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折々の文章 |
──────────────────────────── クリスマスの季節 −16− ──────────────────────────── 神田の祖父の店にも徴用の調査が入っています。既婚女性は徴 用の対象外でした。黒ずんでいますが、今でも古流と江戸千家 の看板が残っています。師範免状があれば徴用は免れたそうで す。なぜお茶やお花が戦時に役立ったかは、今一つわかりませ んが。 母には和裁の免状(表札大の木の札)もあります。当時の和裁 はキモノだけでなく衣服づくりそのもので、和裁が銃後で役立 ったのはよくわかります。和裁の「免状」は申し分なく徴用の 対象外。 閉鎖されるまで祖父の店では、橋場の自家工場(回転軸に繋が れた動力ミシン数十台)と、職方多数と、和裁の看板を掲げて いた街の仕立屋さんとで、卸す商品を縫製していました。橋場 の工場と動力ミシンは、私も戦後に見ています。 室町の百貨店の和裁部(同店の着物を、自前で仕立てる縫製部 隊?)の主任Sさんは、歳を理由に退職を認めてもらい、仲御 徒町で開業、地方出身の娘さん十五人ほどを住み込ませ、芸能 界や花柳界の着物を仕立てていました。Sさんには祖父も仕立 てを頼んでいた関係で、女学校二年次と卒業後の一年間、母は 和裁を習い、Sさんから和裁師範を許されています。 当時の市街では、着物を縫う仕立屋さんが、近所の娘さんにも 和裁を教えていますが、街の仕立屋さんには、免状を発行する 資格はなかったそうです。格式ある染物屋さんが抱えていた和 裁職人は伝統工芸の技術者で、街の和裁教室とは無縁。 Sさんの仕事場のお昼は、ご飯と、煮付けた鰯一匹と、僅かな 青菜とお新香程度。和裁は胸を圧迫する長時間労働でしたので、 住み込みの娘さんは痩せ細り、結核がはびこる職場でした。 母の女学校でも一、二年は週一(?)回、三〜五年は週二(?)回、 和裁の正課があり、卒業年次は教室毎に和裁の点数を競ったそ うです。縫い込んでいた母は和裁の先生に指示され、和裁の先 生が受け持つ教室を手伝ったところ、点数がその教室に加算さ れ、釈然としない思いを経験しています。 卒業年次は和裁だけでなく、学年一番(答辞を読む人)も自分 の教室から出そうと、担任の先生同士も競っていたのです。算 盤が出来た母は担任の先生から、クラス全員の成績計算を頼ま れています。その折、和裁の点数が持ち去られた経緯も聞かさ れています。 五年次の白のネルの傷病服はなかなか仕上がらず、一学期でお 終いでした。肩章づくりは(フェルトに階級章を縫い込む作業 は)女学校のミシンが遅く、こちらも和裁の先生に指示され、 神田に持ち帰り、母は足踏みの工業ミシンで三日に一度、風呂 敷一包みを仕上げ女学校に持ち帰り、教室全員でアイロンをか け陸軍へ納品、それを一年続けた結果、陸軍から女学校に感謝 状が届いています。 ※ 両親の長子の出産は築地のS病院です。神田の祖父母一家は駿 河台のK病院にお世話になっていましたが、佐次郎さんに紹介 されてからは、行きつけをS病院に換えています。佐吉さんの 後援者には政財界の有力者もあり、その方々が利用していた関 係で、佐次郎さんもS病院に親しみを抱いていました。 妊娠の診断時に出産を予約。父は予定日の十日前に母をS病院 へ。診察後即入院、ではありません。出産は病気ではないので、 母はS病院前の附属ホテルに宿泊。その間、鉄鋼の仕事で忙し かった父は見舞っていません。ホテルのロビーはお医者さまの 休憩所でしたので、暇をもてあました母を、集まっていた若い お医者さまがお喋りで楽しませてくれました。 出産前夜の七時に入院。翌朝七時に出産。赤ん坊に識別標の腕 輪をつけ、退院するまで母子別々。育児教育は至れり尽くせり。 日曜のおやつのアイスクリームは、食べたさのあまり再入院を 考えたほど。 病室は数人分相当の徒(だだ)っ広い個室。最高の贅沢は室内に 備え付けの腰掛け式水洗便所。広い通路には人影がなく、看護 婦さんは頻繁に訪れてくれましたが、夜には心細さも。 出産後に毎日、母の個室前の、ベッドも入る大型のエレベータ ーが、重々しい音を響かせて停まるのがきっかり三時。心待ち にしていた父の姿が、十秒の誤差もなく現われました。父の、 赤ん坊の抱き方は初孫の時に見ています。