折々の文章


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クリスマスの季節 −25−
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先ほどコンビニでお弁当を買って来ました。お昼は一斉なので
大忙し、なのに店員さんの挨拶は決まり文句、つまり早口競争
になっていました。

話し言葉にも表情があります。忙しい時間帯だけでなく、ヒマ
な時間も、スーパーや百貨店でも、お客の印象が滲み出てしま
う挨拶言葉より、無言で応対してもらった方がよかったという
経験、皆さんはありません?

つくば牡丹園へは、たまたま目にした行楽雑誌から、白いユリ
を想像しながら出かけました。しかし園内で発見できた白いユ
リは、末生り(うらなり)の花三つだけ。

見ておいてよかったです。地植えのユリは支柱がないと、倒れ
るのが当たり前と思っていましたが、牡丹園のユリは茎が起き
ていました。手入れがよいのでしょう。

ユリもハナショウブも、私は花に見惚れるだけでは満足できま
せん。園全体でも足りずに、往路では街並み山並み畑並みを、
復路では園内のヒトの印象を思い起こしてしまい、結構、自分
でも窮屈です。

近くの名所と組み合わせ、大型バスが立ち寄る行楽地に、何回
目かに訪れた開園前、パンフでお顔を拝見している責任者が事
務所から現われ、準備中の従業員を叱咤激励してから、我々を
認めて曰く、さあ、入り口の係はすぐに開園なさい!

数週後の会話の折、嗚呼、やはり気づいていたのだなあ〜、と。

責任者の自負が読み取れました。同時に、見たくないモノも見
てしまいました。

張りのある声で「入っていいんですよ」と促され、歩を進めた
瞬間、責任者は、小さな同行者の帽子の下を覗き込んだのです。
園児の顔を品定めする園長先生そっくりでした。なんで覗き込
んだのだろう?と尋ねる顔は、今も曇っています。

スペイン旅行の際、乗り継ぎの飛行場でキーホルダーを買った
二人に、ダークスーツの若い販売員が追いつき、母にキーホル
ダーを手渡してくれたお話をご紹介しましたが、買ったキーホ
ルダーは娘が鞄に入れましたので、若い紳士は、母に母用のキ
ーホルダーを渡したかったのでしょう。

両親の海外旅行も土産話が豊富。アメリカの何処かの専門店で、
ナントカ税とカントカ税を暗算で算出、小銭もピタリと出した
父に、電卓を持ち出し、計算した勘定が一致したのに驚いた係
が、周囲の従業員を呼び集め、父を称えてくれたお話は母の十
八番(おはこ)。オランダの、ちゃんとしたレストランでは給仕
さんから「お金は要らないからそのカメラを下さい」と身振り
手振りで話された場面も。

パリのお酒の免税店では、支払いを済ませた娘の後から、レジ
を抜けようとする母を、大きなご婦人が身を乗り出して抱いて
くれました。二つの免税店の出来事は、私が一部始終を観てい
ます。表現力の違い、なんですね〜。


 ※


ユリ(つくば牡丹園)









 ※

  
はじめて原稿を持ち込んだ際、応対してくれたのは青山さんで
した。事務所は狭く、近所の喫茶店に案内され、いろいろお話
を聞かせて頂きました。青山さんは戦時中、雑誌「改造」の編
集に従事、横浜事件に連座、治安維持法違反で有罪判決を受け、
再審申し立て中の八十八年に逝去、朝日新聞二月十四日付朝刊
の、社会面死亡記事にそのことが載っています。

当時から編集は荒牧さんでしたので、青山さん亡き後、荒牧さ
んと私の間に介在できたのは、印刷会社のSさんだけです。

青山さんにお会いした際、荒牧さんから「青山さんは改造の編
集者だったのですよ」と耳打ちされましたが、当時の私にはそ
の意味が解からず、自分の原稿だけが気がかりでした。

私の原稿について、青山さんは一言も感想を漏らしませんでし
た。荒牧さんも無言に徹しています。しかし最初の出版の際、
校正者と面談した帰り道は暗かったですね〜。校正者との妥協
の産物なんて、校了時は見るのも厭でした。以降、荒牧さんは
私の前から校正者を除いてくれましたが、近年、引退後の荒牧
さんとお会いした折、引き合わされたご友人(女性)の口から、
私の本も校正したことがあると聞かされヤッパリ! 筆者だけ
の校正で出版された筈なのに、二冊目以降にもオヤという箇所
があったのです。

一冊目から校正者がこのご友人でしたら、私は校正者に負ぶさ
ってしまったかも知れません。最初の校正者も名の通った出版
社のご出身でしたが

私との間には、中世の水墨画と現代の漫画ほど距離がありまし
た。その距離はご本人(男性)もわかっていた筈です。しかし
降りてしまいますと、現役を引いたとはいえお仕事を一つ失い
ます。さらに馬の骨の私に譲歩すれば、業界で培ってきた実力
が泣きます。一方の私は、誤植は困りますが、筆者の誤字は訂
正しないで欲しい、だったのです。


 ※


暮らしから枠組を除いたら何が残るでしょう。道路も家も会社
も役所も、規則も制度も、田畑も樹木も新聞もテレビも凝縮さ
せたら?

