折々の文章


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クリスマスの季節 −404−
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真砂から砂浜へ

私が初めて操作したPC/AT互換機は ハードディスクがなく、実
行用とデータ用のフロッピー二枚だけで操作するラップトップ
の三菱MAXYでした。それでも帳票の雛形を作成してから、日本
語FEP を外しておきますと、貿易、生産、経理などの事務処理
に威力を発揮、目に見えて時間と手間が省けましたので「義理
で導入したものの持て余しているであろう小さな会社」の処分
品に思い至り、ある経路に問い合わせましたところ、当初はプ
リンタとのセットで三万円、やがて点検する暇がないとかで一
山三万円で取得、大手でも珍しかった時代に一人一台、 PC/AT
互換機(AX規格)を使えるようにしたのです。

当時のMAXYと今のパソコンでは何が変わったのだろう?

新卒時のお勤め時代、新幹線で遠方の事務所に出かけ、部屋全
体を専有するIBMを使わせてもらった時は、大きいな〜! と思
わず溜め息が漏れました。同じ職場でコピー機を使えるように
なった時は、女性社員にお願いする重圧から救われました。新
卒時代の二人一組の教室坐りは、男性社員が仕上げた報告書を
女性社員が半透明の方眼紙に鉛筆で清書、青焼きを役職者に配
布するのに好都合だったのです。青焼きとコピー機では何が変
わったのだろう?

インターネットが表現に課している変化を、私は理解している
と思います。インターネット以前は過程と総身が省かれていま
した。利用できる媒体がなく、情報開示に難ありの状態を余儀
なくされていたのです。

MAXYのフロッピーに主(あるじ)の居場所はなかったですが、今
のパソコンにも主(あるじ)の空白が目につきます。昔は常に目
一杯でしたが、今も真砂状態は変わらずです。今は波が寄せて
は引いて行く砂浜があるのにです。

情報の革新技術が結果する変化は、今まで出来ていたコトモノ
を速く、安く、広く、綺麗にするだけではありますまい。今ま
で出来ていなかったコトモノの実行も課していると思います。
例えば報道。例えば評論。例えば学問。例えば技術。例えば政
治。例えば経済。選り抜いた真砂であっても、粒で浜を感受す
るのは不可能ですから。



 結婚





 ∞

私の九冊目と十冊目の随想は、ある交響曲を聴きながら読める
ように合わせてあります。「ながら読み」しますと繰り返し読
みが可能になります。発見でした。聴くだけでも読むだけでも
味わえない興趣。その頃からです、例えばですが、見解を「否
定する」と書いた箇所を読み返して、リズムがヘンな場合は、
ヒテイの三音をコウテイの四音に改めるようになったのは。

十万字や二十万字の中の否定一箇所を肯定に改めましても、曲
がる程度は知れています。文章も「表情」が大切です。編集者
や校正者や表紙絵が介在する、誤字のない、活字の綺麗な書物
の方が、表情の変化の度合も著しいのでは? 小学生が描いた
水門の絵に朱を落としても、絵の個性は伝わりますが、大人が
風合いを変えてしまえば、見飽きた入選作が増えるだけです。

ヘンなこと言わないで下さい

 ∞

客体化の鏡として、インターネットほど有効で、インターネッ
トほど普遍性のある媒体を知りません。比較級のもの言いは不
正確です。過去、共有媒体(あるいは普遍媒体)はなかったの
ですから。

解けた疑問

 ∞

過去、寡占媒体を利用したお一人お一人も、戦争については新
聞や雑誌を待たずに語り掛けて欲しいです。ところが、自分の
サイトを宣伝するため、著名な知識人の公式サイトを探しまし
たところ、限りなく無に近い現実に愕然(がくぜん)とさせられ
ました。今の私は職場を一歩離れますと、音楽なしではいられ
ません。昔、お酒なしでは暮らせなかったのとそっくりです。

インターネットが一層浸透しますと、寡占媒体の報道にも影響
が現われるかも知れません。一語一語の発言を点検して摘発し
ていた「正義の訂正要求」が、単なる揚げ足とりに変わったり
して。その寡占媒体自身、過去の膨大な活字は悉く無謬なんで
しょうか。

私の随想は大昔からそうだったのですが「表現は総身」という
考えを貫いています。全部の随想がたった一冊なのですね。イ
ンターネットの個人サイトも、もし表現を試みらていられるの
なら、誤字誤謬満載の総身になるのがホントウだと思いますよ。
無謬の人には就いて行けません。現在は印刷媒体の「枷」から
解放されたのですから、特に寡占媒体で知性とか権威とか称え
られている人になればなるほど、インターネットで総身の表現
を……

書くも描く同様「自然」なことでは?

