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折々の文章 |
──────────────────────────── クリスマスの季節 −30− ──────────────────────────── 社会に出てから二十年後、中町の店にOさんの退職通知が届き ました。年賀状のやりとり以外、十年も音信不通でしたが長距 離電話、退職理由を尋ねました。 「厭になってしまったのだよ」 我々の結婚式に招待した時、Oさんは出席を迷っていました。 新入時は所属部課の先輩でしたが、すぐにOさんは異動、私と の接点が消え、会社関係の招待客が訝(いぶか)ると思ったので す。しかし結婚後の私の業務に、Oさんの出席はよい方へ影響 したと考える以外、何も起こらなかったです。 退職後のOさんの進路は華麗でした。大よそ四半世紀ものサラ リーマン生活から、徹底して勉強なさったのでしょう、優秀な 学生でも、簡単には進めない専門職に就かれたのです。転身の 動機は、同じ会社当時の、Oさんのお母さまのご不幸と無縁で はありますまい。その折の想いを二十年も寝かせてから、具体 化させたと理解しています。 JさんとOさんは、体躯も、資質も、考えも、行動も、趣味も 酒量も違っていました。特に違ったのは飲み屋です。素面と痛 飲時の違いを見極めるのが困難なOさんに、案内された最初が 神田駅近く、一階は焼き鳥とビール、二階はウィスキーとアタ リメの、女性が二の足を踏む飲み屋でした。 ※ Oさんは、こちらが音を上げてしまうほど厳密で、着実に仕事 をこなす一人でした。Oさんの社会性は相当早く芽生えたので はありますまいか。浮いた様子は欠片(かけら)もなく、前に触 れた「斯様な先輩社員」とは好対照です。しかし、私はOさん とも「斯様な先輩社員」とも違う「感性」へ傾斜しました。や がて私の煮え切らなさが、Oさんとの間に溝を生んでいました。 流儀を学ばされ、その流儀で著わすのであれば、私は流儀を破 壊します。逃げられる程度の関心であれば、さっさと逃げてし まいます。例えば文章表現は、まあ、腐れ縁ですから逃げ切れ ません。大切です。もしそこに、外の流儀が割り込んで来るの でしたら、あるいは学ばされるのでしたら、その流儀で描いた 作品が最高の評価を得ましても、私は外の流儀を遣り過ごし自 分の流儀で描きます。各自がそれぞれの文体で著わさないと、 長続きしませんよコツコツは。それと 方法も目標も、暗さや硬さが苦手なんです。例えば「高校生の 視野を広げ自立を促す学習」という言葉を目にしますと、息苦 しくなります。お〜い、君! 今度の夏休み、一人で北海道を 旅しないか。ナントカネットワークが家庭泊を提供するぞ。自 転車なら、ほとんどお金は要らないよ。一ヶ月、思う存分、走 ってきなよ。 絵だってそうですよ。恩師と愛(まな)弟子? 窮屈ですね〜。 ピカソとサバルテス! いいですね〜。 ※ 今日は七夕。 私が普段の会話で神田と言えば、大概は神田駅のツモリです。 神田の本屋街? 神田には本屋が、アソコと、ココと、あの隅 と、最近はソッチにも出来ましたが、さて、本屋街がありまし たかな? えっ、それは駿河台下や神保町の本屋街です。神田 で降りちゃいけません、とまあ、頓珍漢な説明に、道を尋ねた 相手は怪訝な表情。 さらに私の場合、神田の実体は、弧や斜(はす)に錯綜している ガードです。近年は解消されましたが、小便がこびりついたガ ード下も。 戦前の母や祖父母は銭湯帰りに、神田駅のガード越しに富士山 を眺めたそうです。中学時代の私も問屋の二階から、ビルの合 間の富士山を眺めていました。 中学時代は神田駅とは関係なく、往路は都電で神保町へ、帰路 は歩いて帰りました。高校と大学は神田から国電で通学。結果、 ガード下の成人映画館も視野に入りますから、神田の二文字だ けですと、懐郷の念を抱くことは難しいです。 飲み屋は別です。刺身の美味い居酒屋、熱燗のコップ酒、肩を 触れながら飲む水割りは、神田と切り離す訳には行きません。 