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クリスマスの季節 −9−
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成田山公園(千葉県成田市)
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お餅を焼く際の、お湯の役割がはっきりしました。
お餅は放って置くと、カチカチに固まり割れてしまいます。割
れたお餅は、焼いてお醤油をつけるとカキモチ(欠餅)になり
ます。それはそれで美味しいのですが、欠餅を続けていますと
欠歯になります。そこで我が家では、焼いてからお湯にひたし、
ふやけた表面に黄な粉をまぶして安倍川に再生、歯が欠けるの
を防いだのです。
我が身に、料理の卓越した才能を発見したのも市川時代です。
生卵も食べました。
自分が神経質と思っていた時代があります。しかし、暗闇でも、
電灯の下でも、板の間でも、畳に直(じか)でも眠れるほど剛胆
磊落・・・ではないなあ。近年は骨の調子が今一つなので、柔
らかい寝床は禁物。昔も、単に我慢強かっただけでしょう。
市川時代は、生卵にお醤油をかけたご飯も食べました。
婚約中、湯島のお寿司屋さんでお昼を食べたことがあります。
婚約中は、神田では天麩羅屋さんと焼き肉屋さんへ、新橋では
郷土料理屋さんへ出かけています。しかし結婚後は、天麩羅屋
さんも、回転寿司を除くお寿司屋さんも、郷土料理屋さんも、
家族旅行の際はともかく、二人だけで出かけたのは確か十回、
マイナス十回程度です。
湯島のお寿司屋さんではカウンターに腰掛け、好きなネタを注
文しました。当時はお酒も飲みました。お勘定を済ませ、裏口
で見たのが小児の食事風景。お椀に盛ったご飯に、溶いた生卵
をかけ、お醤油をドクドク注ぎ、握った箸で、突き刺すように
ご飯を掻きまわし、背中から下ろして与えた一部始終。
お勘定は思った通り高くはありませんでした。俺達だけが贅沢
をして、なんて思う必要もなかったです。しかしそれからです、
生卵をかけたご飯を、食べられなくなったのは。
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前段の文章には憶測で書いた部分があります。記憶違いではあ
りません。「溶いた生卵」は見なかったのです。勝手口で子を
背負っていたのですから、お店の家人ではありますまいか。そ
の子のオカズがお醤油だけとは信じられません。ですが、食べ
始めた小児の周囲にはお新香のお皿もなかったです。お椀の中
身は、見たところ生卵入りのご飯と変わりません。昭和四十年
代に入っての出来事です。
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料理の才能の話、書き漏れていますね。小学生に入った頃、自
分で作った料理が最高に美味かったのです。真似ただけなんで
すから、本格的に習っていれば、傑出した料理人になれた筈。
自信、ありますよ。
作り方をお教えしましょう。お湯を沸かす。生卵を、殻を割っ
てお湯に落とす。頃合を計って掬い上げ、お醤油を垂らして完
成です。お年玉? 落とし卵? そんな名前、あったのですか。
※
テレビ以前は、目新しいものはなかったですが、古いものはあ
りました。衣桁(いこう)と、六畳間と八畳間と茶室の「雨戸・
ガラス戸・廊下・障子」一式がそれです。
市川の家は、外から向って右の木戸は玄関に、左の木戸は勝手
口に通じていました。
玄関の、廊下を隔てた南側に明かずの間(その後、応接間に)
廊下を東に折れた両側に台所と納戸(納戸は後に茶室兼、父の
甥姪の受験宿舎)
台所の東隣りは風呂場(玄関の西隣りに風呂場を増設後、お手
伝いさんの部屋に改装)
廊下の正面は六畳間
左に折れるとお手洗い(汲み取り式の大小各一)
右に折れ、六畳間を庭側から迂回すると八畳間
