折々の文章


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クリスマスの季節 −10−
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私の中学時代や高校時代は、日曜も夜の十時を過ぎますと、有
楽町も日比谷も銀座も動きが絶えてしまい、荒涼とした表情に
変わっていました。その時刻その場所を歩いていますと、居て
も立ってもいられない不安を忘れられるんですね。孤独? 人
恋しい? そうではないです。自由になれたのです。しかしそ
の自由は無機的でした。途方もなく乾いていました。父と歩い
ている実感が湧かなかった。当時は父の気持ちが解らなかった。
当然ですよ。私はまだ父親ではなかったのですから。でも父は
一緒でした。グラナダの夜風に吹かれた折、嗚呼、親父も嬉し
かったんだなあ〜、と。


 ※


言い出しっぺは父でした。菅野の改装は、前に触れた棟梁の片
腕で、筋張った若者が請け負ってくれました。私も憶えていま
す。付き纏って邪魔したのかも知れません。祖父の隠居所を建
てた棟梁は宮大工で、大森の建物は釘を使わずに屋根を組んだ、
その見学の申し込みを、なぜか区役所が仲介したそうです。若
者の腕も定評がありました。

F先生は既に引退され、菅野以外では亡くなるまで教えていま
せん。本八幡の駅前でお花を買って来られ、お茶の練習後、母
と一緒に活けていました。水仙の扱い方まで記憶しています。
興味に駆られ、やはり邪魔したのかも知れません。

驚いたことがあります。お茶の教室は月に一度、それを数年続
けましたが、練習が終わると祖母(母の母親)が姿を現わし、
先生とお菓子を食べていたのです。F先生は祖母と一緒に菅野
に通い、稽古が終わるまで祖母は別室で待っていました。しか
し、祖母の姿は私の記憶から抜け落ちています。

作法の複雑な「濃い茶」の席は限られていました。オマケを勘
定に入れないと、F先生と母と父と、同業者のお子で美大出の
お嬢さまだけです。お嬢さまは最近まで年に一度、編み物の催
しで母と会っています。

父は熱心な生徒で、飛び級(?)で家元のお許しを得てはどうか
とすすめられましたが、状況は大きく変わり、再びお点前を試
みることはなかったです。


 ※


子はどうしたら親を解ることができるのでしょう。テレビも映
画も書物もみ〜んな他所(よそ)なんですよ。自分の作品ですっ
て。嘘、おっしゃい。どれだけ多くの人があなたの作品を支え
てきたか。しかも傑作になればなるほど身の丈から遠退くでは
ありませんか。

寡占媒体は所詮一握りの機会であり、その作品は売りを前提に
した商品に過ぎません。ところが身の回りは寡占媒体の渦。自
分の親を想う機会なんて、今の子にはないのが当たり前。それ
でよいのだろうか。親の背中? 超能力があるんですね。言葉
に表わさないで、子に何が解るのだろう。


 ※


エアコン、電気冷蔵庫、電子レンジ、パソコン、携帯電話、化
粧品、スーパーマーケット、コンビニ、ゴルフ、テニス、温泉
旅行、海外旅行などなど、列挙したら切りないですね。お薬も
病院もお酒もお寿司もお菓子も豊かですね〜。昔はよくはなか
ったですよ。それなのに「テレビ見た。酒飲んだ。カラオケ歌
った・・・」だけなのかなあ。昔に戻ります。

お稽古の時間外も茶室は茶室です。折々、父は鉄瓶のお湯で薄
茶を楽しんでいました。さぞや濃く苦いお茶で育ったのでしょ
う。抹茶を甘く感じていたのかも知れません。そんな時は私も
茶筅で泡立てる真似を楽しみ、半世紀後の、濃く苦いお茶をガ
ブ飲みする素養を磨いていました。但し、父と子がいかに寛い
でも茶室は茶室です。誰に見せるのでもありませんが、父の居
住まいは揺るがなかったです。私も心地よい緊張を感じていま
した。


 ※


菅野では薄茶を習った人がもう一人います。後述の女の子です。

昭和二十六年の晩秋、越後から杜氏(とうじ)のAさんに連れら
れ中卒男女が神田の店に着きました。男の子はAさんが「車中
あまりに気が利かず、勤めは無理なので連れて帰ります」と申
し出たのを父が制して採用、営業ではなく生産に振り向け半世
紀と三ヶ月、空洞化による職種変更も乗り越え勤めを全うしま
した。社内結婚。持ち家。男女二人のお子も子に恵まれていま
す。今春、病気のため職を辞しました。 ※追記:2003年1月、
先立たれた奥様と同じ病気で逝去。ご夫婦とも、両親がすすめ
た築地の病院で入院と治療を続けていました。

