折々の文章


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クリスマスの季節 −13−
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今朝は思いがけない相手に遇いました。一年ほど姿が見えず、
心配していたのです。新線敷設のため、農地も林も消えていく
中、いつもの奇声を上げ、前方の電柱から私を凝視、食あたり
を恐れたのでしょう、あきらめて、バサバサ飛び去って行きま
した。「ホー、ホー」と鳴く声を聞いた記憶がありません。暗
闇を走る人は少ないですから、当地では、フクロウの、棲息さ
え知らない人がほとんどでしょう。

出がけに帳面から写真が零(こぼ)れました。写真の裏には「昭
和三十年九月。於、市川三中校庭。同好会。」とあります。父
が仕入先と組んだ草野球の同好会です。面々は、小伝馬町や堀
留の綿織物の専門商社。

後列の○番目は、父が特に親しかった仕入先です。ご自分の会
社でもチームを作り、父の草野球チームと交流試合を重ねてい
ました。

テレビが、野球というスポーツを広めたのではないのですよ。
トンボを切っても、歌舞伎がスポーツにならないのと同じです。
観客席には、オリンピック興行と歌舞伎興行の、どこに違いが
あるのでしょう。スポーツ漫画は、スポーツですか漫画ですか。

最も強力な媒体が寡占だからなのでしょう、人もお金も行政も、
寡占媒体が扱う行事に夢中になっていますが、さて、豊かにな
った今の子が、青空の下、野球に熱中できるかと言いますと、
現代は、子の誰もが屋外で楽しめるスポーツは、場所も、習慣
も、条件も、掻き消えてしまいました。

仕入先や、住込み従業員とチームを作った往時に倣(なら)って、
今の子が野球やサッカーやラグビーを、自転車に乗るようにチ
ームを組み、テレビを見るように交流試合を重ねるなんて夢の
また夢。

寡占媒体で流される運動種目は、スポーツを種にした舞台の出
し物なんです。画面の選手は、興行の役者さんです。オリンピ
ックの観戦は、お笑い番組や歌謡番組の視聴と同じなんです。
自分で実際に演じたときに、はじめてスポーツになれるのです
が、はて、そんな場所があるのだろうか。

同好会の皆さんも、総合商社や流通革命に押され疎遠になり、
父が親しかったお一人も、川下へ手を染め遠ざかり、住込み従
業員も、テレビに魅せられ、店から草野球が消えました。

当時は月に一回集まるのがやっとでしたが、その貴重なお休み
の午後、皆さんは電車や車で我が家に来られ、空き地や道路で
キャッチ・ボール。広場を借りて交流試合。特に親しいお一人
は、お二人は、いえ、お三人は、夕食後も我が家に残り、夜更
けまで麻雀の交流試合。


 


手作りの絹の名刺入れに祖父の名刺が残っていました。「仕立
物卸商」とありますので廃業前でしょう。住所欄には

店舗 東京市神田區○○町○番地   電話浪花二九八八
居宅 東京市大森區大森三丁目○番地 電話大森五〇六六

名刺入れの脇には朽ちかけた文集も。ガリ版刷りです。奥書に
は小学校の名前と昭和二十九年三月。小三の学期末。

・・・赤いチューリップの花びらをみては、あるいは朝、すず
めの声を聞いては、次々と詩らしいものを作り始めて二年三年、
近頃は宿題の作文も苦にならぬらしい。・・・・・・。ようや
く春の彼岸を迎えようとする庭の片すみに、たおやかな雪柳の
白い花が目立ってきました。そのそばに、さっきからしゃがん
だ子が何やらひとりごと、私がガラス戸を開けたのも気づかぬ
様子、何を考えて居るのかしら。こんなおりおりに出来た詩や、
実生活から着想したいかにも自然な作文の数々・・・

老いの繰り言だろうか。濡れそぼつ梟の逃避だろうか。我が道
なんて本当にあるのだろうかと、自らも疑っていました。

老いは本当です。濡れそぼつも本当。作文の成績は芳しくなか
った(とも書かれています)。でも、これからは何を言われて
もアッケラカンとしています。今日は二千二年三月二十日。





ユキヤナギ(武蔵丘陵森林公園)


