折々の文章


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クリスマスの季節 −6−
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羊毛のオーバー・コートに中折れ帽が父の冬の出勤風景。夏も
帽子を被っていました。その帽子を買うため

街の洋品店の店先で、帽子を選ぶ母を待っていた記憶がありま
す。小学校に通い始めた通学帰りに、迎えに来た母に連れられ
お店に寄った、そんな風景だったのでしょう。私は我慢も辛抱
も強かったですから、待つのは嫌いでも、不平も不満も漏らさ
ず硬張(こわば)った表情でただただ待機・・・は内側からの描
写で、外からは、日焼けした顰(しか)めっ面が、オシッコを我
慢している風に見えた筈です。

当時の暮らしは丁寧でしたね。鮭の切り身を、新聞紙や経木に
包んで手渡す感触、今でも好きです。

市川時代の父はドラヤキ(銅鑼焼き)が好物でした。その割に
ドラヤキのお土産が少なかった。お土産以外では、そもそもお
菓子を食べる機会がなかった!

嘘! いえいえ、紙芝居の水飴も煎餅も(水飴に薄っぺらな煎
餅を貼ると値段が高くなった)駄菓子屋の飴も、ほとんど食べ
ませんでした。母の影響と思っていましたが、震災後の区画整
理で街区ごと引っ越すまでは、母は駄菓子作りの街(神田の店
の裏手一帯)で育ったのですから、駄菓子への偏見はなかった
です。

煎餅も水飴も、物怖じする性格に、辛抱強さと引っ込み思案が
重なりますと、お小遣いを手にしても自分から「下さい」とは
言えなくなります。なのに一人で買い物に行かされたり、一人
で品物を届ける時は、そのつど「ハイ」と返事、言い付けに従
ったと言われています。遊ぶ時は大人は抜きでしたが、二親が
働いていますと、子も大人を助けるのがアタリマエなんですね。

両親は弛(ゆる)みなく暮らしていました。言い負かすのに汲々
としたり、大向(おおむ)こうの受けを狙って生きられるほど、
世の中は甘くはなかったです。

普通に働き、普通に暮らしていたのですよ。今はそう思ってい
ます。言葉にも行為にも、揚げ足取りや鸚鵡返しではなく、真
意を汲もうと努めていました。相手の真剣さには、誠意を尽く
して対していました。それが普通なんですよ。自然、私が大人
に歯向かうにも、親やセンセに反抗するにも、子の心なりに、
不条理と感じる何かが必要でした。大人とは、ヒトを包む金鍍
金(きんめっき)の皮膜、なんてことないですよね。

今も食事前に、少しでも何かを食べますと食欲がなくなります。
当時は尚更、オヤツの果物を除きますと(栄養を補うため、結
核性の兄と少食の私に、母はオヤツの果物を義務づけていまし
た)間食するのは荷が重く、夕食後のドラヤキも一かけらで十
分でした。なお、余るだけの数はなかったので(お金を節約し
たかどうかはわかりませんが、余るのを承知で買って帰るほど、
父は甘くはなかったですし、過剰な機会を許すほど、世の中は
野放図ではありませんでしたので)家族の誰かが、隅の欠けた
ドラヤキを食べていました。

嬉しかったですね〜、ドラヤキのお土産。
仕合わせだったな〜、ドラヤキの茶の間。


 ※

  
未だ部屋住みの子が、今もお菓子屋さんでバイトを続けていま
す。近年、授業が忙しくなってしまい、平日にお店に立てるの
は週に一回が限度、疾うにお払い箱の筈ですが、何処も人減ら
しの世の中ですから、人手の遣り繰りに、レジ締めや戸締りの
できるバイトは重宝なんだそうです。

和洋幅広い品揃えの、お菓子の「配給」は途切れました。代わ
りにごくごく稀に、閉店後、自腹を切っての大福やらショート
ケーキ。ところが「あれ、数が足りないよ」に答えて曰く「先
に食べちゃえばわからないよ」

戦前も五月の一、二ヶ月に限り、新宿のTに苺のショートケー
キが並んだそうです。新宿には長唄のお師匠さんの住まいがあ
り、Nの二階では料理も習っていましたので、苺の季節、この
ショートケーキが母の稽古帰りのお目当でした。

