折々の文章


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クリスマスの季節 −8−
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最近、ラン展でも梅林でも青空ばかり撮っています。もう春! 
見惚れます、青い夜明けに。


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水郷と呼ばれる稲作地帯はいくつもあります。その某所での鮒
釣りに、父に連れて行かれたことがあります。

父は昭和二、三十年代、軍需工場の得意先の系列だったのでし
ょう、日本橋に所在する某銀行本店の貸し金庫を利用、証券を
出し入れする際、中学生の私を連れて行きました。暗黒街の洋
画で見たような金庫室に、父一人では心細かったのです(←嘘)。

水郷地帯の鮒釣りは取引先工場の招きでしたが、私だけでなく
父も釣れずに、舟で渡してくれた案内人だけが大きなマブナを
釣り上げていました。お昼は特大の握り飯、帰りは取引先工場
のお宅で鯉濃(こいこく)をご馳走になりました。流石です、水
郷地元の川魚料理は。当時は温かかったですね。その後の流通
革命の進展を、さらにその後の空洞化を、誰が予想できたでし
ょう。後者ではこの取引先工場も廃業させられました。

父親って孤独ですね。伝わって来るのは温もりだけです。抱え
ている荷が重ければ重いほど、内に秘めてしまいます。


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疎開先から引き上げた時、一歳半の私は這い這いも出来ません
でしたが、満三歳の時は、お米の配給の行列待ちが長引くと、
先に帰りなさいと命じられ、入り組んだ三百メートルの夕暮れ
を一人で帰ったそうです。

お風呂の薪は、やはり石炭に替わっていました。薪を切ったの
は父と母ですが、私も鉈(なた)で断ち割りました。

一日は煉炭を熾すことから始まります。マッチと紙で点火、空
気を調節して一日持たせる。点火直後は火力が変わりますので、
湯沸しや飯炊きの順序が決まっていました。煉炭で煮炊きする
手順も富士の姑の知恵。冬は炭を炬燵(こたつ)へ。灰を被せて
二、三個の炭を一日持たせる。炬燵はそれだけで温かでした。
煉炭コンロの置き場は台所入り口の狭い土間。

台所の床板二枚を持ち上げますと、一升瓶やビール瓶に入った
醤油や食用油と、醤油の空き樽に漬けた糠味噌と、野菜と、穀
類と、缶詰などあらゆる食糧の収納庫。交番近くに八百屋さん
ができるまでは、野菜は宮久保から大八車で引き売り。真間の
裏手には駐留軍払い下げ(?)物資を売っているお店も。当時の
我が家には晩酌の習慣はありませんでした。

台所の廊下側には冷蔵庫。氷室の上段と、食べ物を納める中段
は観音開き。下段は水抜き。この冷蔵庫が曲者で、お昼の缶詰
の食べ残しを容れておき、夜に食べたところ、一家全員食中毒。

冷蔵庫の氷の補充は病み上がりの父の役割。私鉄の駅近くの氷
屋さんに自転車で出かけ、藁(わら)で包んだ氷を縄で括って帰
ってきました。

それにラジオ一台と新聞一紙だけでしたが、家族の団欒が滞る
ことはなかったです。


 ※


お正月の父は和服でした。

お年玉の記憶がありません。今までは受領を前提に書いてきま
したが、これがどうも怪しい。叔父さんや叔母さんからお年玉
をもらっている漫画を見て、ふ〜ん、羨ましい風習だな〜、と
思ったことがあります。市川時代も神田時代も、お年玉をもら
えるような親戚とは、交流そのものがなかったです。

では親からは? その親が、お年玉を与えた記憶がないと言う
のですから、やはり我々のお正月は、必要に応じてその都度だ
ったのでしょう。

父の和服は祖父(母の父親)の形見・・・を知ったのも最近で
す。道理で立派な訳。盛装すると恰好よかった。私も誇らしか
った、のではなく、一緒に並ぶと恥ずかしくて、晩餐に紛れ込
んだ野良猫の心境。ティ〜ピ〜オ〜を弁えた装束や作法を当然
視していますが、私の美感は父とも母とも違っています。


 ※


舞台本位制なんです、今の文明は。手本に、軌範に、目標にな
っています、壇上の一挙手一投足が。出演者と一体化し、演技
に耽溺するのが充実なんです。温かさや懐かしさを感受するに
も、テレビや映画が要るのでは?