Oさんの行きつけは新宿にも新橋にもありましたが、新卒時の 事業所は中央区でしたので、Oさんと飲む機会は神田がほとん どでした。それと、職場の皆さんと一緒の神田は、駅から離れ た老舗に偏っていましたので、新橋や新宿と違い、会社のヒト とバッタリを避けられたのです。 ※ バッタリ 新卒時は先輩社員が一人、教育係として世話を焼いてくれまし た。仕事が解からない時は「仕事の質問は、私ではなく命じら れた上司にするのだよ」などと教えてもらい助かりました。 私の教育係はNさんです。ご本人から聞いた話ではありません が、Nさんの、すぐのご先祖は歴史上の人物とか。品位も、優 雅な口調も、さもありなんと思われます。 部が「窓際」になった時、教育係が復活しました。いえ、お仕 事ではなく競馬です。Nさんの競馬は、本物と噂されていまし たので、私も本格的に学び、不安な一時期、動揺しないで済ん だのです。そのNさんが本来の教育係だった頃 会社には、鎬(しのぎ)を削っている競争相手がありました。 仕事が終わりますと、Nさんはお仲間と飲みに出るのですが、 誘ってくれますので私も二つ返事。そんなある日 競争相手のお店に、出かけたことがあるのですよ。しかし一年 生の私はルンルンで、Nさんが、私を制した理由が解かりませ んでした。 少し離れた席で、営業部長のお一人が、支店長のお一人と視察 なさっていたのですね。お二人は、笑顔など見せる訳がありま せん。まずかったと思いますよ、私の笑顔。 幸い、この時はお咎(とが)めはありませんでした。 ※ 私の十年は、営業の計画立案、商品化(新製品開発)、全国特 売(キャンペーン)の立案、市場分析、需要予測でしたが、商 品化と特売は短かったです。適性を欠いていました。嫌いでは なかったのですが、私の感覚は現実離れしていましたので、自 分の意見を持たなかったのです。 市場分析と計画の案作りは表裏一体です。部署名も体制も変わ りましたが、新入時から新規事業に移るまで便利屋を全うしま した。その便利屋が終わる頃、もう一つのバッタリを経験しま した。 私の属していた部署には、読心術に長けた影の部隊がありまし た。秘書課の皆さんです。会議には、参加者と会議室が欠かせ ません。最大の悩みがソレ。ところが、憂鬱な顔で秘書課を訪 れますと、私の顔を見ただけで「予定に入れておきましたよ」 とか「会議室をとっておきましたよ」と告げてくれるのです。 ある時、秘書課に上がって行きますと、「飛行機とホテル、予 約しておきましたよ」と告げられました。遠隔の地で、営業全 部署と海外事業所の、責任者が全員集まる会議があり、私も事 務局の一員として、原稿や資料作りに追われていました。 会議資料の完成は、会議前夜が相場ですから、上司と同じ飛行 機と、主な出席者が宿泊するホテルを、私にも手配してくれた のです。助かりました。上司の確認を得るため、仮に神田のビ ジネスホテルから、品川や赤坂の国際ホテルを行き来して、資 料を完成させるのは無理ですから。 完成した書類を上司に渡したのが会議当日の朝。シャワーを浴 び、ホテルの喫茶店で飲んだ珈琲、美味しかったですね〜。 ゆっくりは出来ません。部屋に戻って片付けを済ませ、すぐに 会場へ出かけようと、エレベータが来るのを待ちました。扉が 開き、出てきたお客さまの中に、海外事業を統括しているご重 役! 笑顔で会釈。これが失敗でした。 会議が終わった翌朝、部長から「重役が宿泊するホテルに、社 員が泊まった」ことが問題になったと告げられました。やはり お咎めはありませんでしたが、シマッタと思いましたね。目に 隈(くま)のある、疲れ切った顔でしたら、察していただけた筈 なんです。笑顔なんてうんざりですね〜。 ※ 繰り返しになりますが、私が就職活動を開始したのは、主な学 生も、主な会社も内定が決まってからです。我が家は商家でし たので、無知とは気楽なもの、なんだ、先輩がおごってくれた 珈琲は、人集めの方便だったのか、地域のエネルギー政策を説 明してくれたのですが、勤め先の宣伝と思い込み、厭な顔して 悪かったな〜。 