改装前は、明かずの間と、納戸と、六畳間と、八畳間は、庭側
の廊下で繋がっていたのかも知れません。改装後は、茶室の南
側に孤立した廊下が残り、文鳥の番(つが)いを飼っていました。
文鳥は、神田に越したある日、台所の窓から逃げてしまったそ
うです。神田では昼夜を問わず多事多難でしたので、逃げた経
緯は判りません。
私が神田に越した当座は(公立中学に進んだ春は)、通いの事
務員数人のほかに、住込み従業員十五人、住込みのお手伝い一
人、それに我々の合わせて二十人が、敷地二十八坪の一階と二
階に寝泊り。土一升に金一升の問屋でしたから、店のお手洗い
は和式の水洗便器一個限り。路地裏の裁断場に水洗便器がもう
一個。後日、店内の、裏通りに面した階段下に水洗便器を一個
増設。
店のお手洗いはお客さまも利用。仙台など遠隔地から来店され、
半日ほど店で過ごすお客さまも珍しくなく、お弁当持参のお客
さまにはお茶を淹(い)れ、店で召し上がっていただきました。
市川の六畳間と八畳間は、茶室より北に一間ほど引っ込んでお
り、敷地全体も南東向きで、午後は日が当たりませんでした。
※
神田では、早朝や夜更けの出入りに気遣いました。早朝に出か
ける学校行事があります。有楽町や日比谷の映画館へは、休日
の最終時間に限っていました。空(す)いていたのと、人通りの
絶えた繁華街が好きでした。
私の出入りで、皆を起こす訳には行きません。店頭は、大きく
重いガラス戸と、鉄製横引きの扉が出入りを妨げ、裏の二ヶ所
も、重いシャッターが下りていました。
襖(ふすま)の開け閉めとは違います。そこで、バラックを本建
築に建て替えた際、増設した一間幅の扉に注目、シャッターを
六十センチ持ち上げることで難題解消。
まだ問題がありました。閉店後、配達用の自転車が隙間なく並
んでしまい、一間幅の扉が塞(ふさ)がれてしまったのです。自
転車に這い上がり、荷台を伝わりながらの出入りは、脚が捩じ
れたり擦(こす)れたり。
※
市川から越す前、神田の店では二年ほど、魚屋さんの姪御さん
がレジを打っていました。お金を扱うには信用が要りますから、
魚屋さんに紹介を頼んだのです。当時は肉に縁がなく、魚屋さ
んへの依存度が増したのでお願いできたのでしょう。
御用聞きは神田が圧倒しています。店の裏手で、地方に出荷す
る商品を梱(こ)っていますと(梱包は中学時代、テレビに匹敵
する娯楽で、考えられる唯一の運動でした)、魚や野菜の御用
聞きが姿を現わす、両親は往々、斜(はす)向かい四階に居まし
たので、梱るのを中断、呼びに行きましたよ、今晩のオカズは
ナニカイナと思いながら。
冬の縁側の日溜まりから、夏雲の過(よぎ)る甍(いらか)から、
依存の世界へ引き摺り込まれてしまいましたね、半世紀もの長
きにわたって。
肌で感じ、自分で歩き、一人で想い、自ら表わすのを止めてし
まった、多分、そうだったのでしょう。
※
【主に昭和二、三十年代】に、「静穏のひととき/こちら岸の
父、扉に値する写真はほんの僅か」と書きましたが、何のこと
か解からなかったでしょう、「こちら岸」とは。
父は神田で働き、菅野(すがの・市川市)で暮らしていました。
私は菅野で遊び、菅野で暮らしていました。その後、父は神田
で働き、神田で暮らすようになりました。私も神田で学び、神
田で暮らすようになりました。屋根瓦から眺めた千切れ雲はど
こへ消えたのでしょう。
神田に越す直前から(時代を画する情報技術を父が逸早く導入
してから)、菅野の一家は神田に越してしまったのです。奔流
に遊ばれる笹舟は情況に応じるだけで精一杯。ドラマの「制作
に従事」しながら、仕事を終えると、再びドラマの世界に帰宅
する、そんな暮らしを半世紀も続けてしまいました。
独創も革新も「情況の果実・関係の相互作用」なんですね。個
人の努力? 本人の才能? そう見えてしまう運動種目も、二
重生活の片側では、つまり職業面ないし壇上では、関係と媒体
を抜きにして、達成できる何物もないですよ。