当時は稲作が済んで雪の降る季節になりますと、神田の店でも
結婚前の女性を「出稼ぎ」として受け入れましたので、都内民
間の斡旋所を介して知ったAさんが定期的に越後から人を紹介、
出稼ぎが減っても杜氏としての信用が効いたのでしょう、昭和
三十年代には中学新卒の女子を毎年五人、工場女子寮の住込み
工員として紹介し続けてくれました。

Aさんが紹介した住込み工員の中に一人だけ高校新卒者が入っ
ています。出産が無理な体という理由で地方では雇い手がなか
ったのです。しかし母が築地の病院をすすめ、工場に勤務する
傍ら週に一日を半年間、埼玉県から築地に通い治療を続け完治、
仕事がよくできましたので神田の事務へ職種変更、その後、若
い番頭のBさんとご結婚、社宅入居中に男女をご出産、お子の
一人は後年、名門私立大学へ進学、Bさんは独立、新宿から二
駅か三駅の繁華街で小売店を開業、今もご商売に励まれている
と思います。


 ※


Aさんが昭和二十六年に連れてきた男女の、女の子は出稼ぎで
した。当時の越後の人は、誰もが力持ちだったのでしょう、あ
まりに気が利かなかった男の子も、小さい体に似合わず綿布の
原反を易々と持ち上げ、裁断の手助けには打って付けでした。
大きな体の女の子は男の子以上に怪力の持ち主で、東京に大雪
が降った朝、店の周囲の雪を一人で掻いてしまい、男の店員は
面目がなかったそうです。女の子は冬になると繰り返し上京、
店で働きましたが、やがて地元でご結婚、音信不通に・・・な
ったのではなく、前述の男の子の結婚式では我が子の手を引い
て参列、何年か前にお亡くなりになるまで、父の元にお便りが
届いていました。因みに

男の子も職場結婚です。お相手はAさんが連れてきた女子寮の
住込み工員。同郷です。奥さまの晩年は、やはり母が築地の病
院をすすめ、父の晩年の入院棟の、同様の個室で逝去。


 ※


しかしまあ、父はホントに何も話さなかったです。晩年はお昼
休みに、我が子を種に(父にとっては孫を)、私が怒鳴りつけ
た事情や、妻が叱りつけた経緯など、実にたわいないことを聞
いてもらっていましたが、返って来たのは、ホントに嬉しそう
だったという母の観察と、笑顔だけでしたね。


 ※


怪力の女の子が、最初の出稼ぎを終え郷里に戻り、紹介してく
れたのが菅野の初代のお手伝いさんです。娘さんは薄茶だけで
なく、お花もお習字も一緒でした。殊のほか気立てがよく、父
も気に入り、母が私に、回想の「同意」を求めて度々耳にする
お名前ですが、当時は殊のほか悪餓鬼だった私には、残念なが
ら面影が浮かびません。

先の男の子は幼かったので、当初は我が家の旅行に連れて行っ
たり、どちらが付き添いだったかは別として、私の療養にも同
行しました。お手伝いの娘さんは実利を選び、お料理も母を教
授に個人授業。ご結婚が決まり帰郷する際は、涙ボロボロだっ
たそうです。お子にも恵まれ、今もご健勝の筈。


 ※


完全に消えてしまったそうよ、町会の役員が教えてくれたの。

昨年末、亡くなられた事業主の未亡人から母への電話で、界隈
から業界の最後の一人が消えたのを確認しました。

二十年前には、その業界は今も続いていますが、当時は有力な
商店主で、極めて高い学歴のご主人が廃業を決め、老舗のご出
身で、事業継続にこだわる奥さまが別れ話を持ち出し、相談さ
れた同窓の母は、さらに二十数年前を思い出しました。当時の
私は学校の教室でも、両親から離れられなかったです。

昭和三十年代の半ばです。神田の店は繁盛していました。その
全盛時に、業界の行く末と斯業(しぎょう)の体質を見極め、後
にも先にもたった一度、父は「商売をやめる」と言い出したの
です。

居ても立ってもいられない不安を皆さんもご存知でしょう。そ
の最初が何時だったかを私は憶えています。冬の放課後、闇を
押しのけ、枝に掛けたランドセルを探していた頃ですから小学
三年、それより後でも先でもなかったです。

