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折々の文章 |
──────────────────────────── クリスマスの季節 −32− ──────────────────────────── 配属された机は事務所内最前列。男女を組み合わせた教室坐り。 正面は八階の窓。見通し不良。居眠りに不適。息遣いが伝わっ てくる至近距離は、女嫌いには正直迷惑。会社は、何を考えて いたのでしょう。 社内旅行の参加は任意、私は専ら自宅待機。部内有志による日 帰りや一泊旅行は積極参加、楽しかったですね〜。 それ以前の旅行経験は 大学時代は、親御さんが九州出身の子と、親戚が名古屋の子の 家庭泊を頼りに、高校時代の友人と九州を旅しています。その 折も結石が発症、友人の佐賀の祖父母宅で、何日間も唸ってい ました。その間、同行者は遠慮なく九州を周遊。 やはり大学時代、大学の友人に誘われ、ユースホステルを利用 して、北海道を旅しています。 高校時代はスキーに限り女嫌いを返上。大学では、出席日数が 不足した体育の単位を取得するため、都内のスケート場通いと 学内のスキー旅行に参加。不足した理由は、結石の鈍痛による 体調不全。 中学時代は力作業、店頭販売、高校時代と大学時代は資料収集、 量販店へ提出する企画書作り、中〜大通して調整役など、バイ ト並みに働きましたので、旅行費用は、結婚して子が生まれる まで、自分の稼ぎで間に合いました。 海外旅行は別です。六十五年の旅行では、親から頼まれた買い 物を除き、自分用は、煙草(三十歳代前半に禁煙)と、絵葉書 と、訪問都市の記念スプーンと記念切手。七十一年の旅行では、 惨めさが際立ちました。 会社を辞めて二十年以上も、私は「辞めた後ろめたさ」に悩ま されています。辞めた当座は押しが強く、我も頑強でしたが、 子育てを続け、多少考えるようになり、世渡りのヘタも認識し てからは、お勤め時代のすべてが失敗のように思われてしまい、 当時の記憶から逃げてしまう体たらく。 インターネットと、橡の木の葉展が契機でした。先輩や後輩の ご来展、ありがたかったですね〜。 会社でアドレスを取得しましたと、上の階で働いていた方から、 四半世紀振りに頂いたお便り、嬉しかったですね〜。 会社アドレスの電子メールには、「開封扱いですよ」のご注意 を返信。 漸(ようや)く、勤めていた頃の自分と向き合うことができまし た。会社には、会社人間としての暮らしのほかに、会社に負っ ていながら、人間としての暮らしもあったのですね。前者は、 会社を辞めた瞬間に清算されますが、後者は、ヒトに属してい ることを学びました。 皆さんも、会社には、ヒトの暮らしもあることを、さらには、 その家族の暮らしがあることを、忘れないで下さいね。 ※ 七十一年の旅行では、ワシントンの美術館で、絵の複製を買っ ています。手持ちの書類鞄に入ったのです。色も形も褪せてし まい、数十年後に破棄。作品はモディリアーニ(1884−1920) の「赤ん坊を抱いたジプシーの女」(1919, 115.9 x 73 cm)。 モディリアーニは私の場合、「そっとして置く」作品が少なく ありません。 毎晩、その日の出張精算と報告書作成に追われ(←仕事を軽く する要件)、気持ちの余裕はなかった筈。不思議ですね〜。帰 国後に結婚を控え、惹かれる何かがあったのでしょう。原画、 改めて観たくなりました。 ※ 記念の複製画、発見しました。デハ、印刷が褪せてしまい、処 分した複製画は何だったのだろう? 台紙はF五号相当、五百 グラム、そのまま壁に掛けられます。作品名や美術館名の小さ な活字も鮮明です。 六十五年の記念スプーンと国連切手も、複製画と同じ書棚にあ りました。 記念スプーンは、カナダのバンフで衝動買い、次いでナイアガ ラ。その際、添乗員から、都市でも記念スプーンを売っている と教えられ、ニューヨークでもシカゴでも購入。グランドキャ ニオン、ハリウッド、ハワイのスプーンも残っています。ニュ ーヨークの一本はノルウェー製。 ワシントンも、ロサンゼルスも、サンフランシスコも立ち寄り ました。最も強烈な印象は、各地の自然と、各地の街並みと、 各地のヒトと、各地のモノ! ですと書くことがなくなります。 ディズニーランドでは、孤独感が残っています。 国連の記念切手集は、上部に UN We Believe 33 East 48th Street, New York 17, N.Y. Plaza 5-0280 下部に UN WE BELIEVE is a non-profit organization working for a more effective United Nations. とあり、1セント、1セント半、3セント、5セントなどの切 手が四十点ほど並んでいます。 