 ※


少し前に触れた大晦日の、酒宴の写真は私が撮りました。狭か
ったです、神田の店は。面識のない人が祖父の名刺を見れば、
祖父一家が大森に住んでいたと思うでしょう。しかし、祖父が
大森に泊まったのは月に二、三日。書庫で読書が目的。普段お
付き合いしている人は、祖父一家の実際の住まいが判っていま
したので、名刺に居宅の住所を刷ったのは見栄、あるいは牽制。

何人かの他人の目を、意識させられていたのです、祖父は生い
立ちゆえに。母の女学校時代も、山の手と下町の敷居が天真爛
漫を妨げ、私には背筋がムズムズするような話法で武装。富裕
で知られた九段の女学校に通った縁者も、その敷居ゆえに差別
された経験も。

祖父が大森から通えなかった理由は、商売に縛られていたから
です。現場で寝起きする方が安心できます。ただ、それですと
憩いの空間を確保できない。勢い、出かける頻度が高まります。
祖父の楽しみも、商売仲間と出かける日本各地の徳利集め。

風光明媚な土地でふつうの民家に住まえば、落ち着きも安らぎ
も得られるでしょう。問屋街の商家住まいとは落差が大きい。
得意先招待旅行、従業員慰安旅行、仕入先との親睦旅行、紡績
の招待旅行、家族旅行などなど旅行の写真はどっさりでしたが、
草花が咲き、澄んだ小川に恵まれ、梨づくり農家の末子として、
富士の裾野を眺めながら育った父には、神田の商家はあまりに
も狭かった・・・

父の兄弟の、本当の末子は生後すぐに亡くなっています。長姉
が母親代わりでしたが、それは単に歳の差。父の両親は昭和三
十年代半ばまで健在。母親は八十四歳、二歳年上の父親は八十
八歳の長寿をまっとう。母親の葬儀では、父と母は東海道線の
車内で食事を済ませ参列、すすめられるご馳走の山を断わるに
断われず。

父の父親の死は突然でした。早朝、電話で知らされましたが、
父も母も仕事の都合がつかず、お墓に花を手(た)向けたのは一
週間後。

祖父が亡くなるまで、父は我々家族を伴い何度か実家を訪ねて
います。故郷って、いいですね。


 ※


故郷の写真には父から見て、自分の父親(私の祖父)と、三人
の姪と、歳の離れた従姉(いとこ)のAさんが写っています。

父の父親(私の祖父)の本家は代官の家系です。昭和十六年に、
母が結婚の承諾を得るため、祖父の家で訪問着に着替え、徒歩
で本家を訪れた際、床の間の掛け軸に、十五代全員の肖像画が
あったそうです。楼門の手前には小作人が跪(ひざまず)く石も。
小作人は石より奥には入れなかった。

過去に記した文章に、私のまちがいがありました。本家では長
男が幼い娘を遺して病死。当時は次男(祖父)が長男のお嫁さ
んと結婚して本家を相続する習いでしたが、祖父が遺児を哀れ
み(財産が伝わらない)相続を辞退、寡婦と遺児の後見役に留
まり分家したのが、確かと思われる経緯(いきさつ)です。一方、
父も祖父の財産の相続を一切放棄。

祖父は二十歳になったとき単身上京、半年間、昌平橋(神田川)
の英語塾で英語(今の英会話?)を学んだそうです。指折り数
えますと、明治二十七年になりますが本当だろうか? 池坊の
師範は本当です。結婚式前、大森に招かれた祖父が、古流の師
範の(看板だけ?)母の生けた芍薬(しゃくやく)を誉めてくれ
たそうです。しかし寡黙な父が、父親の「池坊」を告げたのは
結婚してから。

Aさんは「トッカエ結婚」の両親から生まれた父の従姉。

父の母親の父親は江商(ごうしょう/近江商人)でした。父の
母親は母の祖母同様お駕籠でお興(こし)入れ。大変なことだっ
たのです、女の人が遠方からお駕籠で輿入れするのは。

姑(しゅうとめ)が「おじいさん、あれ、やってくださいな」と
言いますと、舅(しゅうと)は「よーごす」と応じて命じられた
仕事をやったそうです(母の目撃談)。

私の祖母(父の母親)の弟へ、私の祖父(父の父親)の妹が嫁
ぎトッカエ結婚成立。その近江側の娘がAさんです。ご両親は
疲弊。Aさんは祖父と祖母(私の父の両親)に育てられ、祖父
には娘同然でした。