 ∞

先日来、寡占媒体でも共有媒体でも一つの話題が取り沙汰され
ています。ある放送媒体の支配権を、誰が握るかというとても
古風な買収劇、なのに不思議ですね〜聞こえてくる言葉に、新
媒体と旧媒体を融合するとか、旧媒体の終焉(しゅうえん)を早
める等の主張や解説が紛れ込んでしまうのが。

文章表現の私の態度は「ふり〜」にあります。表現する気持ち
の自由と、公開の機会均等にあります。商業出版社にも趣味の
団体にも依存せず「ふり〜」で表現できるのがインターネット
の時代です。それは文章表現を、媒体の枷から解放することに
はなりますまいか。代弁者の文筆に拠らず当事者が直接自己を
著わし、媒体の権威に拠らず読者が直接試食する、状態が拡が
るとよいですね。

過去の言説に責任を持つ発行者や執筆者は先ず見当たりません。
言論の世界は言いっ放しが常識なのでしょう。

総体の表現を、時間の制約も、量の制約も、金銭の制約も、地
域の制約もなしに出稿できる媒体は、従来の技術では考えられ
ませんでした。時間を刻み、部分を千回小出しにしても総体は
掴めません。しかし先端事業者を除く多くの会社は、未だに従
来型の表現をインターネットに横滑り----させていようといな
かろうと私にはどうでもよく、権威ある文筆家の姿勢に関心が
あります。

インターネットを貧しくするか豊かにするかはヒト次第です。
文章の表現者、特に権威ある論客が、これまでマス媒体や有力
な出版社を介して流してきた言説は、得意になりたかった? 
お金が欲しかった? だけではありますまい。表現の中身に、
主張の流布に、問題意識の醸成に、あるいは啓蒙に第一義があ
ったのでしょう。ではなぜインターネットで自己の表現を、そ
の総体を公開しようとしないのでしょう。当事者による総体の
表現を、文章の総量開示を、実現させてくれたインターネット
は、権威ある傍観者と干潟の沙蚕(ごかい)の違いも、明らかに
させてくれました。

マスコミに白旗を掲げるインターネットの表現理念

 ∞

……耳元でカラスとキジバトが、嘘ね、嘘ね、また嘘ね

借景の演出、あるいは点の撮影角度

 ∞

最初の校正者と私の間には、中世の水墨画と現代の漫画ほど距
離がありました(私は後者)。その距離は校正者ご本人もわか
っていた筈。しかし降りてしまいますと、現役を引いたとはい
えお仕事を一つ失います。また馬の骨の私に譲歩すれば、業界
で培ってきた実力が泣きます。一方、私も誤植は困りますが、
文章は「誤字も訂正しないで欲しい」だったのです。

誤字も訂正しないで欲しい

 ∞

情報の開示と情報の提供は、同じではないですよ。

涙国は情報開示の暗黒星雲?

 ∞

木を切るのは好きですが、木を切るのは嫌いです。

どっちでもいいや




 ※

  
かくて誰もが

Aさんは、最も身近で最も詳しい筈の自分の歩みには触れない
で社会を語ります。B評論家は、最も身近で最も詳しい筈の自
分の暮らしには触れないでマスコミを語ります。C記者は、最
も身近で最も詳しい筈の自分の新聞社には触れないで教育を語
ります。D学者は、最も大切で最も詳しい筈の自分の大学には
触れないで政治を語ります。E政治家は、最も大切で最も詳し
い筈の自分の政党には触れないで国際を語ります。F外交官は、
最も大切で最も詳しい筈の自分の大使館には触れないで文学を
語ります。G作家は、最も大切で最も詳しい筈の自分の家族に
は触れないでAさんを語ります。かくて誰もが、自分を棚に上
げホカを語ります。理性的で、味わいのある「足許」が満ちる
のはいつだろう。インターネット固有の表現様式は、まだ緒に
つく前……なのですね。

マスコミに白旗を掲げるインターネットの表現理念


評論家も、学者もジャーナリストも作家も、子育てが済んだで
あろう年齢に達して、なお自己の拠る立場を伏せたまま、自己
の問題意識と世界観を開示しないまま、他を論断する表現態度
は、社会的公正を欠いていると思います。

↓表紙より ←最新の表紙へのリンク

美と生活主題にした表現試み      リンクは2005年現在
19 Mar 2003 から 17 Apr 2003 までの日記
風土と家庭に触れた折々の書き込みなど

2003-12-05 入居者募集
2003-06-15 海図
2004-08-24 提供と開示


 ※




  
補正 井頭公園(栃木県真岡市)

 トチノキ 逆光補正



 補正

 補正

 補正





 トチノキ 補正




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