ゼミ以外は、講義に出る必要がなかったのですから、ひたすら 「店」を手伝い、友人に会う機会もなく、就職情報は綺麗サッ パリ蚊帳(かや)の外。 就職活動でオカシカッタのは、私の方ではないのかも。 応募する同期の人数、お互いにわかっていました。是非!と話 していた学生も。何人か応募して、落ちた学生もいます。会社 訪問の際、説明していただいた人事担当者から、帰り際「面談 した学生で、条件を尋ねなかった学生は初めて」と感激されま した。勤めるのが不安でしたので、お勤めとはどういうものか を、根掘り葉掘り聞いただけです。 社長面接の際、志望動機を答えて曰く「これからの、文化的背 景に関心があります」 勤める気概は、述べることができなか ったのです。知らない世界を前にして、やる気を表明できるヒ トは仕合わせです。 ※ 私が結婚した年齢は当時の平均です。結婚が「境」になって勤 め方が変わりました。家庭を大切にしたのです。週末は必ず出 歩きました。人生の相棒がいるのですから、毎日が楽しくて嬉 しくて、まあ、よく外出しました。労働組合運動も、友人との 奥多摩や奥武蔵の山歩きも「境」で終わり、窓際状態も「境」 直前の一時期。新入時の先輩社員も、結婚のお祝いを頂いた担 当役員も「境」まで。 新入時の担当役員は、社内で単独二位の役職でしたが、実際に は部内のお仕事からも、全社の動きからも遠退いていました。 結婚のお祝いは置時計の煙草盆です。手洗いも納戸も含め、十 八畳のアパートに、置時計は置く場所がなかったです。もう一 つのお祝いは、担当役員の名代で出かけたアメリカ研修旅行。 有名大学の先生が引率。消費財大手の常務が団長。各社役員一 人、あるいは名代の部長。 若手は私のほかにもう一人、ある企業グループの後継者。旅行 中の私は一部長からイジメ状態。旅行後、毎年、参加者で懇親 会を続けていましたが、私は最初から不参加。消費財の有力各 社と情報を交わす願ってもない機会。不参加ではビジネスマン 失格ですね。 家庭に集中した結果、社内の目は気にならなくなりましたが、 お勤めを続ける場合、微妙な立場に置かれていました。 媚(こ)びも追従(ついしょう)も通じません。出来が悪ければそ れでお仕舞い。判断を下すのはお一人でした。 独創的で、魅力に溢れた経営者でした。母は私のお勤め時代、 言葉の端々から、そう思っていたと話しています。落胆したの は、父だけではなかったのです。でも、お勤めは立場が大切。 孤立感、深かったです。 是非!と話していた学生の気持ち、三十五年後に理解しました。 ※ 私の労働組合運動は、持ち回りの役員から始まりました。当初 は情宣を担当。不活発な組合を盛り上げるため風刺を作文。そ れを読んだ上のほうから、休眠中の青年婦人部を盛り上げなさ いと命じられました。 私の加入した労働組合は、会社の成長に追いつかず、中小本位 の上部団体に属していたのですが、中小企業とは労働の実情が あまりに異なり、双方の呼吸は合いませんでした。青年婦人部 の掘り起こしも、上部団体の意向に従っただけです。大卒の事 務職本位と、若者中心の現場本位とは、歩調が違って当然でし ょう。 青年婦人部の役員は、入社年次の似通った大卒男子と高卒女子。 青年婦人部でも社会情勢を反映、打ち合わせのたびに意見対立、 悉く「異議あり」を発する部員には、入社試験の面接で、話し た言葉を聞かせて欲しいと願ったほどです。 組合本体が警戒していた一団に所属、激しく自己主張、ジグザ グの示威運動同様、掻き回すのが活動と思っている部員は男子 にもいましたが、青年婦人部には「深入り」しなかったです。 そんな中、言葉少なに、水俣病の映画を上映したのがSさんで す。やはり高卒の女子でしたが(当時の女子社員はほとんど高 卒)その手際、参考になりました。 現代は発言する機会が豊富にあります。主婦も生徒も出演者も、 娯楽番組でもインターネットでも、意見や評論が飛び交ってい ます。その皆さんの一人一人が、Sさんの手際を見習ってくれ たらどんなによいでしょう。自ら実施する課題を抱き、自ら努 力する経験の中から、言葉が生まれるとよいですね。 |