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折々の文章 |
──────────────────────────── クリスマスの季節 −110− ──────────────────────────── 筑波実験植物園への往復に街道は使いません。道のりの三分の 二は、後続車に煽られないよう速度の間合いを見ながら。 なぜ今ある橋の脇にもう一つ、新橋を架けたのか解りませんで した。なぜ道路を二車線に拡張するのかも解りませんでした。 辺りは根こそぎの痕跡さえ判らないほど殺風景です。その一所 は、区画整理が整い新築の人家もボツボツですが、今も更地は あまりに広い。そのもう一所は、見渡す限り一木も見当りませ ん。ムカシは樹木が茂った田園地帯、更地にするまで、その広 さも判りませんでした。一方 片側一車線で、吊り橋同然に揺れている橋が江戸川に架かって います。欄干が低く、路面は凸凹で、速度を出すと車が舞い上 がって川にドボン。ご心配なく。千葉県側も埼玉県側も、片側 一車線の渋滞は半端ではありません。大きな地震が起きたら、 橋も、その前後の渋滞も惨事は免れないでしょう。 新橋も車線の拡張もその訳が判りました。一木も見当らない土 地の彼方に、前後脈絡のない構築物が建ったのです。なぜ陸に 橋が、それも橋の一部がと不思議でしたが、看板を見て納得し ました。荒涼とした空間に新線高架の切れ端。 湾岸河岸に高層住宅、下町にペンシル・マンション、遠方の大 規模団地は見直しを余儀なくされ、やがては集合住宅が軒並み 老朽化する中、緑を根こそぎにする島嶼首都圏の新線工事。 ※ 小五までに自転車で出かけた範囲は、浦安、行徳、江戸川、船 橋の海辺。徒歩は市川市菅野から片道一時間内。松戸以北は結 婚してから。 越境した小六でお茶の水界隈を知り、神田に越してきた中学か ら問屋街と小川町〜神保町に親しみ、高校時代は 郷里の佐賀に泊めていただいた友人は大田区、お父さまもご本 人も音楽を生業(なりわい)にしていた友人は品川区、麻雀の強 かった友人は大田区、団地の友人は港区、銀座の老舗の同級生 は中央区、苦手だった女の子は(私は硬派)、さて、港区も品 川区も大田区もいたのだろうか。通学定期で途中下車は有楽町 駅と東京駅。日曜の夜歩きは日比谷や銀座。←昼の銀座は頭ガ ンガン。ヒトの絶えた繁華街が好きでした。最寄りの万屋は日 本橋。上野は単身スキーの日帰りで。 学生時代は通学定期で新宿に途中下車。武蔵野市は「随想 中 町にて」の舞台。当時、社員との月一の飲み会は吉祥寺。 お勤め時代の行動範囲もバラバラでした。関西は頻繁に。計画 立案業務と市場調査業務に携わっていましたので、新年度の計 画を説明する要員として各地の支店へ、消費と流通の調査で主 な地方都市へ。 夜の繁華街は仕事か趣味か判りませんでした。馴染みの酒場は なかったですから、やはり仕事でしたね。 ※ 四十五年前も埼玉県南を訪れました。父が二ヶ所、土地を確保 したその点検のお供。一所は穴ぼこだらけの砂利道、春は見渡 す限りレンゲ色。もう一所は稲と菊。 その菊畑が、都心に近かったからでしょう、住宅密集地に変わ り、コブナが釣れた水路に蓋をして歩道に改変、幅一車線の路 地を、渋滞を回避した車が速度も落とさず往来、水道工事が重 なりますと、入り組んだ路地にも迂回車が入り込み、体を横に しないと命の危険。 この前はいけません! どきなさい! あっ! セミがいる! ほら! セミ! どきなさい! この前はダメ! わからない子ね! …………… 補助輪をつけた子がセミを見つけ、箱型車の前で自転車を停め たのです。あの路地から、よく車庫入れできたものだと感心し ますが、二人の様子から母親でしょう、鍵を手にした若い女性 が強い調子で、その子を車庫前から退(ど)けました。 ※ 日銀の写真の右手が、勤め先の事務所から父が商談に出かけた 建物です。海軍省の出先機関があったとか。銀座の事務所は空 襲で焼失。銀座以前の、召集解除後の勤め先は人形町でした。 戦後、父が利用していた貸し金庫も同じ建物。私も中高時代、 父に連れられ入っています。威厳が深く刻まれました。それだ けに、泡期とその後が悔やまれます。 建物の隣りは建築現場。日銀の頭のクレーンがそれ。解体前の 一棟は果物屋さん。身近なお祝いごとに利用しました。須田町 の果物屋さんはとても手が出ず、慶事やお見舞いに限っていま すが、コチラは婚約時代のカミサンと食事してから、贈る物に 困った折に重宝しました。今は仮店舗で営業中。しかし、島嶼 の高層ビルに出合いますと臆する私は、さあ、これからどうし ましょう? 日本橋交差点の新ビル界隈は、お勤め時代のお昼にウロウロ。 近くの建物に介護用品の売り場があり、父の闘病中は見学に訪 れ、お風呂の介護用品も買いました。 今も同じですね、若い皆さんの自信と意欲。お昼休みも同じか も。ただ、お弁当屋さんは一杯あったかしらん? 同じとは、 オナカを満たす本位の暮らしが変わらないという意味。おいし いもの、贅沢なもの、珍しいもの、安いもの、多いもの、何で もよいですが、仕事も食事も眼前のお皿を「脇目」も振らずに ガツガツと。泡期はその絶頂でした。 ※ 千鳥ヶ淵との出合いは中学の一キロ半か二キロを走る授業。走 り方を知らなかった当時の私はスタート直後から短距離走。バ タバタでした。←「無知は危険」の典型。 ボートの漕ぎ方を覚えたのも中学時代の千鳥ヶ淵。神田に越し た当初は市川の暮らしが尾を引き、水辺が恋しかったのでしょ う、飯田橋から市ヶ谷にかけての外濠でテナガエビ釣り。小さ なバケツの収穫を味噌汁に入れてもらいました。あるいは茹で た? 小学時代に江戸川河口で釣ったハゼ同様、食べたのです。 新卒時代は職場で夜桜を見に出かけました。婚約時代は二人で。 北の丸公園の最初もその頃。 ※ 涙国は、物見遊山は盛んでも観光はその概念さえ存りません。 海外から招き寄せる掛け声は遊山客に向けたもの、観光客には 向いていません。次の名山に到着するまで、ハイ! 目隠し! 次の史跡に到着するまで、ハイ! 目隠し! 困りますね〜、足許は皆さんに関係ないです。受話器の子も路 地の子も見ないで下さい。海外からのお客さまは特別ですから、 見ていただく場所も特別に用意しました。えっ? 涙国の暮ら しを知りたいですって? ご冗談でしょう。 ※ 小六時代の通学は、自宅から徒歩で本八幡駅に出かけ、総武線 に乗り、御茶ノ水駅で降りました。中学の三年間は、靖国通り を都電か徒歩で神保町まで。学区がヘンかも。 小川町から神保町へかけては、社会に出てからも頻繁に立ち寄 りました。千代田線と新宿線の開通後はさらに気軽に。しかし 街並みへの感慨は湧きません。高いビルが建つようになってか らは、日本橋同様、目もクラクラします。 快晴の雪山を裸眼で滑っても雪目を知りませんでした。炎天下 の公園も未だに無帽。皮膚も、骨も、筋肉も循環器も神経も老 化は随処に現われ、無理はできませんが、対お陽さまだけは自 然のままです。最近は近眼鏡も老眼鏡も片付けました。ところ が、銀座でも靖国通りでも、舗装の照り返しとコンクリート壁 の反射に弱かった。 中学校の図画の時間、屋上で御茶ノ水方面の建物を写生しまし た。四十五年経った今も、その時の想いは変わりません。 高層化が進んでいます。幼い頃に聞かされた未来都市の空想を、 確実に具体化しているのですね。やがて百階に建て替え、地表 から十階までを耐潮構造に改め、高層階相互を結ぶ交通網を整 備、選ばれたヒトだけが生き残る……。 神田川水系でボートを漕ぎ、芝生で憩う幻想も、涙国の潮位の 前では、一たまりもなかったです。 |