折々の文章


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クリスマスの季節 −132−
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今日は十八日です。もう下旬、もう十月、もう師走、もう二千
四年、もう二十二世紀。

ここのところ腑抜け状態。市川市の旧(ふる)い住宅街を歩いた
ときから。

引っ越しを余儀なくされ、父が母に告げ、実際に越すまでの時
間はわずか二日か三日。両親の商売は神田、兄は都内の中学、
小六から越境した私も都内の公立へ進学が決まっていましたの
で、家族は誰も後ろ髪を引かれなかった……のかな〜?

ご親戚が神田で電気工事のお仕事。そのご縁で、公立学校のお
仕事が長かったS先生(私の仲人)に市川時代、学校とは関係
なくお世話になり、神田に越してからも折に触れ市川に出かけ、
結婚後も近年も狭い通りを車で抜け、故郷の今も知っている筈
でしたが、歩くべきではなかったです。

引っ越していなくても、私は新卒時か結婚時には逃げ出してい
たでしょう。編集中記に書いた小五までの様々な孤独が、土地
に影響された面も否めないと、老(ふ)けた今、市街を歩いたこ
とで解ってしまった。

当時の通学路が私の美意識の基本です。それは朽ちた塀や欠け
た塀ゆえ、だったのですね〜。人々一般の気持ちは今と同じ。
恐らく島嶼の市街地はどこも同じ。お屋敷も民家も塀が仕切る
故郷を歩いて、風が胸を素通りしました。


 ※


矢切時代に借りたアパートは、押入も台所も手洗いも風呂場も
十八畳に収まった2Kの三所帯×三階でしたが、それでもマン
ションと呼ばれていました。

すでに当時も、その地の区画ほど広い分譲は絶えてしまった豊
かな一帯。借りたマンションの敷地もその一つ。

大家さん(老婦人)のお宅は、マンション最寄りのバス停から
二つ目の停留所。家賃は休日、ヨメサンではなく私が出かけて
払っていました。

大家さんの敷地は、マンションの区画とは比較にならないほど
広く、中年のご子息は大きな会社にお勤めでした。資産家です。
納税など現金の支払いを、家賃で補っていたのかも?


 矢切時代


市川時代の小学校周辺はお屋敷街として知られていました。過
日は豪華さに目を見張りましたが、当時はお屋敷の一戸一戸が
通学に幸いしたその訳は、お屋敷の見た目の質素さと、風土が
滲み出た敷地の開放性にあったのです。

矢切時代から三十年経ちました。今は広い区画に立派な家屋が
並び、散在するアパートを借りる勇気が湧きません。

市川時代から五十年経ちました。今は豪邸と同じ地平で、マン
ションに住む気力もありません。

ヒトの気持ちを別にしますと、歩いて通った昭和二十年代は、
住まいの排他性が、今ほど強くはなかったです。


 ※


水戸街道の大利根橋から、あるいは有料の新大利根橋から、利
根川の河川敷に入り、信号のない農道を北上、常磐道の利根川
橋をくぐり、利根川と鬼怒川の合流手前、利根運河の水門脇か
ら一般道に戻り野田に出ることが年に数度。夜は暗いです。河
川敷ではなく氾濫原かも。大きな台風時は田圃も冠水して通れ
なくなります。

先ほどメシ屋さんで丼(どんぶり)定食を食べました。どの卓に
も「携帯電話のご利用は、外でお願いします」 隣りの卓で、
三十歳代前半の会社員がお食事しながら長電話。ご商談相手は
お一人の様子。無線の調子が悪く二度中断。

二十年前は我が家から先ず埼玉県南の事業所へ、次いで千代田
区の事務所、さらに武蔵野のお店へと三通りの仕事を兼務、そ
の移動に車を運転、ところが一般道では時間が足りません。一
時二時の首都高に注目、高井戸の入口からお月さま目がけて思
いっきり加速。

深夜に車を飛ばす帰宅同様、食事中の商談電話も、事務所に寝
袋を持ち込む就労もどこかオカシイ。主体的に引っ越したのだ
と思っていました。しかし、写真を並べてみますと逃避の跡が
くっきり。

常磐道利根川橋の近くで新線の橋が輝いています。我が家から
筑波へ向かう途中は新線の高架とあざなえる縄、逃げても逃げ
ても逃げきれません。




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