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クリスマスの季節 −201−
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通勤電車で蓄積した余熱が冷めず、暖房なしでも汗ばんでしま
います。ヘンな陽気(二十五日)が、産業活動、および政の操
舵と、独立していることを願う今日この頃です。
美を、各自にとってもっとも大切なコトモノ、美意識を、依存
する程度、と定義します。個体の意思は、知性の美意識と、感
性の美意識と、欲望の美意識の相互作用。
知性の美意識と知性の優劣は独立しています。感性も欲望も同
じです。服装感覚抜群意識のヒトに対する、他者の評価がマチ
マチなようにです。欲望の美意識、例えば、特権的栄達に、も
っとも大切なコトモノを見出している官僚が、自身の知性の卓
越性を、専らその成就に向ける場合は、知性の美意識が低いと
判定できます。要素間の相対評価。
径は個体の発揮力。絶対評価。影響力は、発揮力が大きいほど
累乗効果。報道媒体の競争状態如何。
政壇や寡占媒体は、自己の権力と発揮力を、例えば 5,000,000
対 10、さらには 100,000,000 対 10 で行使する場合が見受け
られます。社会的公正にほど遠いです。
域内に競争相手がなければ、そして政は今まで、域内に競争相
手の存在できる仕組みを欠き、方法の『巧拙』を判定する(人
的犠牲の大きさと、破壊額と、破壊のために投じられた金額の
負担の重さと、環境への影響を方法別に判定する)余地はなか
ったのですから、断を下した側と報道する側は、自己の選択を
妥当として押し通してしまいましたが、失われた命と、覆され
た生活基盤と、破壊された環境ももし……。 歴史の if の課
題です。
加えて杜撰(ずさん)さの吟味は、これからの操舵も同じ壇上に
委ねて行くのか、その適否も問うているのですよ。
社会が成熟するまで待ちますと(受け身を貫きますと)主体性
はどこまでも足踏みします。成否いずれもお手本が要ります。
競う相手が互いのお手本。采配も報道も、未来まで、一つを引
きずる必要はないと思います。
美意識の類型の例
美意識→ 欲望の 感性の 知性の 径 該当数
個体↓
類型A 150 60 50 200,000,000 1
類型B 120 60 60 30,000,000 数十
類型C 90 90 70 500,000 数千
類型D 80 60 90 3,000 多数
類型E 70 50 60 10 無数
類型F 50 90 80 2 稀有
以下略
※
二千年一月に買った雛人形です
前年に父に先立たれた母を慰めるため
二人で浅草橋を訪れ
本人に選んでもらいました
今も母は
一人になりますと怯(おび)えます
一言も寂しいとは言いませんが
表情から判ります
昔のヒトだからでしょうか
浅草橋の橋から
浅草橋駅ガード下
柳橋の袂(たもと) 夏
浅草橋
浅草橋
変容
昌平橋から万世橋方面
万世橋東側から 2001年
万世橋西側から 現在
旧神田市場跡地で高層ビルの建設が進んでいます。十何年か前、
神田市場が大田市場に移ってからも、暫くは上野側に建物が残
っていました。最後の建物が削られた後も遺構が現われ、その
調査も終わったのでしょう、今度は広い有料駐車場に変わりま
した。秋葉原駅に近い跡地は、早くからコンクリートの広場に
変わり、折々催事のテントが建つほかは、バスケットボールや
ローラースケートで遊ぶ少年がチラホラ。夏場は照り返しがひ
どかった。
緑地公園を夢見たこともあるのですよ。築地の場外市場が移っ
て来たら、お祭りの「本場」ですから客足が増え、地元全体が
潤(うるお)ったかも。
瓦礫の含み試算作りに、ここでも巨億が費やされているのです
ね。日本橋でも神保町界隈でも高層ビルが雨後の筍(たけのこ)。
泡期までは、中小や零細を意識したのでしょう、寡占場体がこ
ぞって自助を説いていました。それが一変、自助の反対概念が
当たり前の世の中に変わっています。寡占媒体の説諭を待つま
でもなく、庶民や零細は自助が当然、なのに……
不思議なのですよ建設能力の総量が。泡期の地上げで更地にな
った場所でも建設が始まり、泡が弾け建設を中止、鉄骨が剥き
出しになった場所でも鉄骨を解体して新たに建設が始まってい
ます。銀行が自助を貫いたとしますと、とても今の建設力はあ
り得なかった筈。筈ではなくあり得なかった。庶民から吸い上
げたお金で繕った結果が、今度は鉄骨やコンクリートの泡を膨
らませている?