両腕を前に突き出し、 赤ん坊を受け取ると坐ったまま動かなかった。 祖母も一日置きに見舞っています。届けてくれた苺が忘れられ ない味。戦後に訴訟を起こし、両親と絶縁した祖母は亡くなる 際(きわ)に、うわ言で初孫の名前を口にしています。 二週間後に退院。タクシーで神田の店の祖父母の居室へ。祖父 は赤ん坊のまわりをウロウロソワソワ。Aさんも鯛のお刺身と お寿司持参で歓迎。夕刻、防空壕のある真間の住まいへ。 最初(?)の空襲の報に接して緊迫、予定日の二ヶ月前にS病院 の予約を取り消し、ちゃんちゃんこを羽織った長子を祖母がお んぶ、三人で疎開先へ向かう沼津の車中で空襲警報、列車から 退避。 疎開中の敗戦直前、火達磨になって落ちて行く米機を目撃。し かし、母が東京大空襲の惨禍を知ったのは戦後に祖父から。銀 座の勤め先ビルと、神田の店の焼失を見届けた父は言葉少な。 ※ 私は終戦という言葉が出てきません。母は敗戦という言葉に首 を傾(かし)げます。 父が最初に探した疎開先は、実家近くの空き家でしたが、大所 帯で育った母には自活できる能力がなく、疎開した母を訪れた 父はその場で「これはまずい」と判断、帰り際、郷里の両親に 頼んで、出産前後の暫くを、実家に寝泊りさせてもらいました。 母は今も、家事万端の合理性に秀でた師範として、姑に深い感 謝と敬意を払っています。ところが、姑に対する義姉一般の評 判は、五段階評価で2、あるいは1。 終戦と同時に暮らしが楽(らく)になったのではなく、終戦直後 は窮乏の度合いが深まったそうです。 ※ 「祖父の肖像」を当サイトに載せた際、ある学者から「『商人 の自伝』というジャンルはアメリカではけっこうあったようで すが、日本でもそういう試みがあったのですねえ」と教えられ、 嗚呼!と思ったことがあります。 知識の貧しい私は、自伝とは単一ジャンルで、卓越した指導者 や、社会的に名を成した英傑の表現と信じていました。 自分史ですか。私のサイトを「自分史」としてご紹介願える場 合、「執筆者本人の自分史はどこどこにあります」と注記が必 要なほど、私は自分を分散させています。 インターネット以前の私の随想は、足許を見据えた考察ですの で、読み物としてのエッセイにはほど遠いです。MLで連載し た「繊維問屋にて」「中町にて」は自分史相当でしょう。しか し、あの二点を読んで私の輪郭がわかる人は、とても想像力に 長けています。 「橡の木の葉」の版元を探していた際、ノンフィクションの出 版社の編集部長から「………『影の主人公』はこの語り手自身 だということがわかります。私がこの原稿に惹かれたのもそこ です。こんなことを言うと面食らわれるかもしれませんが、島 田さんにある『私小説』作家としての資質を………………。も うちょい全面に島田さんの生い立ちの記などなどがあってもよ いかなあと。………」というお便りをいただきました。 当サイトを宣伝する際は使いますが、自分史という言葉は苦手 です。 ジャンルなのです、私が嗚呼!と思ったのは。皆さんは、「商 人が執筆した『自分史のジャンル』ですね」との違いをどう解 釈しますか。 違いは流れにあります。「『商人の自伝』というジャンル」を 目にした瞬間、米国の、開拓当初から現在までの商人の歩みが 浮かんできました。豪州の商人も、中国の商人も、欧州の商人 も、中東の商人も、過去から現在、そして未来へと、連綿と続 く商人とその家族の歩みが、まざまざと蘇ってきました。 『農民の自伝』というジャンル、『実業家の自伝』というジャ ンル、『会社員の自伝』というジャンル、『ジャーナリストの 自伝』というジャンル、『職人の自伝』というジャンル、『教 員の自伝』というジャンル、『公務員の自伝』というジャンル、 などなどが無数に生まれるとよいですね。 自分史ではないのですよ。世襲でもありません。私の若い家族 や縁者で、商人を選んだ者はおりません。家族も縁者も、自分 の道を進んでいます。気が向いたら、それぞれのジャンルで描 けばよいのです。技術の泡も投機の泡も、流れを阻むことは出 来ません。 ※ 晩年の曾祖母が住んでいた大森に、男を連れ込んだお手伝いは 双子の姉妹です。二人とも水商売の出身で、愛想がよく垢抜け ていました。曾祖母は「この家に男がいる」と訴えていました が、ボケが始まったと思い込み、関係者は曾祖母の言葉を信じ ませんでした。判った段階で祖父は姉妹を即刻放逐。 父はゴルフ仲間に好かれていました。