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折々の文章 |
──────────────────────────── クリスマスの季節 −14− ──────────────────────────── お見合いは三度でした。「嫁に行かなくなる」「役者と駆け落 ちする」例を実際に見知っていましたが、祖父が府立進学も名 取りも認めなかったのは、跡継ぎにこだわったからです。 継嗣(けいし)の考え方、当時としては進取でしたでしょう。え っ? 現代も「旧弊」のままですって。そうかもしれませんね、 政(まつりごと)も商いも。 京都の素封家に招かれ、父親を除く家族全員がモンペ姿で、吉 野へ松茸狩りに出かけています。お見合い後に応召、ほどなく 戦死。 業種は違いましたが、神田界隈の有力問屋のご子息ともお見合 い。復員していましたがマラリアが再発。お二人とも名門大学 のご卒業でした。 遠縁で、祖父の店から独立したYさんがBさん方に出入りして いた、そのご縁で、Aさんの従弟で、中国での戦争に従軍、上 等兵で除隊、銀座の軍需会社に勤めていた父に白羽の矢が立ち ました。下調べに出かけたお使いが、間違って本家を訪ねてし まい、歓待された話が残っています。 父は旧制中学を卒業後、「資格がない」を理由に雇ってもらえ ず、暫く兄の陶磁器問屋を手伝っています。三重の珠算塾で合 宿、「横綱」に。 昔話にはもう一軒、陶磁器の問屋が出てきます。長姉の嫁ぎ先 です。同業の問屋さんが重なっているのも筆者を混乱させます。 でも、次第に鮮明になってきましたよ、父と母が。 割れ鍋に綴じ蓋であろうとなかろうと、長く続いている夫婦は、 どうしても「一組」に見えてしまいます。しかし、どんなに鴛 鴦(おしどり)状態を深めましても、夫婦関係では拭えきれない 「昔の自我」も息づいているのですね。夫婦が知り合う前から 一心同体、なんてことはありません。無論、その時点では子も 生まれていません。妻も子も知らない某の自我。夫も子も知ら ない某の自我。 当時、取引先の総合商社や紡績が、江商出身に限られていたの は偶然でしょう。しかし父が、それぞれの出自を意識しなかっ たなんてあり得ません。私とは発想の原点が違っていました。 両親は母の父親の店を継ぎました。しかし、二人が再興した問 屋は戦前とは別物です。同様に、店に向ける二人の想いも、表 面は割れ鍋に綴じ蓋でしたが、深層は別物だったと思います。 祖父は、父には起業の最初から、母にも衿の型紙を見てからは、 指導も忠言も一切の口出しを止(や)めました。俺はどうだった ろう? 上の子が就職活動を始めた際、私は自分の勤務先や職 種を教える必要がありましたよ。我が道の選択は、できるだけ 自由でありたいですね。 ※ また、間違えました。長唄のお師匠さん(佐次郎さん)が芸者 に教えたのは月に一回、ご出身の神戸に戻った折、ある検番に 限っていました。松竹を脱退した家元(佐吉さん)は、長唄単 独の表現を求めていたのですから、一番弟子の佐次郎さんがお 稽古ごとに向き合う余裕はなく、素人のお弟子はとらなかった と聞いて、無知な筆者は、十歳前後なら半玉と思い込んでいた のですが、撥で小突いたのはお師匠さんの関係者で、芸者さん にも教えていた女性の本職。「舞台写真」に載せた演奏してい る子らは、佐次郎さんのご子息と母を除き、佐次郎さんのお弟 子(本職)が抱えていたお弟子さん達。 お師匠さんが東京で──当初は神田で、その後は新宿で──教 えたのは本職と、本職を志すいずれも「男性」のお弟子だけで す。