折々の文章


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クリスマスの季節 −105−
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お江戸日本橋は昔も今も都の象徴です。但し今は哀愁の。先端
技術も道路の線引きには無力。

勤め先の事務所は日本橋の袂(たもと)でした。大阪の日本橋に
は、量販店担当者の宿泊用に、店(繊維問屋)で借りていた部
屋もありましたが、今回は江戸のお話。

今の我が家に移ってから勤め先の事務所も引っ越し、国会議事
堂前で乗り換え赤坂見附へ通った時代も。青山には高校時代の
季節折々、団地の友人宅にも出掛けています。学生時代は暫く、
青山の土屋喜三郎先生(向かって右端)に背広の仕立て方を習
いましたので、赤坂も青山も土地勘はありますが、ニューヨー
クへは何度も出かけたいのに、港も渋谷も新宿も銀座同様、私
にはなぜか敷居が高い。

お勤め時代はお酒を飲むのも仕事、飲み屋は職場の延長でした
ので、繁華街は何処に目があるか判りません。まあ、避けよう
や」が婚約時代のカミサンと一致した考え、そこで出かけたの
が勝手知った神田駅周辺の、土間に丸椅子の焼肉屋、立ち喰い
蕎麦を改装した天麩羅屋、座敷にトリスキの明治情緒。

カミサンの両親は土佐と九州の出身です。カミサンの幼い頃は
長州に住んでいました。カミサンの学童時代に一家は都内下町
の住宅街に転勤。そこで官軍側(?)にも敬意を表して、新橋で
は薩摩の郷土料理。当時は芋焼酎も好きでした。苦手は、重く
甘い醸造酒。

二人で食べてばかりは健康によくありません。熟慮の末、選ん
だのが千鳥ヶ淵と不忍池でボートを漕ぐこと。その後、子連れ
で、動物園から眺めた不忍池も楽しかった。

今思えば、私は中一から新卒まで職住一致を、新卒から結婚す
るまで職住接近を学んでいたことになります。結論は微塵も迷
わず都心脱出。

前頁の写真に建築中の建物が見えます。一棟の斜(はす)向かい
に一棟、路地を隔てた隣りに一棟、その向かいに一棟、さらに
約百m離れて一棟が、建築主も施工者も違いますが素人目には
同時進行。前身は事務所ビルか廃業した繊維問屋。いずれも集
合住宅。

神田明神も湯島天神も高台にあります。両者の雰囲気には、願
いごとの違いでしょう、事業者と消費者の差、商売と家庭の距
離、明け透けと細やかさの別を感じます。ところが、坂下を帰
り道に選びますと

神田明神の坂は、転げ落ちても電気街をうろうろするだけです。
昌平橋から神田川に落ちる心配もないでしょう。一方、湯島天
神の坂下は

忘年会や歓送迎会が上野で開かれますと、お酒を飲まない私は、
広小路口から坂下へかけての飲み屋街に閉口し、千代田線の湯
島駅に逃げ込んでほっと一息。

神田駅界隈の飲み屋街は、高校時代も心配はなかったです。バ
スエ的安心がありました。勿論、親からの注意も皆無。大人に
なっても、大概の飲み屋は何も考えずに入れました。一方、上
野から湯島へかけての飲み屋街は、声を掛けられるだけに入る
勇気が湧きません。

上野公園は深夜、立ち入りできないそうです。時刻を記した日
本語の看板が立っていました。治安は大丈夫なの?

一帯は島嶼の縮図、あるいは活力の源泉なのですね。凄い生命
力です。飲み屋だけではありません。隣接して育つ芸術も学問
も、です。だからなんですね、これでもかこれでもかと掘り起
こし、大見得を好み、お祭りを演じ、料亭に政(まつりごと)を
持ち込み、壇上の醜態も余興として囃(はや)すのは。

住宅街も同様です。柏市の一角は野田の植木市に出かける際、
幾度となく目にしましたが、学問も、医療も、巨大な運動施設
も、その拠る処が解るようで、無辺動物園化の循環連鎖が、未
来永劫続くのも無理ないな〜、なんて気持ち。


 ※


戊辰戦争では、上野でも多くの血が流れたのでしょう。お山は
先ず聖域、居住まいを正してしまいます。来訪者に眼前で、遊
興一本槍を許容する古戦場も珍しいと思いますよ。お山と湯島
天神と神田明神を結ぶ一帯で観光資源を育めば(ラシサを捏ね
上げるのでなく、今では何百年もの歳月をかけ、住環境の緑を
拡大し続けるなら)外国からの観光客で足の踏み場もないほど
……にならない生活様式が解ってしまうから情けない。島嶼の
建設は、創造的営為は、何処もテーマパークもどきでは?

先端技術に携わることと、普遍植物園の住環境は矛盾しません。




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