────────────────────────────
クリスマスの季節 −18−
────────────────────────────
移築民家 「さきたま古墳公園」行田市
※
埼玉県の行田(ぎょうだ)市埼玉(さきたま)に立ち寄った際、行
田で明治初期に建てられた農家を見てきました。幸手(さって)
で江戸末期に建てられた民家(豪農でしょう)も移築されてい
ました。いいですね〜過去の建物。風格が感じられます。ただ、
父の富士の郷里の土間は、磨きこまれた安山岩のようでしたが、
使われなくなった所為(せい)でしょう、移築民家の土間は、表
面が削れて傷んでいたのが惜しかった。
神田の祖父の店の隣人は、行田の「勤皇足袋」でした。戦前の
「勤皇足袋」は全国に威を振るっていたと聞かされています。
折角の問屋一等地も、在京時のご主人と二人のご子息の滞在だ
けに使われていました。戦後、足袋の衰退を補うため作業衣を
手がけ、さらに電気(家電?)に手を染めたのが敗因で、行田
に工場を構えていた「勤皇足袋」は時代の表舞台から消えてい
ます。母はその「勤皇足袋」のご子息とも縁談があったのです。
祖父は改造足袋の出身です。「勤皇足袋」から見れば格下の下
ですから、まあ、肩身の狭い思いは当然と思っていましたが、
ご主人は祖父の成功を評価、気心の知れた間柄で、祖父が婿養
子にこだわらなかったら、母の運命も変わっていたと思います。
父の商売は、堀留に出かけ、キャラコと人絹を仕入れることか
ら始まっています。キャラコは割烹着などの素材で重衣料には
不向き、人絹もポリエステルの出現で急速に後退しましたが、
どちらも戦争直後は貴重でした。型紙は母、裁断は父、縫製は
職方の布陣で、最初の取引場所は龍閑(古い地名)某の二階、
後に床屋さんになった狭い場所です。
行田の「勤皇足袋」が東京を引き払う際、父は地所を買って欲
しいと頼まれましたが、甥の「新居と開業資金」捻出のため、
それどころではありませんでした。傍目にはお金があるように
見えたのでしょう、後に財産請求の訴訟も起こされましたが、
商標権の所属で敗訴になった原告側弁護士が、祖母側の執拗な
要求に呆れてしまい、降りてしまったとは被告側弁護士から聞
かされた話。第二の訴訟は原告側が取り下げました。
※
書いた後で気になる漢字があります。「勤皇足袋」は「勤王足
袋」かも知れません。少し前までは「金王足袋」と思っていま
した。
秋の絵画展に備え、参加予定者へ資料を送りました。昨秋の第
二回は、間際まで参加者が決まらず焦りましたが、今回は慌て
ずに済みそうです。
※
我が家のサザンカは初夏も咲きます。
カナメモチと、ナンテンとサザンカとモッコクがゴチャゴチャ
植わっている一角に、白いクレマチスと、紫のクレマチスと、
モッコウバラと、畑のヤマノイモが絡まっていますので、花が
咲かないと何が何だかわかりません。
紅花のサザンカに、今は淡黄色の花が咲いています。穏やかな
中間色は花一輪の話。サザンカを覆ったモッコウバラはとても
艶(あで)やか。
昭和三十年代前半に、父が工場用地を探したことがあります。
O君の運転するバンに中学生の私も同乗、日光街道を走り、都
内を抜け、街道から逸れた川沿いの道が、金盥(かなだらい)を
並べたような砂利道で、車が跳ねると頭もゴツン。一度痛い目
にあいますと学習しますから、二度目からは掌で天井を抑え痛
みを予防。見渡す限り畑のレンゲ。
お江戸日本橋から五十キロ圏で見かけたレンゲ
昭和三十年代前半は十五キロ圏でもレンゲ一色
※
考え込んでしまった写真もあります。上横割のバケツの手渡し
がそれです。そっくりですね、今の時代に。渡し手は無数。な
のに水はチョボチョボ。なぜ、一人一人が源泉になろうとはし
ないのでしょう。
政も財も官も芸も、舞台から降りた後、ご自分単独の何かが残
らなければ、一人一人の源泉には値しません。渡し手の労で壇
上の役割をこなすのは協働なんです。
采配に齟齬が生じた場合の痛手と損失、軽くはなかったと思い
ます。なのに未だに、巨艦が偉大で事大が成功、なんて思って
いませんか。
ご自分の記録? ご自分の作品? その公開が出版でも放映で
も他者の労に拠るのであれば、「自分の」なんて言えないと思
います。他者一人一人の表現する機会を削って成り立つ労作は、
個人名の顕彰には値しません。壇上を降りた後の、個人の資料
の編纂はご自分でお願いしたいです。一人一人の自助の余地を
高めて欲しい。環境を整備、構造を改革して欲しいです。
共有媒体の現在も、バケツの手渡しに似ていると思います。渡
す速度と精度は高度化しますが、引き継がれる中身は、相変わ
らずバケツ一杯分の水なんです。上意や権威や人気の水が、一
万人十万人に中継され、一杯また一杯と吐き出されます。しか
し、共有媒体は中継する技術だけではありません。一人一人の
源泉を、自助で表現する、極めて現実的な手段でもあります。
操舵も投機も、大規模に委ねる必要は薄れ、大組織に集中する
危険だけが増しているのでは?