現実を踏まえ、自ら表現する態度は、土壌ごと色褪せました。
新たな航路は、悉く寡占媒体の糧にされます。壇上や銀幕は本
当に美しい。身の丈の住まいとは比較になりません。その上さ
らに、巨費と叡智が加わりますから、足元との溝は拡大一途。
現場は混沌の渦でも、館内では陶酔と熱狂が約束されます。挙
(こぞ)って舞台にのめり込むのも、無理ないですね。


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トリもブタも、切る肉がなかったそうです。お魚も切り身か丸
干し、ならば菜切り包丁で足りる訳です。この包丁、私も使い
ました。研ぎもしました。包丁は魅力ある道具です、子どもに
とっても。

ガスが入ってからは網やフライパンも使いました。スルメで驚
いたことが二つ。一つはアタリメとかの名で、マヨネーズで食
べる飲み屋のスルメ。思い出とバーの鉢合わせに一寸戸惑い。
今一つは高嶺の花の今のスルメ。市川の台所では、芳ばしい香
りで反り返るスルメを、菜箸で押さえながら焼きました。

煮干しを炒めるのはフライパン。但し煮干しは好きでも、お腹
との相性に難があり、煮干し炒めは一度か二度まで。

お餅を焼くなら火鉢。父は餅を煮込む故郷の雑煮が好きでした。

火鉢には愛着があります。大きな火鉢に、炭と灰と火箸があれ
ば退屈知らず。狭いので、昔の火鉢は無理ですが、一昨年、火
鉢の代わりに鉄の炉を置き、灰と火箸と五徳と鉄瓶を飾りまし
た。もっと老いたら炭に火を点け、日がな一日、灰と戯れます。


 ※


ヘンなこと、思い出しました。金槌を握ると、フラフラ揺れて
しまう歳から、鉋(かんな)もいじっていたのですよ。削れはし
ましたがぎこちない。オマケに釘の頭も削ってしまった。でも、
悪いのは埋もれていた釘ですし、鉋も文句を言わなかったので、
不問に付したのはよかったのですが、材木への食い込みが深す
きて、思うように削れません。

そこに金槌が登場します。鉋の刃は、頭を叩けるのですね。叩
いて見ました。食い込みがひどくなります。もう一度叩いてみ
ました。指が切れるほど刃が出ました。鉋の構造を看破した勢
いで、出る刃は叩け!

たった一回、叩いただけなんです。なのに刃こぼれが二ヶ所も。
うち一箇所は、毀(こぼ)れたというより、光っている部分がご
っそり消えた。

暫くして、鉋の木部を叩いても刃が動くことを知り、見様見真
似で叩いてみました。なのに刃は動きません。少し強く叩きま
した。やはり刃は動きません。慎重に過ぎたのでしょう。三回
目は満身の力をこめガン!ガン!ガン! そしたら、刃が、黒
い金属ごとポロリと落ちた。


 ※






梅林、何ヶ所も出かけましたが、撮れませんでした。国指定重
要文化財を安置した不動院でも、撮れませんでした。風光明媚
な公園や、歴史を誇る景勝地に出かけたときも、撮れないで帰
ってしまったことがあります。体を捩(ね)じるようにして、電
柱や、看板や、車や、資材や、雪洞(ぼんぼり)や、空き缶や、
荒(すさ)んだ通路や、ちぐはぐな建物を避(よ)けながら撮って
も、嘘をついているようで滅入ってしまいます。上半分だけ撮
っても味気ないです。街でも村でも、納屋でも倉庫でも、表情
でも物腰でも、絵になる社会へ飛んで行きたい。ソンナノ(美
意識を育む住環境)は、当たり前じゃないのかなあ?


