折々の文章


────────────────────────────
クリスマスの季節 −209−
────────────────────────────

十日です。車内はまだコート姿。私は春の背広に着替えました。

遠い昔の舞台写真一覧に載せた「努力の人 1933 小学校卒業
時 母に褒状、六年間通して級長優等賞」によりますと、
母が通った校名は「東京府東京市和泉尋常小学校」と知ること
ができます。但し、和泉橋の袂(たもと)は私の作文ですから極
めて怪しい。母の言葉は一貫して橋の「上」の仮校舎。地面は
板のようにも見えます。植木は鉢植え? 確かなのは、全部か
一部かは判りませんが、和泉尋常小学校が、和泉小学校の暮ら
しが、神田川に架かる和泉橋と深く結びついていたことです。
島嶼には津々浦々、昔の資料が豊富ですから、調べれば判るか
も知れません。

佐久間小学校は私にも耳慣れた名前。道案内の目印でした。

六年生への進級時に越境した小学校は御茶ノ水界隈にあります。
春休みに突然でした。

親しまれた兄とは対照的に、小学校の私は孤独でした。母の言
葉に拠りますと、園長先生の口添え「大丈夫!」がなかったら、
歯も言葉も発育が遅く、上の小学校には入れてもらえない状態
でした。学校は好きでしたが、どうしても通えない日もあった
のです。

両親が気づいたのは四年の頃から。学校を休んだ本当の理由は
両親には告げませんでした。何となくではなく、学校での出来
事が尾を引きました。再び通い始める朝のつらさ。

小五までの思い出もとても大切。野球で人気のOさん(←あだ
名。直接話した記憶はないです)や、端整で静かなM君(←お
医者さまの子)に出合えたことが、嬉しいとか、希望とか、深
い想いに結び着きました。

小五まではお弁当持参。小六の最初のお昼は給食のパンが喉を
通らなかった。周囲は残さない雰囲気。教壇からの「残してい
いよ!」で、世の中が変わりました。

小六のI先生はオンナノセンセイ。中学のM先生はオトコノセ
ンセイ。私は先生と話すのが苦手。黙っていては嬉しさも感謝
も伝わらない?

小六の一学期は四番(母の記憶)、二学期と三学期はオール五。
進学校として知られた公立中学入学時は十三学級全体で一桁の
上のほう。クラスのナニ長に命じようとして私を見たとき、あ
まりの頼りなさに断念したとは、直接M先生から聞いた母の思
い出。

進級ごとにクラス替えがありましたが、A君と私は三年間M先
生。A君は番長。一年だけ一緒だったB君はその配下。A君と
はお勤め時代に出合ったことがあります。怪我で格闘技の世界
から引退し、会社勤めに変わっていました。M先生が職員室で
私に漏らした「あいつは立ち直る」の言葉通りに。当時の私は
さり気なく応じながら、漫然と恐怖心を抱いていました。

お病気で、片方の視力を失っていたM先生はとても小柄。教室
では温厚でしたが、職員室では大柄なA君に拳を振るうことも。

他のクラスの担任で、工作室では旋盤、屋上では原付自転車を
指導した先生は、戦時中の新兵訓練を授業に持ち込んでいまし
た。私語だけで鉄拳が飛び、A君とB君は制裁の矢面に。クラ
スの男子全員に、丸刈りを義務付けた先生は江田島(海軍兵学
校)のご出身で、校内各所の鏡で身だしなみを整えた話を聞か
されました。

暗記モノを避けた理由は、結石だけではなかったです。登校し
たくなかった朝が、中学でも波のように押し寄せました。小学
校時代は同じ波の事情が理解できずに、冬などは暗くなっても、
震えながら校庭に残っていました。中学時代は心配で、教室に
いても上(うわ)の空。両親の苦境が見えていました。

大丈夫と言われて、受けた高校は滑りました。その合格者の中
でも、一握りしか合格できなかった名門校は受かりました。数
学は証明問題。答案用紙は白紙が一枚。楽しかったですよ延々
と書いて行くのが。隅までビッシリ書きました。提出時に周囲
を見ますと余白が見える。しまった! 間違った!