この切手集の表現力、今でも好きです。政治力の印象ではあり ませんよ。 64年8月 第一次トンキン湾事件 65年2月 アメリカ、北爆開始 68年1月 解放戦線、テト攻勢開始 73年1月 北爆停止 恥ずかしいのですが、私の旅は「移動するだけ」なんです。買 い物は見るだけで満足、食べ物は、前回のスペイン旅行でも、 珈琲とプディングで足りました。 六十五年の旅行は、旅程も写真も残っていません。なのに何故 でしょう、訪れた各地の印象が、色彩感覚や造形感覚に割り込 んでしまい、現在の個展会場でも、六十五年の旅から眺めてし まう自分に気づいています。その後に加わった視点は、「家族 !」だけではなかったかなあ? ※ 謎があります。六十五年の旅、なぜ私だったのでしょう? 祖父は、投機には消極的でしたが、与えることには積極的でし た。新築のアパート付きの、庭付きの瀟洒な一戸建てを、敷地 ごと知人に買い与えたことがあります。相続関係のない身内に も、優雅な一戸建てを与えています。資金繰りに窮した同業者 には、大金を無利子で貸与、返済は求めませんでした。 祖父の自伝には、金利に釣られ、運転資金を預けていた近江銀 行が破綻した際、押しかけてきた集金人に、痛痒を感じないで 支払ったと記されていますので、当時の祖父は、数万円程度の 出費で、参ることはなかったようです。 戦後、旧円(財産の粗方)を戻された際、紙切れの束を前にし て、江戸っ子気質(かたぎ)の祖母は怒りも露(あらわ)に「そん なもの、燃やしてしまえ」 一方、祖父は終始無言。戦中に、商売を廃業させられた時も 「私とても耳さえ健全であったなら斯う志て居るのではないも のを……斯う志た時代とて一人の徒食をも許さるべきでないと 知るとき私の如きは国家に対して申訳のないよう思われる。」 祖父は晩年、娘と婿に(私の両親に)「何もしてやれずに済ま ないね」と詫びたことがあったそうです。その折を思い返しま すと、母は泣きます。 私は、ゼミ旅行時は教官とゼミ仲間から、新入時は配属された 室長から、大金持ちの子と思われました。父は、戦前を引き摺 っていましたので、資金繰りに窮しながら、要求されるままに 買い与えた「麹町の一戸建て」に住む原告から、屋号継承権の 係争の際、祖父の財産の隠匿を疑われました。 本当にお金があれば、殺伐とした問屋で寝起きする必要はあり ません。住込従業員は早々に男子寮に「疎開」、父が「二人の 城」を建てたのは、還暦直前(私が結婚してから)でした。六 十五年の旅行費用も負担が大きく、ではなぜ、父でもなく兄で もなく私だったのでしょう? 当時はとても自然だったのです よ。今は自然ではなくなりました。 ※ 七十一年の旅行は勤め先の仕事ですが、両親宛の便りには、米 国の都市ごとに、六年前と比較した服装の印象が綴ってありま す。日本の先端部分が追い付いたこと、夏休みの大学構内では、 学生の着衣が無造作だったと書かれています。 通訳が同行した七十一年の旅行では、米国のマーケティング学 者の講義を聴き、多国籍企業のマーケティング部門も訪れまし た。六十五年も物見遊山ではなく(←物見遊山が一人)量販店 攻勢の最中(さなか)、問屋のこれからが問われていた時代に、 業界の今後を占なう願ってもない機会、また商社系列の技術者 も参加、帰国後、縫製システムの自動化に踏みきるなど、生産 技術も学びましたので、「遊んで来なさい」という気持ちは、 父にも母にもなかった筈。ソコが私には謎なのです。 カナダの地方新聞に、一行が写真入りで紹介されたのも、参加 者が熊に出会ったのも、六十五年の旅行です。 私はお勤めに出るのが自然でした。将来を、父と話したことも なかったです。父は、何を考えていたのでしょう? ※ 「家族」とは私の場合、関係と状態を意味します。 「結婚するよ」と両親に告げたのは、我々が結婚を決めたその 晩です。翌朝、私は両親に「今晩か明日、連れて来ます」 二人とも喜んでくれましたが、上の子が小学校高学年に達して からは、私の家族は盆暮れだけ挨拶、泊まりがけもやめました。 父が死ぬまで喜んでいてくれたことを、現在の私は知っていま す。再び両親と私の家族が交流を始めたのは、父の死の数年前、 下の子が高校に入ってからです。 ※ A面は職業生活 ←依存と干渉と牽制→ B面は家族と表現 家族は内々の関係、表現は外交 変則、多面、動態、作品本位 ← いずれも単に私の好み 新線の橋脚。蜩(ひぐらし)の斉唱。葱を積んだ軽トラック。甘 い香り。