折々の文章


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クリスマスの季節 −11−
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週末は栃木県、茨城県、埼玉県、千葉県へ出かけていますが、
これは!という自然や市街が日増しに減っているように思われ
ます。ゴミ、看板、けばけばしい街道筋、蚕食された丘陵、削
り取られた山肌が目について切なくなります。孫や曾孫の世代
は、自然や町並みの景観美なんて信じなくなるでしょう。我々
の美意識は、自分を飾り立てること、綺麗なお花に見蕩(みと)
れること、だけなんですか?

志賀高原は高校時代も大学時代も出かけました。友人に紹介さ
れた民宿に泊まったり、旅行社のスキーバスに加わって、滑っ
てはお喋りを楽しんだものです。当時、美意識という言葉を聞
いたら歯が浮いてしまったでしょう。しかし、小四の志賀高原
は違っていました。

積雪でバスが通れず「雪上車」で運ばれました。心強かったで
す。好奇心も満足しました。予約できた宿は高原に一軒。建物
は異国の風格。古風な三階(?)建て。暖炉には薪が音を立てて
燃えていました。暖炉の脇には樺の丸太が重ねてありました。
古美術を連想させる花瓶には、見事な枝振りの真っ赤な実が壁
面を覆い、暫くは暖炉から離れられなかったです。ホテルの感
覚もベッドの記憶も消えていますが、建物と暖炉と花瓶は忘れ
られません。


 ※


翌朝は整備されたゲレンデに出かけましたが、傾斜がきつく、
雪面が凍りつき、棒で打たれるようで楽しくなかったです。奥
利根の喜びが蘇ったのは、庭の小山か何かでしょう、ホテルの
脇で無人の斜面を発見したときです。スキー板で上り下りする
ほどに雪が締まり、ミズスマシ・ボーゲンを会得するのに十分
な広さ。頬を紅潮させた子どもを夢中にさせる優しさと、群青
の空と、太陽に照り映える霧氷と、銀色に輝く遠い山々。


 ※


商売を抱えていますと、何日も宿泊する家族旅行は無理ですか
ら、中一日で帰路のバス。そうなんです。雪が固まったのでし
ょう、帰りは雪上車はお休みで、宿の前からバスに乗車。とこ
ろが、バス道がスキー場と知ったのもバス停でした。早速、父
にリュックを預け、括った板をほどき、スキー靴に履き替え、
習い覚えたボーゲンでバスと競争。

曲がりくねった下りですから、崖下に転落する機会がない訳で
はありません。バスと抜きつ抜かれつですから(だったそうで
す)衝突事故の危険もあります。難所難所では、立ち往生する
帰り客が団子状でしたので、車内の両親は生きた心地がしなか
ったでしょう。あの時の真剣さと緊張感を、その後も持ち続け
ていたら、もったマシな人間になれたのですが・・・


 ※


蔵王は家族旅行の最後だったかも知れません。蔵王を教えてく
れたのは運動部で合宿したことのある兄です。ジンギスカン鍋
を食べに、温泉街の肉屋さんにも誘ってくれました。樹氷原で
ジャンプしている兄の写真もあります。しかし、競技スキーは
練習も技術も優雅な私の滑りとは別物で、とても一緒には滑れ
ませんでした。

本当ですよ。私の滑りは女の子と間違えられるほど優雅でした。
ただ、起き上がる時間が滑っている時間を圧倒していたのは否
めません。今は走り込んでいますので、足腰に自信はあります
が、小学生の子らを二度目か三度目のスキーに連れて行ったの
を最後に、十年も二十年もスキー場には出かけていません。


 ※


海のお話もあります。海は、伊東での無酸素海底散歩が幅をき
かせ、ほかの記憶は影が薄いです。大原や御宿や銚子や九十九
里など房総半島は、日帰りでの上書きを幾度も繰り返した結果、
同じ出来事でも、ある時は富津と書き、別の時は千倉と書くな
ど、時間も場所も混乱しています。先ずは大原の昭和三十九年。
いや、御宿の昭和四十年だったかも知れません。