市川時代の、それも数年だけ、母は長崎カステラを作っていま
す。もの凄〜〜〜〜〜〜〜くよい香り! 後日、カステラは商
売の進物用と判明。我々兄弟と、北側隣家のKちゃんと、ご近
所の奥さま何人かは、そのおこぼれに与っていたのです。神田
に越してからはカスタード・プディングが手作りの主役(夜業
が続いても、母は食事と糠味噌を、お手伝い任せにしませんで
した)。時に苺のブラマンジェ。いずれも戦前にNで作り方を
会得。その一つ「ハンバーグ」を試食した祖父の店の番頭さん、
ご自分の奥さんに「お前も作り方を○チャンに習いなさい」

学生時代の英語の授業で、教本にしていた小説に「プディング」
とあり、米国籍の女性講師がその意味を尋ねましたが、カスタ
ード・プディングを知っていたのは何人もいなかったです。

私は食べ物の美味い不味いを口にできません。作る方は張り合
いないですね。香りや味には敏感ですが、食欲の弱さに影響さ
れているのでしょう、早朝に走った後の食事以外は、大概の食
べ物は黙々モグモグ。ただオムレツだけは、大層なホテルの朝
食でも、心の中で「コレ、ホントにオムレツ」なんて思うこと
があります。

テレビが茶の間に割り込む前、父に連れられ銀座のFに入った
ことがあります。綺羅綺羅煌(きら)びやかで、まるで童話の世
界。注文なんてとても無理。家族は誰もが同じ食べ物。それが
苺のショートケーキ、私には初対面の生クリーム菓子でした。


 ※


前段の戦前の、新宿のTのショートケーキは、長唄のお師匠さ
んの住まいが番衆町に移ってからの話です。晴れた五月は、稽
古を終え、徒歩でTに立ち寄りケーキを購入、市電で神田に戻
りますと、祖父までが待ち構えていたそうです。但し、未だ部
屋住みの孫とは違い、持ち帰ったケーキの数は、正確に家族の
人数分ありました。

母の戦前の料理教室は二ヶ所、女学校五年の授業と、新宿のN
でした。クラス六十人の、お料理はM先生(既婚女性)のご担
当。M先生は和も洋も中華も得意。新宿のNの料理顧問。

お料理って、女の子は誰もが真面目に学ぶ、という訳ではない
のですね。経営もそうなのかなあ。それが政や官になりますと、
ちょっと怖いですね。実験も習字も国語も社会も、勉強嫌いの
私の言うことですから、余りアテに・・・イエ、この歳まで学
ばなかった実感ですから、それほど外れてはいませんが、学ば
ないことは自慢にはならないのですよ。恥ずかしくって、情け
なくって、隠れてしまいたいほどの落ち度なのです。お茶も、
お花も、実業も政治も勤勉が美徳、小手先細工やお茶を濁す程
度の俄か勉強で、真摯や努力と伍するのは時期尚早でしょう。

衆に阿(おもね)ることが、衆の益にはなりますまい。世の中が
複雑になればなるほど、衆愚の一人(つまり私)にも、筋道を
噛み砕いて教えて欲しいです。弁舌本位は叡智に席を譲り、机
上本位は現場の実力者と入れ替わって欲しいです。

お料理の授業に積極的な生徒はクラスでも十人ほどでしたので、
鉄鍋で三升の寿司飯(めし)を炊いた時は、先生は味付けを母に
やらせてくれました。卒業後、同級の生徒と、お料理を教えて
下さいとお願いしたのも母です。それから一年、週に一回、ラ
ード作りも、フランス料理も、マカロニも、ハンバーグもカレ
ーもお菓子もと、まあ、当時ですから、解体されたままの食材
を捌(さば)くことから始まったのでしょう、無論、お浚(さら)
いも怠りなく。

新宿の教室は料理とお菓子のお店でしたから、加工したチョコ
レートの落としもタダで頂けた訳で、お土産が目当てじゃなか
ったのかなあ、Nでの手習いは。


 ※


地名や名前の符丁は思いつきですから、深読みしないで下さい。
今回の連載では、既にハ行のお名前が三人登場していますが、
皆さんHでは具合が悪い。そこで他のお二人はFさんとかZさ
んと名付けたとします。ところが二度目に書くときはエッチに
こだわってしまいI(アイ)さんに変更、Fさんは記憶回路の乱
れから、カ行のお名前と勘違いしてKさんと表示、Zさんでは
パター臭いので、水臭いWさんに差し換えるなどイイ加減もよ
いとこです。