枝豆の穫り入れ。七月十八日、朝四時半の風景。 ※ その後、会社と同名の建物に移りましたが、新卒時に配属され た事業所は、一階がお菓子屋さんの建物でした。徒歩で百貨店 に出かける際、今も立ち寄ります。お菓子屋さんの表情は、三 十五年前と変わりないです。二階以上は、綺麗サッパリ上書き されてしまい、私とは無関係。 相変わらず、頂くお菓子がかち合います。郊外のお菓子屋さん より、百貨店の地下の方が安い印象。 お昼ご飯、一階のお菓子屋さんでも、食べたことがあるのです よ。ソボロご飯など簡単なお花見弁当。営業部の係長が、お汁 粉を食べていたのを発見、みんなで「ウッソー!」 お菓子屋 さんで食べたときも、女性社員は別でした。 A面の張りを欠いていました。今もそうです。一方、生活の不 安は、塵(ちり)の山ほど溜め込みました。 当時も、A面には何もなかったです。冷たいと言われましたが、 意欲も、感性も、俺がも、演技も抹殺、もっと冷たく頭脳に依 拠、もっと厳しく相互に批判、すべきだったと反省しています。 政(まつりごと)にも同じ想い。 ※ 当時は、女性社員が男性のように、バリバリ働ける土壌ではな かったです。 えっ! 機会は今も? 本当ですか? 信じられません。 そう言えば、言わなくても、転職の機会も不自由ですね〜。私 は、一所に十年が限度なんです。十年経ったら、別の世界に飛 び出したい。ところが、我々の社会では落ちこぼれ、いえ、主 体的には例外なんです。進取とか創造とか言いましても、職場 を一所に限られますと、発想も判断も、凝り固まってしまいま せん? 昇進の条件に、転職経験を加えたらどうなんでしょう。 感性の違い? 閉ざされた社会の個性? さあ。 高校時代は、女の子とスキーに出かけたのですよ。大学時代は ダメでした。店の手伝い優先? 手伝いに障るほど、スキーは 本格的ではありません。学内には、見渡す限り、女の子がいな かったのです。 会社には女の子がいましたので、高校時代に里帰りできました。 生憎、男の先輩にスキー好きが見当たらず、スキーのバス旅行 は、女の子数人と同期の友人(男)が専らでした。スキー宿で は雑魚寝も。 ヘンなのは今の方ですよ。はじめての海外旅行で、衝撃を受け た生活習慣が二つあります。一つは、「アリガトウ・失礼シマ ス」抜きでは旅行できなかったこと。日本語で足りました。も う一つは、鞄を足で動かすこと。 悲しいですね。鞄を足で動かす習慣は、皆さん見事に我が物に されましたが、同時に、今やヘンが、寡占媒体でも共有媒体で も日常化されていません? 昔話を読む時は、倫理観や道徳観 も、ヘンでない社会や、ヘン以前の時代に差し替えて下さいね。 ※ 新卒から結婚する迄の数年間で、今でも「意味付け」できる思 い出はOさんです。私は律儀と気ままが同居、コツコツと奔放 が雑居、冷たさと「飛び出そう」が同時進行する性格ですが、 Oさんは秀逸と不屈が同居、温厚と厳格が雑居、もし戦火に遇 えば、誰の為に戦うかを認識、決して怯(ひる)まないであろう 一人でしたので、畏敬が増すと同時に負担も深まり、私はある 日「飛び出そう」 戦後という言葉、ほとんど見なくなりました。不思議だったの ですよ、「戦後は終わった」という成句が、戦争経験者(当時 は多くの大人がそう)から発せられるのが。 量は僅かでしたが、社会に出る迄に、読んだ書物は圧倒的に戦 争絡みでしたね。日本文学だけでなく、サルトルなんかも全集 を片端から。朝鮮戦争はアメリカの劇映画も観ました。異国に は「戦争と平和」なんて古典もありましたでしょう。ゴットフ リート・ベンの「二重生活」も。戦時中のピカソにも興味があ りました。Oさんが開いた勉強会で、私が選んだ本は、太平洋 戦争の専門書でした。 ※ 社会に出て一、二年で、主体的に働くのは難しいと思いますよ。 私は十年目でも難しかったです。特に新規事業は、計画段階で 逡巡する無事の方が、失敗の責任を負わされるより魅力ですか ら、役職に関係なく立案段階で、事業の当事者を移籍(出向で はなく除籍)しないと、蟻が象を操る事態になりかねません。 終身雇用が崩れつつある(?)今も、転職の不自由を考えますと、 状況がどの程度変化したか判りませんが、当時は「お勤めを全 うする働き方」が一般でした。 新規事業だけでなく、分業と協働に依存、配分と再配分を要す る職業生活そのものに、主体的に働く難しさがあると思います。 ですが当時の私は、二重生活の、社会的意味合いだけでなく、 個人の生活様式も、考えることが出来ませんでしたので、与え られた課題を、当たり前とも思わずにこなし、余暇は趣味に娯 楽にと、そう、確かに充実していました。 |