神田市場の跡地では、入札も、競争各社の熱気が溢れていたの
ではなさそうです。需要の読みは大丈夫なんだろうか? 一極
集中ではなく、一極の分権型でも分散型でもなく、共有型の経
済社会へ……。壇上は、電気街でご商売の皆さんや築地市場の
皆さんの自助を見習って欲しいです。
懐かしいですね〜需要予測。新卒時に配属された部署では、新
入社員もオトコノコ一人とオンナノコ一人が並びました。一方
が新人ですと一方が旧人の配置。会社勤め一般の相談役は、別
に同性の先輩社員を紹介されましたので、オンナノコは事務作
業限定でしたが、オンナノコギライ(←オンナノコにはコチラ
からは話しかけない)を通していた私の矜恃(きょうじ)が、脆
(もろ)くも崩れ去った瞬間でした。
オンナノコは半透明の方眼紙に計画書や報告書を清書する役。
計算尺だったのですよ当時の参謀部は。残業を続けましても三
案併記が限度。最も妥当はナカを採る法。ところが、私は計算
尺と相性が悪かった。
入門書片手にプログラムを書いてみました。出張を申し出まし
た。新幹線に乗りました。電算室の扉を開けますと理系の同期
生が迎えてくれました。穴を開けたカードで入力。後は必要に
応じて、入力データを送ればよいのですから、同期生が他の何
人かに声をかけ、立ち食いの、キャベツに串カツが絶品でした。
オンナノコの清書は、係長→課長→室長→本部長→決定者。そ
の逆の経路で声がかかりました。上司に従い、就職試験以来は
じめて決定者の前へ。決定者は何もかもご存知のうえで、算出
根拠まで根掘り葉掘り。
飾りの長期とは違っていました。営業も生産も設備も財務も研
究所も。
活動との相互作用? ですから長期には、人文の技術も要るの
ですよ。各部も予測していたとは、無邪気な私は夢にも思わず、
まあ、当時の常識では考えられない数値を列記。そういう予見
も成り立つのだな」が決定者の言葉でした。
結婚が決まった年、名目の第二位の名代として、研修旅行に参
加したのも、決定者からのご褒美だったかも。消費財各社から
常務や専務が参加、外国の高級ホテルに泊まる旅行に、入社三
年未満(←決定時)のヒラが加わるなど、名目の第二位では決
めらないと思います。新卒時の会社はとても重い」が母の言葉。
提出したグラフの形は今も記憶。その後の長い軌跡は、当時の
予測の上限(←当時の常識外)も越えた筈です。
高層ビルの建設現場とは反対に、万世橋から中央通りを南下し
ますと、すぐに須田町の交差点があります。靖国通りを渡り、
中央通りを進みますと「神田平成通り」と交差します。ガード
下の神田平成通りが上の写真。神田駅の北側です。
ガード下はほとんど変わりません。天井と歩道が清潔になりま
した。あのションベン臭が消えてしまったのですから、理工の
技術は凄いです。が、人文の技術はどうだろう?
いい加減な需要予測を提出すれば、処分されてしまうのがどこ
の会社でも常識です。経営者も同じでしょう。事務局の数値を
鵜呑みにして、担当部署に丸投げする経営者も、算出根拠や仮
定の妥当性には与り知らない経営者も、采配を振るう資格はな
いと思います。なのに巨額を費やす事業の、十年後二十年後の
予測とモデルの妥当性に、政壇は、自己の暮らしと自己の名誉
を賭しているとは到底思えません。
万世橋の下手(しもて)に和泉橋があります。万世橋と和泉橋の
間に、新幹線工事が終わってから通れるようになった歩道橋も
あります。
母は、「共通点」の頁に載せた廃校のほうがずっと近かったの
ですが、当時は「満員」のため、和泉橋の袂(たもと)に出来た
仮校舎の小学校に通学しました。今の和泉小学校は、総武線の
ガードをくぐり、少し先で昭和通りを東に折れ、浅草橋方面に
歩いた辺りにありますが、母は和泉という名の小学校は、千代
田区から消えたと思っていました。
写真の建物の場所に小学校時代、母姉妹とそれぞれ同級の姉妹
がお住まいでした。橡展に妹さんがお見えになったことも。写
真の建物は、神田川に面したもう一棟と背中合わせで、和泉橋
からは見えません。とても古いです。その右隣りが、区の出張
所と会館でした。
出張所と昭和通りの歩道の間に猫の額の児童公園。始終建物の
陰で、古本の屋台と煤(すす)けた緑の、近所に住んでいたとし
ましても、子連れは敬遠するであろう公園でした。近年、地面
を舗装して臨時の自転車置き場へ。その際、大きな赤いシャク
ナゲを抜いてしまった。
和泉橋を北側へ渡った角にL字型の広場。この場所には随分昔、
秋葉原駅方面への水路があり、万世橋方面への道路には橋があ
った筈? それが移り変わって、近年までは、神田川に面した
日当たりのよい乾いた砂地で、昼休みの会社員にも数少ない憩
いの場でした。稀に子連れも。近くでは、三つも四つもペンシ
ル・マンションが建ちつつありますから、幼児も遊べる貴重な
広場。
今は神田川との狭間を残して、新しい建物が建っています。前
に使っていた建物は、入口を閉ざして荒れています。お役所は
モノを大切にしません。小さな公園も潰してしまいます。大金
を投じてです。仮に古い建物が潰され跡地が公園に変わったと
ころで、そのお金と新たな瓦礫は、誰が負担するのです?
戦前についての昔話では
靖国通りは大正通り
長唄についての昔話では
武藤様(家元)のお宅は薬研(やげん)堀
薬研堀は今の東日本橋の一角
お師匠さんは神田から四谷区番衆町へ
聖路加方面 昨夏
戦中の母が、出産と、次の出産の入院を予約したのが築地の聖
路加でした。日比谷線が開通してからは、築地駅を利用してい
ます。所在地は中央区明石町。私は父の最後の入院時、救急車
の到着を待つ間、車寄せを見通せる歩道から、旧棟の十字架を
仰いでいました。
聖路加国際病院旧棟と聖路加看護大学
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