父は従軍時代の体験も、戦争末期から戦後にかけての出来事も、
ほとんど何も話していません。写真の笑顔を見ていますと、ホ
ントに苦労知らずのお人好し。

寡占媒体を賑わす大見得や、醜態だけがヒトの姿ではないので
すね。でも、子どもには解かりません。言葉の占拠率を高めな
いと、解かりようがないのです。黙ったらマケなんですね。そ
れは一人一人に言えること。

菅野では一度だけ懐石も。亭主もお料理も母が請け負い、私も
おこぼれを期待しました。でも、嗚呼無情! 完全に締め出さ
れ茫然自失、今もって口惜(くちお)しい。


 ※


我が家では、昭和二十年代の後半にはスキーも始めています。
但しスキーは新しがり屋の埒(らち)外で、奥利根の温泉で、宿
の人が勧めてくれたのです。

温泉宿で、板と(左右とも成形した一枚板と)、登山靴のよう
な履き物と、先に輪のついた太く節くれだった竹を借り、肩に
担ぎ、門前の坂道をヨロヨロ進み、田圃の新雪にズボズボ脚を
取られ、遭難を疑似体験しながら、喘(あえ)ぎ喘ぎ着いたのが
地肌むき出しのスキー場。

滑走面は、河川の土手と変わらない広さで、天然繊維の綱を動
力で回転させ、転(ころ)ぼうと喚(わめ)こうとお構いなく引き
ずり上げてくれる仕掛けが一基。

父も気に入り、海水浴のほかに、スキーも従業員の慰安旅行に
加えました。その旅行で判ったことは、あまりに気が利かない
男の子のもう一つの特技です。男の子の滑りはミズスマシそっ
くりでした。

後年、上越と東北の出身者が多かった工場でも、温泉とスキー
の慰安旅行が実現しています。


 ※


街着(まちぎ)で、雪の降り頻(しき)るスキー場に出かけますと
びしょ濡れになります。幸い、初めてのスキー場は曇っていま
したのでセーター一枚。薄鼠に、白や紺で雪模様を散らした兄
弟お揃いの編み込みは、モデルの一人は違いますが、雄鶏社の
編物雑誌○○号に載っていますよ。

サングラスは宿の売店で買ったのでしょう、枠が丸いロイド眼
鏡に橙の色ガラス。おまけに屁っぴり腰の典型では、本人は得
意でも脇から見れば相当に頬笑(ほほえ)ましい。互いに初心で
あれば、大人に勝てるのがスキーですから、もう有頂天! わ
ずか半日でスキーの虜(とりこ)。

帰りは降っていました。風の唸りに急かされ、湿った雪に視野
を塞がれ、白一色の世界を懸命に歩くのですが、寒くって心細
くて、置いて行かないで〜。

宿の玄関でやっと一息。火照った乾燥室で父の笑顔を認め、ス
キーって、いいもんだなあ〜。


 ※


菅野時代の我が家では、なくはないのですが、雪の記憶は曖昧
です。

小学校の雪の記憶は鮮明です。

一つは、運動場の松の根元の、粘土と霜柱と残雪の斜面。

斜面の幅は一メートルほどでしたが、誰が工夫したのでしょう、
孟宗竹の破片を靴に括りつけ、滑っては遊んだのが小三か小四
の冬です。打ち身にすり傷に泥汚れが、今もこびりついて剥が
れません。もう一つは

小三の冬です。小四のセンセは苦手でしたが、小三と小五の先
生には、今までほとんど触れていません。

今もよく解からないのです。後年、母が日本橋の百貨店で、菅
野時代の保護者と出合った際、小六の春に転校した私の最終進
学先を、先生が知っていたと教えられました。確かに小四のセ
ンセとは違っていました。

先生は若かったです。眩しくさえ見えました。小五の時は、出
かけたのはバラバラでしたが、多くの級友がお宅にもお邪魔し
ました。母は学校行事もいくつか請け負い、その延長だったの
でしょう、私も出かけましたが、教室で怯えていた頃とは違い、
観察する余裕が生まれ、先生のお宅で募った想いは小三の雪の
翌日。

朝礼に使われた校庭の南端は生垣で、植え込みの隙間から抜け
出すと細い水溜りがあり、生徒の悪餓鬼一派は、生きたアカガ
エルを剥(む)いて糸で垂らした! 蛇を誘(おび)き出す囮だっ
たのです。

水溜りの向こうは土を盛った畑で、雪の翌日、授業の一つが流
れ、雪原で遊んでよいことになり、まあ、教室の外は自由でし
たので天にも昇る心地。教室を飛び出す前の先生の言葉「畑の
持ち主の許可を得ました」なんてのも憶えています。

