り、長らく、神田の祖父の
店から数分の場所にお住まいでした。祖父が自分の父親を助け
ていた明治時代は、祖父はF先生のご主人から足袋づくりの仕
事を請け負っていました。

ご主人と祖父の関係は親しいものではなかったのですが、F先
生との交際は、同い歳で、やはり浅草出身の祖母は勿論のこと、
ある事情から、私の母も実の母のように慕(した)っていました。
また市川にF先生がいらっしゃる度に、ご近所と一緒に、父も
兄も私もお茶を習い、武蔵野市へ移ってほどなく亡くなられる
まで、母との親交が続いていました。

F先生は浅草寺裏手の検番に出向き、芸者さんにお茶とお花を
教えていましたので、護国寺での写真にも、垢抜けて、素人と
の差が歴然としている皆さんが写っています。ある世代の方な
ら、どなたでもご存知であろうお一人もF先生のお弟子。しか
し護国寺の写真は、テレビの番組の記憶とは違います。

写真を見た瞬間、私も気づきましたが、今までこのサイトでは
触れる必要がなかったのです。

テレビの番組では、誰でも知っている人物が「写っている」場
合、想い出の記述から削るのは難しいと思います。実生活同様、
長い長い時間を費やして見続けてきたテレビの画像を、家族各
各に蓄積されている実体験の想い出に「準じて」このサイトに
組み込むとしますと、どのように記述すればよいのでしょう。
テレビの番組の記憶は「違う」のです。


 ※


今回も少し触れておかないとわかりづらいですね。流通革命と
いう言葉をご存知でしょう。今日の、構造改革やリストラや空
洞化の響きに通じるものがありました。イトヘンの流通革命も
半端ではありません。両親の状況も同じです。私も傍観者では
いられず、中学時代から大学を卒業するまで店を手伝い、両親
の調停役・・・つまり鎹(かすがい)の役を担っていました。

何度も同じことを書くのは面倒ですので簡単に。

結石治療の水分補給代わりに早くからお酒に親しみ、また青春
時代真っ盛りのこと、鬱々とした気分が蓄積されてしまったの
でしょう、社会に出た時、写真と、卒業アルバムと、成績表と
お化け文の「資料一切」を処分しましたので、両親の手元に残
っていた僅かな写真を除きますと、結婚以前の私関連の資料は
一つもありません。ですから当時についての言及は記憶が頼り、
小学生の頃も、中学も高校も大学生の頃も、写真はな〜んにも
ありません。

因みに、私が新入社員研修を終え、配属された部署で上司と面
談した際、最初に発せられた質問が「○君の住所番地、間違っ
てないの? 本当にアソコに住んでるの?」

ゼミ旅行でのクラウン・エイトの話を、ドコからか仕入れたの
でしょう、私が敷地一万坪の豪邸で、秘書や執事に傅(かしず)
かれていると思い込み、下見した住所の建物に肝を潰した、俺
達の住まいが虚仮(こけ)にされた、グスン!




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