私立へ進むのはやめました。私立へ通うのは厭でしたから。

文系志望でしたが、三年は友人H君が進んだ理系のクラス。

高校卒業時の、T先生からの電話の事情を、母は近年まで解ら
なかったそうです。今も仲見世を通りますと「先生、本当に怒
っていたよ」

クラスから男女各一が代表になる「その資格が私にはありませ
んから帰ります」と先生に告げ、卒業式の練習に出なかったの
です。母に叱られたのでしょう再び学校に戻った記憶。

出席時間はなぜか足りていましたが、大学受験も滑りました。
受ける前から解っていました。一年後はその逆。直前に一週間
寝込んでしまい、血尿のまま受験した名門私立も時間が余りま
した。

発表を見に行った全部に合格。お客様ご招待の旅行から、発表
会場に直行した母は「嬉しかったよ。それも学部が二つも」←
先の私立高校と並ぶ名門。今は偏差値が高い名門私立も(統一
的指標や反射的試験は多面性を抑える技術)当時は○円を納め
るだけで(←記憶している額は「僅か」)入学手続きを待って
くれました。

父は無口でした。母も小六の転校時を最後に、勉強については
話しませんでした。しかし私は父の希望を知っていました。そ
れは母の希望でもあったのです。

商家には同じ大学の出身者が目につきます。三中での野球の写
真もお一人がそう。しかし浪人中は三科目だけ勉強。高校時代
は受験勉強そのものを遠ざけましたので選択科目に困り、中学
時代に、好きで自分から学んだ生物(←高校時代は物理と化学
を選択)と、社会の二科目は勘に頼り、暗記モノは避けました。

何年か前に車中のラジオで、異国の某校では生徒が先生を選べ
ると話していました。実験だったかも知れません。外向的な子
は発展的な資質の先生を、内面的な子は静かな先生を選ぶ傾向。

その短所もその後も知りません。しかし生徒に選択の余地のな
い島嶼の学校は、社会的公正の度合が(先生相互の競争が)著
しく劣ると思います。同時に

大学へはあまり通いませんでしたので、今も悪夢に悩まされま
す。当時、私が通った大学の姿が現在の、例えば政壇に顕著な
原型ではなかろうか。誠実さを欠いても通ってしまう原型です。

詐称だけが問題ではないですよ。学歴は大切。なぜなら、学ぶ
場で誠実さを発揮した証明ですから。しかし、入学と卒業がサ
カサマの島嶼の大学制度は、未来にもその原型を持ち込んでし
まいます。

学ぶ誠実さを問われる機会は大学に限りません。運動も、芸能
も、子育ても、地域も、会社も、政壇も、役所もあらゆる場が
そう。

千代田区立の佐久間小学校は、気づいたら和泉小学校に変わっ
ていました。複合ビルに改築した際に変えたそうです。地名や
校名には多くの情報が含まれています。単に住民の希望では変
える根拠になりません。是非を判ずる際は先ず学んで欲しい。
今の島嶼では一般に、学ぶ誠実さが支配的ですか? 裁判制度
も同じ。学ぶ誠実さを問われない判断に依存する社会はとても
不安。




   東京都中央区

 手前は明石町河岸公園


 聖路加ガーデンの広場


 中央前方の建物が病院


 この建物にはホテルも






数ヶ月に一度
朝一番で通院する母に付き添い
病院で受付を済ませてから
この広場に出向き
二人で珈琲を飲みます

あの夏の日は
万一を思い夕刻
ホテルで母の宿泊を手配
病室に戻って間もなく父は亡くなりました

朝は希望が湧きます



次頁へ
前頁へ
クリスマスの季節1へ
折々の文章、始まりへ
折々の文章、下書きへ