 ※


苺、好きですね〜。

昨日までインターネットなんてなかったですから、見ず知らず
同士で意思を通わす機会は限られていたと思います。ところが
サイトを開いた途端

最後に床屋に行ったのは、確か二十年か三十年前です。着た切
り雀の洗い髪でトボトボ歩くのですから、風采が上がらないこ
と夥(おだただ)しい。謂(い)わば雑踏に漂うプラタナスの落ち
葉。それが昨今、風に圧(へ)し折られたイチョウの枯れ枝にな
っています。私のような人間が戦前に暮らしていたら、お玉ヶ
池のザリガニの抜け殻で、知己を得る機会は絶無、ではなかっ
たようです、井戸端や路地裏の社会でも。

関東大震災の際、曾祖母(祖父の母親)の実家近くの、大工さ
んにお世話になったのがご縁で、腕もよかったのですが、昭和
二、三十年代の店や工場の建築は、この棟梁一家にお願いしま
した。折角のご縁も、お仕事を継がれた棟梁が、自宅前の通り
で車に撥(は)ねられ亡くなってからは、ご家族の姿も見えなく
なり、今はお住まい跡に鉄工所の看板が立っています。

神田には、父もお願いした電気工事店もあります。ここのご主
人の親戚で、戦後の一時期、両親がお付き合いしたお一人が、
某所天神様に近いお菓子の老舗のお嬢さまで、わざわざ手ずか
ら頂いた葛餅(くずもち)に私は絶句、神田から自転車で買いに
行こうと、繰り返し思っていました。

もうお一人は市川のS先生です。母と同い歳か一つ上。療養の
ため、低学年時代の小学校を、一年の半分は休んでしまった兄
の勉強を補うため、電気工事屋さんに家庭教師の心当たりをお
願いした、そのご紹介で、教育の要職にあったS先生とのお付
き合いが始まりました。

神田に移ってからです、日曜毎に私が先生を訪れるようになっ
たのは。先生のご専門は日本史で、とても役に・・・立ったの
ではなく、ほとんど何も理解できなかったです。講話を六十分
も正坐して拝聴するのですから、眠たくなったり痺れたりもう
散々。

お茶とお菓子が寛ぎの合図、痺れた足を解(ほぐ)して、ご夫婦
の四方山(よもやま)話をきっかり二十分、聞くのが何より楽し
みでした。奥さまは父の死の一年後に逝去。

ご商売でもお勤めでも、生き残りを賭して働いている仕事場で、
我が子を育てたいと思います? 茶の間は平日も日曜ですが、
仕事場は日曜も平日です。兄には運動部が癒やしでしたが、両
親の気持ちに過敏になっていた私には、日曜午前の、先生のお
宅が癒やしでした。

五月のある日、帰り際に頂いたのが、底に葉を敷いて、苺を一
杯に詰めた大きな木箱。蓋は新聞紙でしたから、脇に抱えて運
ぶ訳にはいきません。二十分ほど歩いて、国電に乗り神田まで、
どうやって持ち帰ったのでしょう。


 ※


今の我が家でも苺を植えたことがあります。放っておいても殖
えましたので、「シメタ! ひと稼ぎできる」と思ったのです
が、熟した実を摘まんだところ、地に接した先端から内側が綺
麗に食べられてしまい、周囲に靴跡、いえ、銀色に光る侵入者
の這い跡があるではないですか。薄緑色の実には、手(?)も触
れないのですから憎らしい。

S先生の西隣り、住居と住居の間に(当時はいずれも平屋)四
十坪ほどの空き地があり、久しく菜っ葉が植わっていましたが、
ある年、畑全面に、畝(うね)も見えないほど葉が覆い、その畑
から収穫したばかりの苺を頂いたのです。不揃いでも香りと味
は天下一品、しかも心行くまで食べられました。以来、同じ味
を四十五年も探しましたが、今どき売っている苺は真っ赤なの
に、なんでああも白々しいのでしょう。

スペインを旅した際、バスが立ち寄った休憩所に巨大な苺が並
び一行は早速試食、バスに戻ったときは、母も娘もご相伴に与
っていました。

私が惹かれたのは畑です。舗装しただけの、矢鱈に広い駐車場
を通り抜け、溝を越え、畑の隅で色づいた苺を発見、それまで
の出来事の、慰めになってくれたのが食事に添えられたプディ
ングとルーム・サービスの巨大な苺。心ホカホカ記念撮影。



 「旅」より



 ※


祖父は大森に贅を尽くした住居を建て、蔵書と絵画とお道具を
保管、将来の隠居所に定めていました。両親の新婚時の仮住ま
いはこの大森の住居です。自伝抄録に登場する祖父の母親も晩
年は大森で暮らし、祖父の廃業と前後して亡くなりました。大
森の家は祖父が疎開する際、両親の真間の住まい同様、不用心
を理由に二束三文で売却させられ、現在は痕跡もありません。