高校時代や大学時代は友人に恵まれ、小五までの渇きも忘れま
した。中にお一人、麻雀と女の子に強かった友人がいます。硬
派の私とは肌合いが違い、デート用に外套をお貸ししたり、割
賦のご相談に乗ったり、どちらかと言いますと、受け身のお付
き合いでした。

海の家のアルバイトも頼まれました。海の家の働き手は、ご夫
婦とアルバイト二人の四人限りでしたが、学生一人が突然来ら
れなくなったとかで、友人が困っていましたので、在学中のご
兄弟も多く、少しでもお役に立てばと引き受けました。

茣蓙(ござ)にごろ寝。海の家の余りご飯。お仕事は食堂を除く
一切と朝と夕の浜のお掃除。砂浜に深い穴を掘って、海の家の
廃棄物と、海水浴客のゴミと、花火の残骸を一日二回放り込む。

一週間後に台風。海の家を補強。接近時に目が覚めますと、潮
が床下に押し寄せ、海の家は臨時の屋形船。

台風一過、浜は荒れ、海の家も破損。海水浴の盛りは過ぎてい
ましたので、軒並み閉鎖を決め、私にも解雇通告が友人経由で
届きました。精算は憶えていません。

大正十一年、伯父が九歳で亡くなったのも房総半島です。

祖父の一家も夏は房総半島で過ごしています。滞在は家族とお
手伝い。その中に祖父は含まれません。祖父は、お手伝い不在
の神田で働き続けていました。

宿舎は知り合いの漁師の家。契約は三ヶ月。滞在は二十日から
二十五日。その間、漁師の一家は狭い部屋で過ごし、滞在客は
一番よい部屋を使えたそうです。

自炊。煮炊きは七厘。晴れの日は屋外。雨の日は土間。主に昭
和一桁の後半に、六回は保田(ほた)。避暑中は館山の軍港も見
に行っています。内房への立ち入りは逸早く制限されたのでし
ょう。その後は江ノ島の漁師宅でひと夏。江ノ島は横山町の番
頭さんの実家。大磯のお米屋さんの離れが、祖父一家が一緒に
過ごす、最後の避暑になりました。



大原漁港(千葉県夷隅郡大原町)





椿公園(大原町)





 ※


当時の保田は江ノ島は勿論のこと、大磯とも比較にならない素
朴さで、料理屋の代わりに魚屋さんが料理も出前も承っていま
した。旅館や食堂や海の家など「観光客目当ての商売がない」
は「荒れない」に通じます。浜は静かで家並みは長閑(のどか)。

神田のご近所で、家族同然にお付き合いしていた鋼材問屋のお
嬢さまも避暑は保田でしたので、祖父の子らは遊び仲間にも不
自由しなかったです。鋼材問屋の奥さまは三十歳前に寡婦にな
られ、女手一つで会社を切り盛り。母親抜きで避暑に来ていた
お嬢さまは祖父の家族と一心同体。

夏の浜には、早稲田や慶応の学生さんが開く天幕のレストラン
がありました。出前はなったですが、ちゃんとしたお料理を頂
けました。天幕は、海の家ではなくお昼だけのレストランです。
学生さんも寝泊りは別のどこか。洗練されていたのですよ、学
生さんもお食事も。若い娘さんや幼いお嬢さまは、さぞや嬉し
かったでしょうね。

魚屋さんのお料理は、伊勢海老の鬼殻焼きが三十銭、アワビの
酒蒸しは江ノ島の半値。海に飽いたら、氷をなめなめ鋸山登山。
夜は駒下駄を鳴らして地方回りの芝居見物。

その四半世紀後、祖父の娘は三浦半島の海水浴に、寮生六十人
と通い二十人を連れて出かけています。この時は小屋の隅で終
日、型紙制作に追われていました。湯沢、野沢、蔵王、下田な
どの温泉地には同様の規模で一泊旅行。蔵王には店の男子寮の
社員も同行。一泊旅行は父と母が引率。工場も営業も統率のと
れた集団ですし、旅行社には気心の知れた係もいましたので、
父は日帰りや一泊の慰安旅行を億劫がらずに実施しました。


