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クリスマスの季節 −196−
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茅葺(かやぶき)(館林市)
茂林寺
田山花袋旧居(移築)
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在宅看護論・訪問看護の…… 全身で立錐の余地を開き、半身
でA四判の読める距離を生み出した結果、紙片の角が他の乗客
の目スレスレに。今朝(十七日)の車内にて。
見世物仕立てにするか、敬虔(けいけん)と伝統美を訴求するか
の違いで、雰囲気や環境まで変わるのは容易に理解……、でき
ると思います?
とても難しいのです。皆さんは海外に「分福茶釜」をどのよう
に紹介します。外国語に翻訳した小冊子で理解されると思いま
す? 時代名一つでさえ解らないでしょう。バラと、バラの花
の違いです。
情報鎖国に息がつまります。海外から、島嶼を観光に訪れた一
般は、我々の暮らしをどう理解するのだろう。勤労を? 休暇
を? 足許の暮らしを? 歴史を? 政の赤裸々を? 今の島
嶼では、文化や思想に、現実の暮らしで、誰もが、海外と主体
的に影響し合うなど不可能です。
固有言語の島嶼と、海外とが、利害や意図を持たずに影響し合
うことは、いくら工学の情報技術が進んでも期待できないと思
います。家庭資本の豊かさと風土資本の個性を、自然に競い合
える条件を整えて欲しい。
※
今朝(十八日)は空が青かった。
茂林寺からの帰りぎわ、門前の土産物店の、ご夫婦(?)二人が
門のウチソトを掃いていました。掃く必要がないほど清められ
ていましたので、お寺の関係者が早朝、掃いてしまったのかも
知れません。
今度は桜の季節にお越し下さいとのこと。他の土産店は通りを
隔て、参道に直角に並んでいましたのでご商売には不利。だか
らでしょうか、どのお店も朝寝坊状態。利権に見合った役割分
担?
広い駐車場に会館風の建物がありました。両親が招かれた結婚
式がこの建物だとしますと、思い出としては今一つです。徴収
する設備を工夫すれば、駐車場料金が入るのにモッタイナイ、
伝統的な建物でしたら、催事や演奏会や展示会など用途も広が
るのに、あまりに大きな狸の像一体同様、会館風の建物はお寺
に適(そぐ)わない……
ということを伝えたかったのではありません。バラとバラの花
の違いを例示したのです。第二資料館で見学した旧上毛モスリ
ン事務所と田山花袋旧居は、茎まで落としてしまったドライフ
ラワー。茂林寺はこれから何千年後も、暮らしと歩みを一つに
する生きた情報。
今の島嶼は、暮らしの場からバラを根こそぎにし、商品栽培さ
れた花を茎から切り落とし、ドライフラワーで厚化粧した花電
車です。記念や博物も再構築しなければ。
二ヶ国語の社会とは、混合でも融和でもないのですよ。島嶼で
は、気分の融和が氾濫する一方、暮らしの宥和が極めて稀薄。
私の場合、リストラと再構築は別の意味。まだ大人の社会を知
らなかった昔、どうしても解らない言葉がありました。合理化
です。
会社はリストラを実施、政も官もリストラを実施、だから家庭
もリストラを実施しなければならないとしましたら、子が自立
した家庭は伴侶のどちらかをリストラしなければなりません。
子育て真っ盛りの家庭は、子の誰かをリストラしなければなり
ません。酷(むご)いことです。
自己都合でもリストラでも合理化でも、理由は何でもよいです
が、今の涙国で離職しまして、果たして次の機会はあるのだろ
うか。転職成功の自慢話はどうでもよろしい。社会的に公正か
否かということ。
社会的公正とは、行き過ぎのない競争が保たれ、決定者の恣意
を制御できる状態」と定義します。
涙国や采国は、政壇の仕組みに工夫の余地があります。お役所
ですか。涙国が仮に五つのムラの統合体に変わるとしまして、
一つのムラでは算術平均で約九県と、その市町村すべてが整理
されますから、代わる組織が加わったとしましても……、今の
お役所のリストラはお茶を濁した程度?
会社員が経営者にリストラされる場合、決定の恣意はどのよう
に制御されるのでしょう。裁判? 不自由です。転職も自然な
社会に、涙国を再構築すること。
ヒトには資質があります。転職を繰り返すことで伸びる資質も
少なくありません。ですが今の涙国で、それができるヒトは例
外でしょう。二ヶ国語社会の発想と同じ。成果の規模はうねり
の巨大さ如何。終身雇用資質にも、転職が自然な社会は刺激に
なります。社会の実質として、転職の機会はあって当然。世の
中の帰趨として、転職が転落であれば擬似封建制。
会社も役所も、家庭のためにあるのですよ。家庭もリストラな
さいとは、会社はお金儲けを控えなさいと同じ言葉。壇上から
命令されなくても、家庭は切り詰められるだけ切り詰め、命を
縮めないでも働ける職場があるなら、求職者の絶対多数は汚れ
仕事も厭いません。我が子を思わない親は例外です。
必死さだけではありません。力仕事も汚れ仕事も、汗を流すの
は歓びなのです。私も中学時代、荷造りが楽しみで、学校から
帰ると二階に鞄を置いて、梱包台に駆け下りました。
風が吹き抜ける床で機械油を拭い、埃(ほこり)アレルギーにな
った六、七年間も、中町で、子がオシッコする(←主婦に手を
引かれた子も、子に媚びないオジサンの顔を見ますと、緊張か
らでしょう、尿意を催すのを学びました)和式便所を掃除した
ときも、お勤め時代の机上より爽(さわ)やかでした。もしかし
て、会社や政の壇上は、汚れ仕事の充実を知らなかったりして。
転職の機会均等を欠いたまま、従業員をリストラする経営者は
理解を越えています。転職自由の環境整備を六十年も放置、未
だに大きなうねりを示さないままリストラを続ける経営理念は、
恣意的選択に流されていると評されても仕方ないと思います。
唯一無二の生きる手段「働く機会」の、実質、転じる自由を閉
ざされた社会では、経営者が解雇する恣意を、社会的に制御で
きる仕組みが見当りません。
期待できないのですよ、政(まつりごと)にも、お役所にも、雇
用にも。雇用からは最も大切な家庭が捨象され、お役所には必
死さが感じられず、政には叡智の丁々発止が窺(うかが)われず。
政官の垂れ流しは論外。
一つの雇用形態を押し通す気ままを、もう一つの雇用形態で制
御して欲しいです。それには、二ヶ国語による生きた情報の開
国が必要です。島嶼内単独の「規制」緩和に留まらず、外への
機会も、外からの機会も著しく高まります。ムラ社会化とムラ
長(おさ)の合議体にも、自由度の高い言語が欠かせません。ム
ラ長の合議体を、いつまでも涙国内五ソンや八ソンに留めてお
く必要はないのですから。
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