母は例外でした。当時の家元は、某大臣のご令嬢から是非 にと頼まれましても、素人には名取りを許さず、母に「名取り を」とお師匠さんから持ちかけられたのは異例。当然、「本職 に」が前提でした。当時の都新聞には「トミコノ声ヨシ」など とコのついた評が載ったことも。 ほかにも補足や訂正があります。二件のお見合いでは母は知ら されないまま着席。縁談は他に六件。いずれも祖父が「店を継 がせる」を理由に断わっています。父のお見合い時は、父の勤 め先が「鉄鋼会社」は誤りで、「和紙の統制会社」が正解でし た。人形町の浪花局ビルの、隣りの三階建て営業所。本社は静 岡県。父の職種は珠算と演算の教授。紙の供給が途切れて会社 は閉鎖。次いで静岡県の鉄鋼会社の東京営業所に勤務。銀座の 松坂屋裏手の事務所。所員は1名、つまり父だけ。室町の、銀 行本店二階の海軍省(出先機関)が営業先。東京大空襲で父の 事務所も焼失。 父の兄弟姉妹が確定しました。姉三人、兄三人、生まれてすぐ に亡くなった弟の計七人、父を含めますと八人でした。オオミ ヤのネエサンが混乱の原因です。埼玉県にも父の姉が住んでい ると思い込み、久しく話が噛み合いませんでした。オオミヤと は富士宮、だったのですね〜。 ※ 神田の商家では、後継ぎがない場合、養子をとるのが普通だっ たそうです。ご自身ご養子だったBさんにもお子がなく、Bさ んご夫婦は養子をとっています。現代の商家も同じでしょうか。 女の子だけの場合は婿養子。しかし、母がお見合いした時、や がて大学を卒業する小学生の弟がありながら、次女(長女は死 亡)に婿養子をとる例は、先ずなかったと思います。詳しく触 れる触れないは別としまして、背景は私なりに理解できていま す。根は、大正時代の医学の水準。 関東大震災の前年、九歳で亡くなった母の兄「ナオちゃん」の 病気が治っていれば、私は存在しませんでしたし、トミは佐次 郎さんの右腕になったかも。 子は鎹(かすがい)になり得ます。反対に、二物を与えられた九 歳の後継ぎが亡くなれば、夫婦に生まれた傷口は、容易には癒 やされません。 風呂敷包みより軽かったそうです、母が認識していた婿養子の 立場は。娘の意向に関係なく主人の気持ち次第で、離縁されて しまったそうです。妊娠中の母は長男を連れ富士に疎開、祖父 一家は菅野に疎開、父は真間から通勤していた戦争末期、祖父 は祖母と父を呼び出し、婿への財産(戦後は紙屑同然)の譲渡 を保証する証文を手渡しています。父への信頼が増した祖父が、 養子の不安を除く配慮。しかし戦後、祖父が亡くなった直後に 祖母は父を呼び出し「こんな証文は意味がないから破ってしま おう。ヤッチャンもそうしておくれ。」 訴訟の地均(なら)し。 齟齬は両親の結婚直後から生じています。兄姉の多かった父の 縁者が入れ代わり立ち代わり新居に訪れ、母に「オトミ! ア レナサイ! オトミ! コレナサイ!」とやったんだそうです。 東京の下町では考えられない親戚付き合いに、祖母が本気で怒 ってしまった。 伏線がありました。高田馬場の下宿に住まい、大学に通ってい た父の甥が新婚宅に一ヶ月寝泊り、飲み食いを続けたのです。 祖母の手前、父は針の筵(むしろ)? 茨の道? さあ、どうな んでしょう。何しろ寡黙でしたから、確かなことは永久にわか りません。憶測はやめましょう。証文は破棄されましたが、写 真が残っているのですから。 ※ オオミヤとは違い、山谷には混乱はなかったです。私は大森の 祖父の居宅を近年まで知らず、大森のサンヤの地名(私鉄の駅 名?)