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クリスマスの季節 −17−
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亀裂が表面化したのは、結核を克服した父が店を再興してから
です。
戦前の祖父の配慮で、祖母は晩年まで安定した収入を得られま
したが、絶縁後は葬儀も相続も知らされず、祖母の収入源は今
も不明です。戦争以前に、祖母名義で祖父が購入した不動産の
賃貸料、だったのかも知れません。
昨年末に関係者の一人を見かけた際、子どものように母に笑顔、
悪戯を咎(とが)められた児童のように母に尻込み、訴訟に名を
連ねた別の一人も、伴侶に先立たれて数ヶ月後の今、あどけな
い幼児のように母に擦り寄っています。
母が祖母から「ヤッチャンは株に手を出している」と非難され
たのが最初でした。父は囲碁も将棋も麻雀も好きでしたが、競
馬や商品相場には手を出さず株が趣味、ではなく、株は運転資
金を捻出する現実的手段。
父の株を、母は父自身から知らされていました。
母の言葉には、寡黙な父とは別の困難があります。昔話も暮ら
しの話も、表情が読めません。肯定か否定か判別できない。右
か左か意向を汲めない。その場では抵抗なく成り立つ会話です
が、後で考えますと、解釈の表裏が逆だったことも。寡黙は、
父だけではなかったのですね。
株式云々以降、祖母の誹謗はエスカレート。「ヤッチャンは何
処そこで遊んでいる」。母が過労で倒れた際は「二人の子は誰
と誰が引き取り、ヤッチャンは誰を後妻に」など。
婿と娘が二人の児童と、祖父一家を支えながら働いている最中
(さなか)、江戸っ子の歯に衣(きぬ)着せぬ言いたい放題。
分限者の令嬢と奪(と)り合っての結婚です。祖母は祖父が好き
でした。祖父の自伝では判りませんが、興隆期の祖父の店では、
祖母も働きに働いたそうです。結婚前、祖母が日本銀行に勤め
られたのも、算盤ができたからです。演算に強く体も動けば、
祖父にとっても一大戦力。その商家の継嗣争いにホドホドは通
じません。当主が亡くなれば、修羅場が出現しても不思議はな
かった。父の気持ちも母の気持ちも、推し測るなど不遜でした。
医学の後れも困りますが、世襲の観念も苦手です。商家だけで
はありますまい。
※
牡丹は、蕾から花弁を覗かせ、八重桜と、アメリカハナミズキ
と、野田フジは太陽を浴び、朝の窓辺で輝いていました。今日
は四月十三日。今年の連休は深緑かも。
また一つ、インターネット上で「勲章」を戴きました。今回は、
過去に生きている筆者を哀れむ勲章。
自意識が覚醒した瞬間、歴史が消滅し、黄泉(よみ)に旅立つ瞬
間、歴史が自意識に帷(とばり)を垂れる、なんて想っていまし
たよ、自己と歴史との関わりを。
横断面では兎も角、時間軸では実感が湧かなかったのですから、
今まで随分、損しましたね。皆さんはご自分の、上でも横でも
後でも、我が身に接するもう一つの世界を、無視します? そ
れとも往き来します? ご自分でもご家族でも、誰かが一歩を
踏み出さないと・・・
流れに乗りますと、感情なんてほとんど割り込めません。しか
し「勘定および痛み」は別です。あまりに大きな損失、あまり
に大きな痛み、なんですね〜、政経の失策は。
哲学なんて言葉、関係ないです。理念も要りません。はじめて
の子のご誕生を、皆さんはどのように記憶しています? それ
と、情報の発信なんです。
六十年前でも七十年前でも、向き合う姿勢さえあれば、記憶違
いや空白なんて瑣末(さまつ)なことです。まして、五年前や十
年前は、決して忘れたなんて言わせません。哀しいですね〜、
相変わらず、過去に生きなければならないなんて。
※
前項の前段の過去は、白紙に戻すことの出来ない「足跡」を意
味します。見失えば悲劇を繰り返すことも。見出せば、何が大
切だったか判るかも。
後段の過去は、年貢による飲み食いとその隠蔽、あるいは個々
の深層まで根を据えてしまった「観相多弁の舞台本位制自己耽
溺主義」
※
サザンカ、ハチス(ムクゲ)、クロマツ、モチノキ、サカキ、
シャリンバイ、地植えのシュロチク二株。シュロチクの一株は、
大人三人でも抱えきれない大きさ。
富士の祖母の実家(近江)の使用人は数十人、ではありません
でした。数十人は下働きだけの数。ならば祖母を、深窓の令嬢
と想像するのが順路。
祖母は味噌作り、醤油作り、お袋の味作りなど家政万端の達人
でした。母が同居した最初の日は、お醤油に漬けたマグロの寿
司と干瓢(かんぴょう)の海苔巻で歓迎。戦争末期のご馳走とし
ては最高級。産後に仕込まれたのが蕎麦打ちと麺つゆ作りの秘
伝。父の蕎麦好きが納得できます。
母は蕎麦を打ち続けましたので、紫檀の座卓が磨(す)り減って