先ずは走りまわり雪合戦に興じていました。次いで人形だか怪
獣だかを作ろうというクラスの意向が伝わり、力仕事を率先す
る気質が働き、精だして雪を転がし、像が仕上がったときは水
星でしたが、互いに労をねぎらい、現われた先生に誉められ、
歓声を上げ、先生に抱きつき、先生を奪い合う時分には、金星
ではなく、火星でも木星でも土星でもなく、天王星でも海王星
でもなく、冥界、いえ冥王星で佇(たたず)んでいる我が身に、
侘(わ)びしかったですね〜、秀才や英才を仰ぎ見ながら。

ところが、彗星が輝いていたのです。あの子と並んだら、秀才
なんか宇宙の塵、英才なんか闇の暗黒、私には銀河にも宇宙に
も思えた「学園近くの、大きな門構えの女の子」が、微笑みな
がら立っていたのも冥界、いえ、冥王星でした。

女の子を見かけたのはあの時が最後です。先生のお宅では、冥
王星が恋しくてなりませんでした。

一人一人が自らの軌道で、輝いていると嬉しいですね。ところ
で、今からどこへ行くの? 金髪に染めに行く、サウナで贅肉
を落とす、全身美容の泥を塗る! オヤ、マア。


 ※


昭和二十六、七年に始まった家族のスキーも、中学二年で途切
れました。高校に進むと、単身か、スキー上手の女の子らと一
緒でしたので、両親との関わりは商売一辺倒になります。

私のお小遣いですか。中学時代は梱包、配達、レジ打ち、伝票
書き。大学時代はデザイン探し、コンセプト作り、大手に提出
する年に二回の企画書代作。高校時代は過渡期で単純作業と商
品企画が混在。いずれも今の学生の、並みのバイト程度は働い
ていました。因みに

横山町や馬喰町に訪れる小売店は、有力なほど仕入れ先が多く、
買い付けた商品は、馴染みの一社から出荷させていましたので、
問屋は判取帳を持ち歩き、お客さまの荷物を互いに届け合う、
その足が、夜中に出入りを妨げた商用自転車。

現金売りでも父の店は、カーボン紙を挟んだ伝票に、品名・品
番・単価・数量を記入、暗算で合計してお客さまに渡し、同時
に記帳していましたので、顧客が殺到する売出し期間や、暮れ
から大晦日にかけては戦場になりました。

招待旅行の写真をご覧でしょう。売出しに訪れるお客さまは写
真の三倍。皆さん、素人ではありませんから、一回の仕入れは
少ない人でも紙包みに一抱え。私の筆記がとても速く悪筆なの
は、伝票書きの名残(なごり)かも。

中卒で就労するのが当たり前の時代に、除夜の鐘まで皆で働き、
集金(新宿など繁華街の上客に限って月末現金集金)に出向い
た最後の一人の戻りを待って、開く年越しの宴で、酌み交わす
お酒に後ろめたさはありません。

働くって充実なんですね。十一時前や二時過ぎに、お昼を食べ
に喫茶店チェーンに出かけることがあります。なんだろう、若
いのも男も女も、スーツを着ながら漫画に夢中だったり、雑談
や通り一遍の挨拶で時間を潰して。

少子化・高齢化に関連して、労働力不足の話題を耳にしますと
遣り切れなくなります。コノ人タチ、真剣ニ働コウトシテイル
ノカシラ。アノ人タチ、現場ガ見エテイルノダロウカ、と。

十年も一所に勤めれば、転職したくありません? 職場さえあ
れば! そう思っている人もいるのですよ。だったらなぜ、四
十歳代にも、五十歳代にも、六十歳代にも、就労の機会を開放
しないのかなあ。

自立心と自助心を解放して欲しいです。仕事本位が浸透すれば、
時間を潰すだけの勤務振りは、箴言(しんげん)を待たずに改ま
り、働く喜びが蘇ります。創造性や生産性を云々できるのかな
あ、年齢条件で就労の機会を狭め、勤務形態で就労の成果を値
切り、租界の住人だけが特権を謳歌できる社会なんかで。


 ※


両親と出かけたスキー場は水上、志賀高原、霧が峰、湯沢、野
沢、赤倉、蔵王だったと思います。確かではありません。水上
は二回かも。志賀と蔵王は家族だけです。他のスキー場は店の
従業員の慰安旅行。工場従業員の慰安旅行には同行せず。兄は
運動部優先。なお、関西方面への仕入れ旅行、紡績の接待、お
客さまの招待旅行(北海道〜九州)など頻繁に出かけた両親の
出張時は私が留守居。頼りにしてくれましたが、その分、従業
員には煙たがられ、気心の知れたのは三人程度。

小四の頃、志賀高原に出かけています。




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