 ※


慰安旅行と家族旅行の別は、思い浮かぶ人の姿を頼りにしてい
ます。海水浴には手掛かりになる材料が少ないので、混乱の度
が深まりますが、親子がまとまって見えたら家族旅行、離れて
見えたら慰安旅行。慰安旅行では、子どもは従業員と一緒、父
と母は皆の手前、互いに離れた場所で眺めていました。

我が家の最初の海水浴は昭和二十四、五年の江ノ島でしょう。
日帰りの慰安旅行でした。波を恐れた私が、父に抱かれて遊ん
だ様子を聞かされています。記憶に鮮明な手掛かりもあります。
海水パンツです。

その頃の海水パンツはメリヤスだったのでしょうか。男も女も、
水に浸かると体の線が見えてしまったそうです。そこで母は、
父の海水パンツを編むことに決め、アメ横でも一軒しか扱って
いなかった英国製の手編み毛糸「ビーファイブ」を入手、編み
上げたのが縞々の海水パンツです。いつもは海に浮いている父
でしたが、波打ち際で行ったり来たりは見せびらかしに相違な
く、母もニコニコ眺めていた筈。

父は太っていましたので、沈む感じがしなかったです。従軍中
に食事の掻き込みを身につけ、結核時代に栄養の備蓄を本能化
させ、食べに食べてしまったのでしょう、糖尿病が判るまでは
顔も体もはちきれんばかり。膨らんだ浮き輪が、駿河湾仕込み
の抜き手で泳ぐのですから、波立つ海も形なしでした。

寡黙な父の口癖は「任せられる人間には、いくら支払ってもよ
い」「従業員は互いに競争させなければ駄目だ」「先ず資金繰
り」「在庫を持つな」程度でしたが、ある時、泳げなかった中
学生の私に、富士川を渡るコツを教えてくれました。曰く「川
幅の狭い場所を選び、はるか下流を到達点に、流されながら泳
ぐのだよ」


 ※


江ノ島の翌年か翌々年、一泊で出かけたのが伊東です。周期的
に土用波が押し寄せていました。怖気づき、波打ち際でウロウ
ロしていた私をひょいと抱き上げうねりの海へ。

家族には今も話していませんが、誰だか憶えています。伊東の
出来事から数年して、新婚のお住まいに招かれ、お食事を頂い
た記憶もあります。半世紀振りに会う機会がありましたが、と
ても懐かしげでした。

大波に飲まれた一瞬、抱っこの手がほどけ海中舞踊。波に揉ま
れる感触を記憶できたのですから、私にも余裕があったのです。
海水を飲みきれないほど飲んでみましたが、やはり飲みきれな
かったです。滅茶苦茶にモガイタのがよかったのでしょう。深
さは大人の胸まで。気づいたときは同じ人にしがみついて、涙
を流し、噎(む)せては咳き込み、咳き込んでは噎せていました。
浜への帰路はむしゃぶりついて、アワビ採りの磯ガネでも、剥
がすことは無理でした。

世の中には、上には上があるのですね。同じ日の同じ海の出来
事です。ヤッサンは小児麻痺の後遺症で、片足を引きずってい
ましたが泳ぎは達者。ずんぐりした番頭さんも泳ぎはスイスイ。
それにもう一人、量販店時代まで勤めてくれた若いT君がボー
トを借り、三人で漕ぎ出しました。浜から離れますと、波も収
まりますから、はじめはヤッサンがボートから飛び込み、次に
番頭さんが飛び込んだところ、あり得ないことが起こったので
す。なんと、T君も飛び込んだ!

驚いたでしょうね、ヤッサンも番頭さんも。必死に取って返し、
T君の背後から首を締め付け、ボートに引き上げるのが難しか
ったので、泳いで連れ帰ったそうです。

浜が騒がしかったのは気づいていましたが、私がこのことを知
ったのはずっと後です。滑稽というより、うら悲しい話で、皆
は話題にするのが憚られたのでしょう。T君は伊東の病院に入
院。父は容体を見届けてから夜中に帰り、T君は一週間後に戻
ってきました。




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