 ※


鉋の刃を欠いたときも、父から叱られた記憶はないです。市川
の我が家では、父親の権威など無用でした。多数の父親を持つ
機会はないですから、余所(よそ)のことは分かりませんが、強
い父親像に頷ける場面は、我が家にはなかったです。

ヒトはいつの時代も「新しがり屋」なのでしょう。父もその点
は相当なもので、最も強烈な新奇、つまりテレビ受像機も逸早
く購入、ご近所の人と一緒に家族一同、夢中になって観ていま
した。それから大よそ半世紀間、私もテレビなしでは暮らせな
かった。


 ※


我が家へ戻る直前、短い坂を駆け下ります。

はじめは西へ走って南へ折れ、黙々と走って東へ折れ、坦々と
走って北へ折れ、退屈な一本道を延々と進みますと、大型ダン
プと、大型タンクローリーと、大型トレーラーに出合う交通量
の多い、いえ、滅多に車の通らない舗装道路に出ます。

荒れ地の大型車が出払うのはほんの一瞬。その瞬間が過ぎれば、
静寂と沈黙が蘇ります。夏場は、一級河川を隔てた草地に分け
入り、鷺(さぎ)を追いながら走っています。

早朝は、新聞配達の単車と、牛乳配達の軽トラックと、小型乗
用車と、商用ワゴン程度ですが、その道路ではなぜか決まって、
百五十メートル先の丁字路で最初の一台が唸りを上げます。排
ガスの中を進みますと、百メートル先の丁字路で次の一台が轟
音を上げます。粉塵を掻き分けながら進みますと、五十メート
ル先の丁字路で大型ダンプが二台も現われ、息も絶え絶えに丁
字路に着きますと、タンクローリーの風圧でもうガッタガタ。
なんか、意地悪されてんじゃないのかなあ〜。

さらに北上、次いで南西に折れるのですが、ガタを越してから
は、暗黒と想念の世界に溶け込み、屋外にいる感覚も、走って
いる意識も消えてしまいます。

今朝(二月二十一日午前五時半)、短い坂で夜明けを見ました。
地平線が微かに青かっただけですが、比類のない美しさ。その
瞬間、晩年の父の気持ちを知りました。


 ※


お正月のお餅は、勝手に焼いて食べられました。お風呂には漬
けなかったですが、蜜柑も火鉢で温めました。

砂糖醤油につけたお餅が好きでした。過去形にするのは、今は
年に三個しか食べないからです(三箇日に、お雑煮のお餅を一
日一個)。大福餅は、買い手が複数いますので割と食べますが、
今は四個目の伸(の)し餅は食べません。

元旦の朝も走ります。お腹が空きます。家族の食膳は太陽が昇
るまでお預けですから、先に紅茶とパンだけで「重い」食事を
済ませてしまいます。家族の朝食にはお節(せち)も並びますの
で、お餅の居場所がないのです。

伸し餅を菜切り包丁で切り分け、笊(ざる)やお皿に盛り、生え
た黴(かび)をこすり落とし、火鉢で焼くのが、市川時代のお餅
でした。

たわいないです、お餅の膨らむ様子を描くのは。袋詰のスナッ
ク菓子や、ハンバーガーや、コンビニのお弁当を描くのはもっ
とたわいない。

網から落ちた不心得モチは火箸で拾い、灰を払って食べました。


 ※


居間には目新しいものは何もなかったです。八畳間の寝室にも
茶室にも応接間にもテレビ以前は。

明かずの間の中身、つまり「簡易トイレ」の茶釜を筆頭に数々
のお道具は、父が結核で寝込んでしまった交換経済時代、二家
族八人(児童二人、老人二人、生徒一人、未婚女性一人、そし
て両親)の食糧に換わってしまい、さらに空襲で焼失した神田
の店を父が新築(初めはバラック、次いで本建築)、祖父一家
が「故郷」に戻る際、モノも一緒に移り住み(混乱していたの
でしょう、母自筆の長唄の教本もこの折に紛失、現在は所在だ
け判明)、明かずの間の風通しは大幅に改善さています。

因みにその後、神田の店の住人は、一人は嫁(とつ)ぎ、祖父は
亡くなり、一人は麹町の一軒家(新築、父が全額負担)に転出、
戦前から暮らしを保障されていた一人も麹町に同居。なお、そ
の一人が大学を卒業して商売を始める際、開業資金を全額拠出
した父は資金繰りに詰まり、市川の住まいを売却、今度は我々
の家族が神田に引っ越しましたが、その際、二束三文で売却し
てお道具屋を喜ばせたというモノも、私の想像よりずっと少な
かったようです。