「とても」を加えても誇 張とは言えますまい。反面、「能力がない、場数を踏んでない、 お人好し」と思っていた関係者もいます。見抜く側にも器量が 要るのですね。現場では無理解のままで済むのでしょうが、政 (まつりごと)では、無理解な器に(開示される情報を限られて しまった器に)、数の上で支配されてよいのだろうか。世の中 は面倒です。 大森で、両親が新婚生活を始めたのは曾祖母の亡き後です。母 は長子を妊娠後、S病院の診察日に合わせ、父を迎えに出てい ます。築地で診察を済ませ、神田に立ち寄り時間を潰し、退勤 時刻に、人形町の事務所の角で待っていました。 折々、立ち寄った洋食屋さんが二軒あります。一軒は、牛タン をステーキ風に焼き、ハヤシライスの垂れをかけたお料理。も う一軒はメンチボール。 前に撮り込んだ際、社名と名前を消しましたが、給與辞令は結 婚後の父のものです。八十六圓や九十二圓は、普通の銀行員の 月給を上回っていたと聞いています。統制会社の経理課で、二 十人の事務員に演算を指導、郷里でのお勤め時代と合算します と、結婚前に蓄えはあったのです。この蓄えの使い方に、父の 気持ちが現われています。 二人連れの写真の父の背広は、結婚に先立ち、父自らが銀座で 誂えた数着の一点でした。持参した桐の箪笥も特注品です。入 り婿でも、父は矜恃(きょうじ)と自立にこだわったのでしょう。 ※ 父には兄姉が多く、父親には本家もあり、母親の実家の近江に も姻戚が住まい、戦後、菅野の家に下宿した縁者は富士も近江 もと、父は込み入った親戚づき合いをこなしています。 妻方の縁者とは、義妹の結婚の世話と、義弟の就学および開業 の援助一切と、頼まれ雇い入れた二人を除き(父は戦後、義父 の早世した弟の、娘一人とその義兄を雇用)、自分からは交流 する気持ちがなかったようです。婿養子の偏った親戚づき合い に、妻が異議を唱えても不思議はないのですが、母は違ってい ました。 母は祖父を敬愛しています。次いで伴侶の両親と(舅・姑と)、 伴侶の親戚で仲人のAさんご夫婦。 一方、母と母親の関係は、長兄の死が招いた商家全体の齟齬だ ったのでしょう、うまく噛み合わなかったようです。その母の、 家族同然だったのがお師匠さん(佐次郎さん)とそのご家族。 佐次郎さんの奥さまは佐吉さんとは別の流派です。奥さまには 御徒町の飾り職人の弟さんと(母が菅野で、手編みの先生の娘 さんに与えた根付けはこの職人の作)、互いに歳の離れた三人 の妹さんがありましたが、一歳上で、母が結婚するまで姉妹同 然に「遊んだ」のが末の妹のSさんです。 Sさんは佐次郎さんの内弟子とご結婚。敗戦後、ご主人も長唄 をやめ、新橋でラーメン屋を開業、オフィス街に売り込んだS さんの才覚が功を奏し、財を築きましたが今は音信不通。 遊びの意味が今とは違っていました。小三の母を、佐次郎さん が手を引いて案内したのは、華族のお嬢さまが振袖姿で習って いた浜町の書家。それから一年、母は新しい「遊び」もこなし ています。Sさんは長唄とお人形作りの「遊び」友達。神田の 商家の娘には、手習いも「遊び」だったのです。 子ども時代の母には見抜けなかったのでしょう、母の昔話には 漠として、前々から書きづらかった一面もあります。 当時は表(おもて)芸としても勢いを誇っていた長唄ですが、単 に伝統芸能だけで括(くく)る訳にも行きません。ここでの表芸 とは、単独で演奏会を開催しても客が集まり、報道され喝采を 浴びることができたという意味です。 マチ場を離れれば、分限者と役者と、芸能界と花柳界の行き来 もあったのでしょう。その狭間では、複雑な事情も生まれてい ます。 佐次郎さんと奥さまの、新宿に越す前のお住まいは神田の店の 数軒先で、母は父親のようにお師匠さんに親しんでいます。ご 夫婦にはお子がなく、母より四、五歳若く、九歳の時に神戸か ら引き取った実子を戦死させてから、佐次郎さんは一層、母の 長唄への期待を膨らませています。お子を引き取る際は揉めた のでしょう。複雑な事情とは「養子縁組」のことです。父は商 家の養子でしたが、当時の伝統芸能の世界でも、功成り名遂げ た人の関係する養子縁組が、母の間近でも何件か。 祖父は佐吉さんの流派を後援しながら、娘に名取りは認めませ んでした。同様に祖父の死後(戦後)、母側の縁者や関係者で、 父が表立って遠ざけた唯一の人が佐次郎さんです。商売か長唄 かの母の岐路で、父も自分の意思を通しました。 |