Aさんは神田のメリヤス問屋Bさんに嫁ぎました。Bさんは関
東地方の小作人の生まれです。メリヤス問屋に丁稚奉公。問屋
の一人娘が十八歳で結核死。見込まれ養子に。Aさんとご結婚。

ご夫婦は両親の仲人です。私もお使いで何度かBさんのお店へ。
Aさんご夫婦は市川市に居住。Bさんは区会議員。Bさんの問
屋は本社ビルのほかに貸しビルも経営。ご繁盛。晩年まで私の
両親と親交。

Aさんの縁者には警察署長も。そうなんです、署長が二人も出
てきますので母の記憶が混乱。筆者の私も天手古舞。MLで連
載した「随想 繊維問屋にて」のヤッサンもAさんの縁者で江
商の末裔。遣り手だったヤッサンを父は限りなく信頼しました。
早世されました。

今はなにもないのですよ、祖父の家もBさんのご商売も。でも、
ちゃんと残っています、ありがたかった、優しかった、嬉しか
った、誠実だった、などなど温もりの数々が。


 ※


妻の縁者は判っています。学習した結果です。義理の従兄弟や
姪も識別できます。

母方の私の従弟は、一人は幼い頃に冠婚葬祭で同席、もう一人
は数ヶ月前、はじめてその存在を知りました。叔母と、叔父と
その奥さまは、私とは住んでいる世界が違います。

父方の私の従兄で、私が知っていたのは一人だけです。紙業が
ご商売で、長年、父が紙製品を買っていました。父の葬儀の折、
従兄数人を知り、父の葬儀後、他の従姉兄の存在も知りました。

今は誰もいないのですよ、父の世界には。父の甥や姪は(私の
従兄姉は)父の世界には入れません。

今朝の出掛けに妻から、我々の結婚式にAさんも列席、式後、
Aさんご夫婦を訪れた際、Aさんの顔が父にそっくりだったと
告げられ愕然としました。父の大切な人の印象が、私の記憶か
ら抜け落ちていたのです。

 1/4  下総の農家の末裔と埼玉の農家
 1/4  浅草の士族と京都在の美濃の武家の末裔
 1/4  富士の農家(近江の商家とトッカエ結婚)
 1/4  近江の商家

ヘンな図式ですって? まあ、堅いことは言わないで。

菅野に愛着を抱いていました。父が死んでからは「神田の生ま
れよ」なんて気分でした。しかし今は、琵琶湖で産湯を使い、
富士の裾野を駆け巡る気分。寡黙からでも、大切なものは学べ
るのですね。父は折に触れ「江商」の言葉を口にしました。商
学を履修して、商人になって欲しいと解釈しました。しかし、
近江は父の母親の出身地! 江商は父のもう一つの故郷! だ
ったのですね。


 ※


府立第一高女の筆記試験に受かった段階で、父親から「気が済
んだね」と言われ、母は面接試験に進めなかったそうです。旧
制中学から勧められた進学も、何番目かの兄から「自分が大学
に行けなかったのだから」と反対され、父は進学を断念させら
れています。

母の父親が神田に店を開いた頃は、地域はまだ発展途上で、地
場の有力な問屋は一社だけでした。その問屋の番頭さんが独立
して同所に出店、より大きな成功をおさめた頃から、界隈でも
学歴志向が高まり、機会に恵まれ、有力校への進学を果たした
男女は、周囲から高く評価されたそうです。府立への進学を断
念させられた母は、無論、父も、後々まで悔しさを引き摺って
いたのでしょう。

当時の神田では、裕福な商家の娘は、山の手のピアノとは異な
り長唄を習わされています。長唄は三味線の習熟がとても困難
で、普通の娘は十歳には練習をやめてしまい(お師匠さんが相
手にしなくなり)十歳を過ぎても三味線を続ける娘には、本職
になれるだけの素質と熱心さが必要でした。しかし三歳から習
い始め、撥(ばち)で小突かれる半玉と並んで稽古を続けた(あ
るいはお師匠さんが手放さなかった)母に、やはり祖父は、お
師匠さんから勧められた「名取り」を許しませんでした。




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