には無関心でしたから。 山谷の呼び名が浅草界隈から消えています。京都からお駕籠で 輿入れした母の母方の祖母の、晩年の隠居所は見越しの松の並 ぶ山谷でした。山谷には山谷の歴史がある筈です。歴史とは、 先端技術で構築した博物館や、栄光を称える記念碑を指す言葉、 だけではないのですね。 N軍需工場に五十キロ(?)爆弾が落ちても、大森山谷の祖父の 住まいは泰然自若、微動だにしませんでした。 二度目の大空襲で職場を失い疎開する際、父は真間の家を二足 三文で売却させられています。しかし大森の居宅は、近隣に促 されたと書いたのは誤りで、建物を取り壊し、土地の売却を命 じたのはお役所でした。祖父の居宅一帯は軍需工場の防空上、 障りになったのでしょう。伝統建築を愛した祖父は、建物を解 体して移転を試みましたが、輸送手段が馬力だけではとても無 理で、お豆腐屋さんで絞り粕をわけてもらい、お手伝いが三人 がかりで磨き上げた柱も廃材に。 先週のお休みに川越を見てきました。着いたのが早すぎて困っ たのが駐車場。 駐車場近くの路肩に停めましたところ、駐車場の管理棟を掃き 始めた人を発見、他の駐車場の所在を尋ねてみました。聞いて よかったです。料金を支払い隅に駐車。係は準備のお仕事を継 続。振り向くと、先ほど開いた門扉が閉まっていました。 徒歩で観光。喜多院の構内を出る際、目についた瓦屋根の塀と 門が、大森の家を彷彿とさせたそうです。 祖父の築いた財産は、自伝で大凡(おおよそ)の見当がついてい ます。その財産は敗戦直後、預けていた銀行の、系列財閥の解 体で、他行より引出しを制限され、時間差で紙屑同然になった のも記述済みですが、改めて不動産投資に無頓着だった祖父に 驚いています。 神田の店も大正時代からの借地でした。祖父の財貨に接する態 度を、税務署も信じなかったのでしょう、廃業させた上に(戦 時、中小の商工業者に廃業を強いた経緯も、今のヒトには関心 がないのでしょうね)床下まで調べるのがお役所のお仕事。 現在、寡占媒体を賑わしている「時の人々」は、ご商売がお上 手ですね。泡期の不動産投資も、考え方の底から祖父とは無縁 でした。商いは賭け事ではないのですよ。暴騰と暴落は紙一重。 誰も彼もが投機に走れば、誰がモノを作り、誰がモノを商うの でしょう。 泡期の真っ盛りに、極めて強力な金融機関に従事、最も高度な 履歴を有する一人が漏らした言葉、不動産投資に「踏み出せば 財を築ける、踏み出さない者は馬鹿を見る」世の中の仕組みは、 今も変わりないのではありますまいか、考え方の底の底では。 コツコツ生産や販売に従事して手に入れたお金も、吸い上げら れてしまえば、投機にまわされても、舞台に投資されても、城 郭に替えられても、預けたヒトや納めたヒトには制御不能、運 用するヒトや支出するヒトにはそれがお仕事、つまり所得にな ってしまうのですから何かヘン。泡期の歴史は、ヒトの考え方 の底まで立ち入って、百年後の教科書でも記述して欲しい。 「贅沢は敵だ」には、それまで贅沢できなかった奢侈産業従事 者も相当に困ったそうです。父と母の新婚生活も坂を転げるよ うに悪化、病院での出産予約を取り消し疎開してから、母は東 京で勤務していた父とも、菅野に疎開していた祖父一家とも往 き来を絶たれ極限へ。敗戦後は、両親は自分の家族のほかに、 祖父の家族も、面倒を見なければなりませんでした。 ※ 大森の家には祖父の母親も住んでいます。祖父の成功後、曾祖 母は祖父の弟を手伝いましたが、晩年は大森で、お手伝い三人 に傅(かしず)かれ寝起き。