ダメになっています。飢えの前では着物も座卓も形(かた)なし。
戦後、祖父一家(やがて父が再建した神田の仮店舗へ)と暮ら
し始めてからは、母は蕎麦打ちから遠ざかり農家との交換経済
に依存。次いで本八幡駅裏の闇屋へ出かけています。
闇屋の看板を掲げているお店はありません。裏店は闇屋だろう、
程度の感覚でした。因みに、真間のお店の米軍の缶詰は、払い
下げではなく横流しだったかも。
※
四半世紀前、週末になりますと、安行(埼玉県)や野田(千葉
県)の植木市に出かけ、暇をつぶしたことがあります。モチや
モッコクが意外と安い、と思ったのは間違いでした。
塀が粗末にすぎたのでしょう、分譲に付随していたヒバの若木
も、二十年も経ちますと見事な樹形に・・・育ったのではなく、
狭いですから、深く刈り込みすぎて、箒(ほうき)状の枯れ枝が
密に詰まり、積もりに積もった埃(ほこり)に肺が悲鳴。
台風一過、倒れたヒバの、抉(えぐ)れた地面と砕けた根っ子に
なんとシロアリ! 生木を食うシロアリが根から幹まで。ヒバ
は一本残らず、内部をシロアリに食われていました。
参ったです。いえ、埃(枯れた針葉の屑)にはうんざりしてい
ましたので、丁度よい機会、広葉に替えましょう、カナメモチ
の苗なら、家計も耐えられると、ここまではよかったのです。
庭を掘ってセメントを流し、駐車場を自前で作ったことがあり
ます。土木作業の苦労を学ぶよい機会でした。その大変さを、
厭というほど味わったのがヒバの根掘り。職人に頼めば手間賃
ズシリ、だったのですね〜、植木の移植は。根まわしが加われ
ば尚更です。
更地(さらち)に戻す場合、年輪を重ねた樹木は厄介モノ。
郷里の建て替えで、家屋と樹木が邪魔になった際、連絡された
父が、植木職人を富士へ差し向け、移植したのが前項の庭木で
す。勤めていた私は、結婚して矢切のアパートに住んでいまし
たので、移植作業は見ていませんが、根づいた郷里の樹木は、
ハチス一本でさえ、私の手に負えない大きさ。
祖父の「池坊」は、庭から花を摘んでは、日々、生活を彩るお
花でした。
※
日々の写真は、今までに載せた画像の中で最も印象的です。教
え子の戦死を背負う旧制中学の教師。戦場から帰還、碁盤に見
入る父。お花を生けたのも撮影したのも祖父でしょう。クリス
マスの贈り物・・・なんですね。
※
移植した庭木に特別はありませんでした。シュロチクだけは冬
越しは無理と判断、職人が覆いましたが、父の死の数年前から、
一株は野ざらし、一株は霜を浴びる状態でも、枯れる様子はあ
りません。
庭木だけが要るのであれば、植木市で買った方が合理的です。
私の住んでいる団地では、家屋に綻(ほころ)びが目立つように
なり、建て替えた家屋と新旧の違いが際立っています。その新
築の際、潰される緑に痛々しさを覚えるのは、私一人ではない
筈です。
我が家のヒバは残らず抜いてしまいました。手作りの藤棚も、
はびこるイラガに業を煮やして全面撤去、ヒト本位を貫いてい
ますが、建て替え時の根こそぎは痛々しい。
天守閣モドキを構築して、後世の負担が増す場合、決定者はど
のようにして償うのでしょう。粗大ゴミの、規模が巨大になれ
ばなるほど、根こそぎにされる伝統部分も拡大しますから、負
担は二重に課せられます。
天守閣モドキも顕彰碑も、競技場も文化人の記念館も、当事者
自身の危険負担でお願いします。文化もスポーツも、放蕩の隠
れ蓑ではありませんよ。催事も同様です。天守閣モドキには、
自然を根こそぎにして建設される公園も含みます。
伝統美の根こそぎは、自己耽溺が過ぎるからでしょう。華美、
必ずしも美しい訳ではありません。我が子まで飾り物にする時
代ですが、過去は要らないのでしょうか。凄い自信ですね、今
の人々。
※
県立美の山(みのやま)公園(埼玉県秩父郡皆野町)
秩父市と皆野町の境に蓑山(586.9m)があります。
※
今までは山道を避けていたのですが、行けども行けども勾配に
改善の兆しなく、エンコしたらどうしようなどと、生きた心地
がしませんでした。
近年、前方車も後続車もすれ違う車も、みな我より新しく、勇
ましく走り抜けて行きますので肩身が狭いです。調子は抜群で
すが、登り坂では気持ちエンジン音が気になります。ブレーキ
系統は念には念をと、六ヶ月点検も未だに新車購入時の販売店、
なので維持費が嵩み、任意保険にも万全を期しますと、新車な
んて半永久的に無理じゃないかと、ただただ山に入り込んだ我
が身の浅慮を悔やみましたが、なんとか無事に戻れたその頃、
国債の格付けが我が愛車同様「三等」並に。
堅実なんてお世辞にも言えません。放蕩という言葉は遠慮のし
過ぎでした。
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