オマケに加わった「暖簾継承権」の裁判は原告全面敗訴。その
訴人の欄には、市川時代の八人中、「祖父および我々の家族四
人」を除く全員と、母の叔父と母の義弟の名前もありました。
最後の方が名を連ねた理由は今も不明。しかし「随想 橡の木
の葉」を献本した際、「読ませていただきました。思いあたる
ことがあります」という趣旨のお便りを頂いてからは、母の電
話相手が不在の折々に、お食事のこと、ご商売のこと、ご家族
のこと、そしてお体のことを懇(ねんご)ろにお教え頂き、母が
「お互い、頑張りましょう」と声を掛けた翌々日、外出先で亡
くなられています。父を想う際、明かずの間の経緯(いきさつ)
を飛ばす訳には行きません。

明かずの間が化けたのが応接間です。


 ※


昔の私は、テレビ好きでは人後に落ちないつもりです。特に昭
和三十二、三年頃は神田の生活に慣れず、テレビは無二と言え
るほど貴重な息抜き。その神田は

南北両隣りは商店の、路地に面した東側二階に三畳間の台所。
その西隣りが、食堂と、居間と、両親の寝室を兼ねた六畳間で
テレビ置き場。

夕食を終え、両親の寝床を敷くと部屋は満杯。

市川時代も、我が家の夕食は「午後八時、家族と一緒」に決ま
っていました。店が軌道に乗ってから、父は判で押したように
午前七時に出勤、午後八時に帰宅、出張日や顧客招待旅行を除
く朝夕の食事は定刻通り。食後に働けばよかったのですから、
商家でありながら、両親は決まった食事時間を維持できました。

神田も事情は同じです。夕食後、父は住込み従業員と残務整理。
時に将棋、時に屋台のラーメン。

好きも手伝ったのでしょう、母の型紙制作は真夜中まで。

結果は、夜分に限っていましたが、好き放題、勝手放題のテレ
ビ鑑賞。テレビは引っ越した当初、従業員の食堂だけでしたが、
すぐに一台追加、従業員食堂に通じるガラス戸に押し付け設置。
しかし、両親の蒲団が邪魔して見づらかった。特等席は父の蒲
団。寝こんでしまうのですね。夜中に目覚めると父と一緒。そ
の温もり、嬉しかったですね〜。


 ※


眠っている情報を解(ほぐ)していかないと父の想いは判りませ
ん。邪(よこしま)な意図や無謀な要求がお金を恣(ほしいまま)
にできる内規は厭ですね。でも、知らなければどうしようもあ
りませんよ。先ずは、共有媒体で審(つまび)らかにさせること
ではないのかなあ。官であれ民であれ、営利であれ非営利であ
れ、知ってもらおうとする努力を率先できない個人や組織は、
速やかに舞台から去って欲しいですね。


 ※


昨日の土曜日、茂原市の「ひめはるの里」で春の陽を浴びてき
ました。歩きはじめの幼児に連れられた若い夫婦が何組も。


 ※


市川の応接間は、南西の角地で我が家では一等地。西側の長椅
子でまどろむのが、テレビ受像機設置前の最高の娯楽。陽光と
静寂が、大人になるとナニサマになりたがるヒトの性(さが)を
笑っていましたよ。

テレビが入ると途端に闇が支配。それでも冬は、ガスで熱せら
れたストーブが赤い光を添えましたが、夏は月明かり以外入室
禁止でしたので、画面への集中は一層だったと思います。S先
生は夜の九時までご一緒の日も。息を殺して凝視するテレビ画
像に匹敵する驚異は、さて、何だったんでしょう?

単純な私の記憶回路では、タレントさんの顔や番組の一部が過
(よぎ)る以上に、深めることの可能な想いは、今のところテレ
ビには見当たりません。私は大人になってもテレビっ子でした
ので、「数時間×365日×約50年」ほどテレビを見ていた
勘定。数=3としますと、約54750時間もテレビの画像と
睨(にら)めっこ。なにか、とても、損したみたい。




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