今日は二千二年、四月の二十五日です。この瞬間は自分のモノ
なんだろうか。過去と未来の中継点、かも。
※
錦町 泉町 入舟町 柳橋町 本町 神田町 富士見町 室町
※
千葉県立関宿城博物館(関宿町三軒家)を見学した際、戦後、
父が松戸を経由、自転車で出勤しなければならなかった台風の
名前が判りました。昭和二十二年九月のカスリン台風です。
母の母親には二人の弟がありました。祖母とは親子ほどの歳の
差で、私の大叔父にあたります。上の大叔父は祖父の橋場工場
に勤め、下の大叔父はその配下。
戦前の祖父母の社会では、二男三男は機会に恵まれず、下の大
叔父も使い走り同然でしたが、戦後は浅草で洋品店を開業、成
功を収めています。件(くだん)の訴訟に肩入れした一人がこの
大叔父さん。
一方、浅草山谷に住まい、橋場工場の責任者だった大叔父は、
疎開先の松戸でカスリン台風に遭遇、気丈な奥さまは蒲団を抱
えて松戸の橋へ避難、橋の上で出産しています。母子とも無事
でした。
※
五月一日です。新入社員時代、職場の先輩に誘われ、千駄ヶ谷
の神社境内で待ち合わせ、メーデーに参加した記憶があります。
快晴でした。学生時代までは嫌悪していた労働組合も(従業員
を店の裏に呼び出し、組織化を画策していた地区役員は事業の
障碍)、新入社した会社では、加入しないと社員になれなかっ
たのです。
あの頃の父は期待したのでしょう、自分の息子に。俺は世渡り
がヘタでした。
メーデーの行進中に芽生えたのが自由への渇き。
未来は輝いていました。
※
駐車場の受付は閉まっていました。門扉はなかったので先ずは
手洗い・・・も施錠。
通りを見てうろたえました。似すぎていたのです。地図と磁石
で調べましたが、間違った様子はありません。そりゃそうです。
耄碌(もうろく)したとはいえ、川越市と栃木市を取り違えるな
んてまだ早い。
九時まで散歩。駐車券の発行番号は2。手洗いを済ませ、会館
で駐車券に押印してもらい再び散歩。観光客が目立つ頃には見
る場所も尽きてしまい、帰路、謙信平に立ち寄り記念撮影。昼
食は住まい近くの食堂でした。
お金の節約と愛車速度の自主規制のため、高速道路は利用しま
せん。週末の午前中に限られますが、往復二百五十キロまでは、
千葉、茨城、栃木、埼玉に道路勘が生まれています。この感覚
がとても大切。因みに大凧会館も太平山(おおひらさん)も、昔、
幼い子連れで訪れています。
※
駐車場に戻る前、ホテルか会館の看板に誘われ、シマッタ喫茶
店で珈琲タイム。待たされました。その間、土地の有力者同士
でしょう、中年の役員が年輩者に了解を求める会話が聞こえて
しまい、耳にしたのが前に挙げた八つの町名。昔は、神田界隈
や日本橋界隈と、共通する何かがあったのでしょうか。
蓑山が美の山公園。小作田が緑町。山谷は抹消。
地名を変える歴史的根拠を教えて下さい。
筑波では万葉人の足跡に、埼玉(さきたま)では天正の武将の行
動範囲に、江戸時代は将軍の慧眼(けいがん)に驚かされました。
鎖国の発想って凄いです。独自の文化を構築、一国全体を、世
界に通用する観光資源に高めたのですから。えっ! 間違って
いるですって?
我が町おこしとか我が村おこしって、なんか同じものばかり作
ってません? 一方、江戸時代には、水運で結ばれた関東広域
圏があったのですね。当時は、関東の地方全体が世界に向けた
観光資源! えっ! また間違った?
ITが高度化すれば事務処理も分散できます。群雄割拠する天
守閣モドキが、粗大ゴミになるのも時間の問題。厭ですね、年
貢を「俺が俺が」で食い潰されてしまうのは。時間軸も空間軸
も「俺が」で断ち切っては困ります。未来の輝きを「ぷらねた
りうみずむ」で阻まないで欲しい。
注)昔、渋谷でプラネタリウム見て感激しました。幼い子連れ
で、筑波のプラネタリウムを見たことも。
太陽系でも銀河系でも星座でも、宇宙を認識するヒトは日々の
生活で成り立っています。過去も現在も未来も、ヒトに必要な
のは先ず生活です。現在のヒトは我々です。さて、一所懸命働
いて、人生を堪能して、銀河系のお☆さまになれた場合、本人
には喜ばしい限りですが、存命中のそのヒトの、行為と選択と
無為もお☆さまにならないと、利益不利益の別なく、現在のヒ
ト一人一人の生活が、未来のヒト一人一人の生活に影響を及ぼ
してしまいます。
収支の調和を欠いた「大規模事業や巨大建造物」に出合います
と、あるいは自戒精神の感じられない公的出費を知らされます
と、誰が支払うのだろうと思ってしまい、背筋が寒くなります。
プラネタリウムを見ていますと、夢心地になって、嗚呼! や
がて苦労に別れを告げ、お☆さまになるんだなあ〜、みんな、
ありがとうよ! なんて気持ちになったこと、皆さんはありま
せんでしたか。いろいろやるべきことから逃れもしました。し
かし、お☆さまになってしまえば「俺が」はハッピー! こん
なところです、「ぷらねたりうみずむ」の意味は。
注)「ぷらねたりうみずむ」の生活様式、「ぷらねたりうみず
む」の政治経済、に対する言葉は「叙事文」の生活様式、「叙
事文」の政治経済。自助の時代ですから、「叙事文」は構成の
段階から各自のお気に召すまま。解釈自由。お手本無用。自身
の世界観も、自ずと明らかになると思います。
|