祖父の母親は臨終の一週間前まで家事をこなし、眠るように息
を引き取りました。騒がしかったのは枕辺に押しかけた祖父の
仕事の関係者、つまり、番頭、下職(したしょく)、同業者、取
引先、町会役員、町内の奥さまやご主人です。

亡くなる前から祖父の関係者が蝟集(いしゅう)、飲食が始まり、
祖父が集めた百組二百本の徳利すべてが使われ、内三、四本が
割れました。

母の昔噺には善し悪しの感想だけでなく、表情も読み取れない
場面があります。娘時代の料理教室の成果は、祖母の臨終の枕
辺で遺憾なく発揮させられたのですが、こうだった、ああだっ
た以外は何も伝わって来ません。ただ、父親の悲しみが尋常で
なかったことは、言葉の端々(はしばし)に窺われます。


 ※


小学生時代、買い物や編み物の「モデル」や仕事のお使いだけ
でなく、兄の学校関係のお付き合いまで私が駆り出された理由
が今頃になってはっきりしました。雄鷄(おんどり)社の編み物
雑誌に載せる写真は、単身の場合は私に絞られ、兄弟の場面も
兄の代わりをご近所にお願いしたその訳です。

小五までの私は教室内では孤独でした。勉強ができない、先生
に指されると呂律がまわらない、だけでなく、コチトラは神田
の生まれよ(富士山麓の生まれ)などと向こうっ気が強かった
のでしょう、勉強以外のサボリが厭で、オマケに真冬でも外で
跳び回っていましたので、受験本位やヌクヌクした生徒には敬
遠された?

兄は人気があり、運動能力に優れ、女の子にやたらと持て(!)、
なんて書きますと結婚式の祝辞みたいですね。大学時代の兄は
某スポーツ部の副将を務め、団体優勝した大会ではスポーツ新
聞に写真入りで紹介され、中高時代の別種のスポーツでは県大
会の少年の部で優勝・・・

不惑の頃の随想に、子ども時代を回想して「お兄ちゃんについ
て行く」と書きましたが、小五までは、兄に随って釣りに行く
のが無上の歓びでした。中学生以降の兄は、運動部員一般に倣
(なら)い、練習や合宿に忙殺され、顔を合わせれば宿題を頼ま
れるのがオチ。それでも社会に出るまで、小学生時代の「つい
て行くのが嬉しくてたまらない」関係であり続けました。しか
し小学生の兄は、結核と闘っていたのですね。その情景を、私
だけでなく母まで思い出さなかったのは何故でしょう。


 ※


兄が休み始めたのは幼稚園からです。欠席が多く、小学校への
進級は難しいとされましたが、たまたま掛かりつけの内科医が
学園の関係者で、通学可能の診断が伝えられたのでしょう、無
事に進級、しかし風邪の診立ては誤りで、現実には通学が困難
な状態でした。

先生は我が家から徒歩四、五分の入り組んだ場所で開業、市川
を引き払うまで、父も母も兄も頻繁に通院、また往診もお願い
し、父の呼吸が止まったときも、母が倒れたときも、先生の処
置で救われましたが、私にはお顔だけでなく医院の所在さえ記
憶にありません。やはり市川時代の私の家庭医は父一人です。

兄を結核と診断したのは本郷のお医者さまです。開放性ではな
く感染者はありませんでしたが、それから小六まで、自宅療養
→体力回復→通学復帰→疲労困憊(こんぱい)→自宅療養を繰り
返していました。

近所の池で小鮒を釣った記憶があります。池にずり落ちたとき
は引き上げてくれました(逆だったかなあ)。用水では水浴び
も。自転車で江戸川の河口に出た時も一緒でした。まさか、そ
のどれもが就学前ではありますまい。少なくとも出席日数の何
割かは通学できたのですから、両親の心労もそれほどではなか
った?

幼い心には、商売の葛藤が夜叉にも幽鬼にも映ります。同様に
活発な小学生が、来る日も来る日も蒲団に縛りつけられてしま
いますと、当人には拷問にも匹敵しますから、荒れない方が不
思議です。往診に見えた本郷のお医者さまが「辛抱してあげて
下さい」と両親に告げたその前夜、涙を流していた母に居ても
立ってもいられなかった。その情景が唯一、兄の病気の思い出。

仕事は、机で作文していれば済んでしまい、失業者増は、改革
の進行の証で、倒産は、就労者だけの苦しみなんですか。家族
って、そんなに気楽に生きているのかなあ。




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