傅かれたかどうかは疑問です。男を 連れ込んだお手伝いもいましたので。 行事の折々、晴れ着姿の孫娘を見て、曾祖母は涙がとまらなか ったそうです。 先週末、新しい団地を横切った際、広い公園が目について臨時 停車、芝生で休憩中、転(こ)けた幼児が泣きやまなかった。 土手に桜、畑に菜の花、太陽燦々、微風爽快でしたので、幼児 の泣き声まで和(なご)やかに聞こえました。 母は幼児を見かけますと、声をかけてしまいます。買い物で出 会ったお年寄りとも、境内を掃いている奥さんとも、子連れの 母親とも話し込んでしまいます。泣いていた幼児も「歩くのが お上手ですね」と声をかけられ一瞬茫然、傍らの母親に笑顔を 認め警戒解除、泣くのを忘れ、母の話し掛けに応じていました。 可愛さのあまりでしょう、曾祖母の晩年も同じです。 祖父は廃業に追い込まれています。父も転職させられています。 しかし父の新婚は幸せそのもの。大森ではガスの配給が少なく、 風呂が使えず銭湯を利用。風呂場の隣り部屋で湯を沸かし、銅 製(?)の管でお湯を送り込んだ、その燃料がガスでした。買い 物は大森駅の白木屋(?)デパート。 長男の出産前は、母は大森から人形町へ父を迎えに出かけたこ とも。夕食は洋食屋さん。すき焼きを食べたと思ったのは間違 いです。すき焼きと鳥鍋(祖父の好物)は、神田の店で調理で きる最高のご馳走でしたので、洋食屋さんでは食べなかった。 ※ 前回に父の履歴書を撮り込んだ際は、なぜ履歴書が書かれたの か判りませんでした。今は明らかです。和紙の統制会社から鉄 鋼会社に転職するための下書きでした。昭和十八年付。月日は 未記入。 履歴書 本籍地 静岡懸富士郡富士町上横割○○番地 現住所 千葉懸市川市大字真間○○番地 戸主 本人 学歴 一、大正12年04月 富士郡富士町富士尋常高等小学校入学 昭和04年03月 同校尋常科卒業 一、昭和04年04月 静岡懸立富士中学校入学 昭和09年03月 同校卒業 一、昭和09年04月 三重懸三重郡四郷村私立共興学校入学 昭和10年07月 同校珠算師範科卒業 職歴 一、昭和11年03月23日 富士瓦斯紡績株式会社 富士工場調査科入社 昭和16年11月26日 同工傭員一等ヲ命セラル 昭和17年01月06日 同会社退社 一、昭和17年01月09日 日本和紙統制株式会社入社 同月同日附社員経理課ヲ命セラル 及現在 兵役 一、第一補充兵役陸軍上等兵 一、昭和14年05月08日 教育召集ノ為中部第十三部隊ニ入隊 同年06月07日 臨時召集ニ命セラル 昭和14年11月20日 陸軍一等兵 同15年09月15日 陸軍上等兵各々命セラル 昭和16年05月16日 召集解除 賞罰 一、賞 支那事変ニ於ケル功ニ依リ勲八等白色桐葉章ヲ授ケラル 右之通リ相違無之候也 履歴書は大森から真間に越してから書かれたものです。召集は 昭和十四年から十六年まで。昭和十一年に入社・十七年に退社 した富士瓦斯紡績株式会社に在籍中の出来事です。 馬上の父の写真、いいでしょう? しかし、馬の世話は古兵に 鉄拳の口実を与えます。耳から顎にかけての傷跡は、父が死ぬ まで消えませんでした。馬上は狙撃の標的。輜重(しちょう)は 襲撃の目標。自然、兵站(へいたん)業務は夜間へ。歩きながら 眠ってしまい、隊列に遅れることは死を意味します。闇の行軍 中に、重機を牽引中の馬がクリークに落ちた事故で、父は総入 れ歯に。 父の戦前の顔は戦後と違っていますが、大勢の中から探すのは 比較的簡単。厚い唇を探せばよいのですから。 |