一日の、ドラマの制作を終え、帰る場所は職場ですか? 一日
の、経営や政(まつりごと)を済ませ、戻る場所は、会社や、役
所や、会議室ですか? 娯楽番組の制作は、競技の中継は、映
画の上映は、評論の執筆は、経理事務は、資材梱包は、物流運
転は、貿易営業は、どれも「職業の側」なんですね。その日の
舞台を終え、戻る場所は「菅野」の筈でした。ところが半世紀
もの間、私は自分の職場と他人の職場を往き来してしまった。
片や送り手として(職業の従事者として)、片や受け手として
(視聴者や読者として)、双方の職場を軸に、日がな一日メリ
ー・ゴー・ラウンド。我が子を「菅野」で見つめたことがあっ
ただろうか。
※
市川の、明かずの間を改装した応接間は、神田の、和室を改装
した応接間と変わりませんでした。南西の日当たりと西日の違
いはありましたが、市川も神田も、応接間に風情は見当りませ
ん(思い出はいくつもあります)。
今の混沌を極めた我が家に応接間はありません。昔、出張先で
案内されたお住まいにも、応接間と呼べる部屋はなかったです。
芝庭を過ぎ、扉を開けると居間でした。三面、ガラスの戸棚に、
初老の奥様の、ご両親とご夫婦のお皿が並び、器の一つ一つに、
ご家族の思い出がありました。いくつかは日本製の普及品でし
たが、飾り棚に眠っていたお皿は、嘗(かつ)て博物館で見たど
の美術品より美しかった。
※
今日から三月です。もう外套は要りません。薄手の背広に着替
え、ネクタイの柄は桃に菜の花。
ひな祭りの宴、少し早いですが、日程の都合で済ませました。
フランス産の、辛口の白ワインで乾杯しました。昔、ワインの
普及を意図したのでしょう、千円ポッキリの国産ワインが発売
されましたね。今はそのお値段で、世界中のワインが選り取り
見取り。乾杯後の最初の話題は「当たりか外れか」
先月、牛久(茨城県)の古い建物に寄った際、買い求めたのが
イタリア産の発泡性ワインです。同じ棚には中国産のワイン二
種も。迷いました。中国産は一本が千円、もう一本はその数倍。
ガソリンの補給を考えた場合、帰れるほうがよかったので、数
倍のワインは候補から外し、中国産の千円ワインを家族以外の
お土産に、ラベルだけ上等に見えるイタリア産は誕生日用に。
いつもは申し訳に、瓶底の突出部が冠水する量を残して置きま
す。しかし、老いては子に従えですから、過日の「先に食べち
ゃえばわからないよ」を参考に、在宅中の関係者だけで飲み干
し、コルクと、空瓶と、ワイングラスは片付けてもらいました。
でも、お菓子はよくても、お酒はまずかったんですね〜。嗅覚
なのかなあ〜?
お雛さまを身近に見たのは、八十年代に入ってからです。父の
母親は記憶になく、母の母親は物心ついてから音信がなく、母
と母の家族のお雛さまも震災や戦争で燃えてしまい、それまで
はお雛さまに縁がなかったのです。
菅野では、茶室は特別ではありませんでした。炉を切る際、黒
く汚れた桐の箪笥を、居間に移した記憶があります。当時の部
屋はいずれも、畳と、襖と、障子と、サッパリした調度だけで、
見た目に変わりのない茶室も、我が家の日常に、自然に馴染ん
でしまいました。指導は家元の顧問F先生。準備万端は母。生
徒は、ご近所と、母の友人と、父と、店の女子事務員と、それ
に膝小僧丸出しのオマケでした。
F先生は男女のお子を育て、子の扱いには慣れていらしたので
しょう、それにしても優しく、祖母を知らないオマケには、ご
婦人が老いるとは、優雅で、気品があり、居住(いず)まいが正
しく、威厳がそなわり、奢(おご)らず、言葉少なく、実力を秘
め・・・なんて思われてしまい、我が身が老いるにつれ、間違
った観念を払拭するのに苦労させられました。
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ひめはるの里(千葉県茂原市)
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