情報が残ります。ヒトを介して情報が往来します。

ヒトとヒトとが、互いに影響し合う「関係」も残ります。関係
の闇を支配するのが表現力と表現様式。


 ※


絵を描いている記憶があります。小学校西側の正門は、私の通
学路とは縁がなく明かずの世界。出入りしたのはわずかに数回。
残りの「通学日数×五年間」は南と東の朽ちた木戸から。

校舎は木造平屋。三年の頃、東側に二階建てが加わりました。
木造校舎は西側で南に折れ、無人の昼休み、上がりこんだのが
講堂兼体育館。

昼休みの体育館は影の部分。東の窓に渇いた校庭。図工室は講
堂の南隣り。

陽が射し、風が抜け、爽やかで穏やかで、眠り込むのが常でし
た。絵を描いた記憶は夢の教室。


 ※


クレパスから剥がす紙の音が、今も聞こえています。粒になっ
てしまい、親指の腹で擦(こす)りつけました。画用紙の汚れな
んて気にしません。花瓶は群青、お花はガーベラ。

美しく描こう、なんて気持ちもなかったのですよ。クレパスが
香り、見たこともない図が現われるのですから、嬉しかったで
すね〜。ほかに何が要(い)るのでしょう?


 ※


天国と地獄のお話です。実は小学校には、現(うつ)し世の講堂
を挟んで黄泉(よみ)の国がありました。

体育館の北側は演台の聳(そび)える舞台、その東隣り、校舎の
西の外れが音楽室でした。

発声を矯正するとされ、授業中は皆の前に立たされ、昼休みは
呼び出しを食らい、晒し者にされたお話は書きましたが、本当
は音楽、好きだったのですよ。

音痴なのに、転校した小六では音楽は五点評価の5! 驚きの
あまり、小六の音楽の先生(壮年男性)の顔、今でも覚えてい
ます。検察官か能吏の印象。授業は算数か哲学の雰囲気。試験
は筆記や五線譜でしたから、発声は要りませんでした。

中学の音楽の先生(若々しい中年男性)は、表情も再現できる
ほど記憶、いえ、こちらは皆の前で歌う試験がありましたが、
乱調や声の出ない音域は一緒に歌ってくれたのです。最大の感
謝は古典音楽を聴く授業。

小五年までの音楽室、ホントに辛かった。しかし、センセはな
んて意地悪なんでしょう! と思わなかったところが子の偉い
ところ。小四のセンセに、謂(いわ)れのない理由で、つまり放
課後、サボっていた男子生徒の持ち分を、遊びたい一心で一人
で掃除したのに、芳しくない成績が原因でしょうか、冷たい視
線を感じていたセンセ(中年男性)から、サボリの張本人とし
て皆の前で難詰された時も、悔しさと涙が生まれただけで、教
職に対する反感も、オトナに対する不信感も抱きませんでした。
ホントはオトナって、自分も含めてですが、子の寄せる信頼に
値しない、つける薬のない自惚(うぬぼ)れなんです。

小五年までの音楽室は、近づくと冷や汗が流れ、授業中は恐怖
の連続で、嗚呼、これが地獄の苦しみなんだな〜と、つくづく
思っていました。

一度だけ蜘蛛の糸が下りてきました。学校から都内へお芝居を
観に行った、その主題曲に魅せられてしまったのです。歌いは
しませんよ。記憶した画像や音声の方が大切なんです。結果、
ますます無口に、いえ、無音になってしまい、忍従の学習に専
念しました。

絵はどうなんでしょう。

講堂を挟んだ黄泉の一つは校庭でした。早朝も昼休みも放課後
も、霜柱の立った泥濘でも、土埃(つちぼこり)の舞う炎天下で
も、一人でも多数でも、下級生も上級生も、サッカーや、バス
ケットや、野球を楽しめる環境と状況が極楽でした。絵は、煉
獄だったんじゃないのかなあ〜。


 ※


梅雨模様(川口市立グリーンセンター)












アジサイ(能護寺 のうごじ 埼玉県大里郡妻沼町)












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