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クリスマスの季節 −409−
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立ち姿 栃木県那須郡那須町
茶臼岳とその周辺
ニキ美術館
似てません?立ち姿
娘が小学校に入ってからは、私の家族は正月の挨拶以外、両親
と集うことはありませんでした。子らが幼い頃は、三世代の家
族十数人で、行事のたびに会食したり、海やスキーへ出かけま
したが、私が家業に加わってからは、会社で毎日顔を合わせ、
意志を通わせていた事情もあって、実家を訪れる必要を感じま
せんでした。一方、妻側の両親や家族とは、お盆とお正月の会
食を欠かしたことはありません。
当時は事業の先行きが厳しさを増し、家族を渦中から遠ざけた
いという気持ちが働き、両親を我が家に招く以外、私の家族は、
両親や兄の家族と交流を断ったも同然でした。昔は仲よく遊ん
でいた従兄弟同士ですから、突然交流が絶えたことを、家族は
いぶかしく思っていたでしょう。
目の前に家業があれば、依存であれ協働であれ同調であれ反発
であれ、子は必ず家業に影響されます。社会に出てからも影響
される「恐れ」があります。我が子にその轍は踏ませません。で
すから家業の場は実家であっても、家族の目から遠ざけたので
す。因みに上の子の就職活動の際、私は自分の職業を子に、説
明する必要があったほどです。
父の検査入院の折、家族の足が遠のいていたことを詫びますと、
母は「なにもかもわかっている」と言ってくれました。母だけ
でなく父も「よくわかっている」と知らされ思わず頭が下がり
ました。私は両親を観察して「よくわかっている」つもりでし
たが、二人も私を観察して、なにもかもわかっていたのです。
失業には我が子に対して、胸の張り裂けるような切なさがあり
ます。事業の蹉跌(さてつ)には失業のつらさに加え、返済の苦
しみを家族まで巻きこんでしまう恐れがあります。ですから事
業に携わる個人は、常に破綻した場合を想定し、家族を巻きこ
むことのないように、個人と会社を通算した貸借を把握、進退
の境界を明らかにしておく必要があります。家業ともなります
と、父の死でさえ「個人の事情」ではなくなります。
私は自分だけでなく一族の、資産負債を直感で把握する習慣が
こびりついていますので、今回の父の死もただ悲しむだけで済
んでいますが、そのような習慣のない関係者は母も含め、貸借
に不安を抱いているのではありますまいか。
裸になる程度では済まされない厳しさが事業にはあります。私
の将来の退職金? 支払い余力にかかわりなく、営業に寄与し
ない損金は当事者である私が認めません。ですから自己の「私
的必要」は、事業とは別に、私個人が独力で捻出しました。私
が裸一貫から起業したのあれば、事情は違ったのかも知れませ
ん。しかし、家の歴史と取引の相互作用のため、身動きのとれ
ない事業の場合は(中小企業の大半は、そのような状態ではあ
りますまいか)目前に迫る奈落を承知で、歩を進めなければな
らない場合もあるのです、と昔の随想では弁解がましいことを
書きましたが、なんのことはありません、叡智の極みとされた
面々が主導する大規模事業も軒並み破綻、国の経済基盤まで脅
かして自助を放棄、するにもかかわらず退職金まで持ち去って
行くのですから、一銭の施しも受けていない我々は、自己の非
力を恥じる必要もなくなりました。
随想を書き始めた当時、生命保険の契約を増額したことがあり
ます。近所の食料品店に、興信所の調査員が訪れ、私について
あれこれ尋ねたそうです。その保険契約は、幸い損金扱いで満
期を迎えましたが、当時の私は、自分の死でさえ、選択肢の一
つにすぎなかったのです。
切なさはあっても恐怖を抱えた経験がないと、私の両親の気持
ちはわからないかも知れません。その二人はある年から正月以
外、私の家族と顔を合わす機会がなくなったのですから、初孫
の私の長男や、両親が幼稚園の運動会を見に来てくれた二男の
場合と異なり、下の子(娘)の印象は薄かったと思います。
孫娘は両親の身近に、ほかに二人もいますから、美術を志望し
なかったら、私の娘は、隔たった土地で生活する祖父母と孫の
ように、疎遠のままで終わったでしょう。ですが娘は美術を選
び、母は日本画に打ちこんでいました。娘が美術志望を決め、
私がその気持ちを母に伝えた瞬間、六十年の歳の差が消え、母
は女学生のように目を輝かせました。母が喜んだのは、孫娘の
姿に、昔の「父と娘」が蘇ったからではありますまいか。
娘の進路がはっきり美術に変わったのは、中三の夏休み直前だ
ったと思います。推薦を得るために、娘は中学から直接、講習
の受講をすすめられていたのですが、娘の場合、中学が保護者
に配る「お知らせ」は事後でも届けばよい方でしたから、やは
りその例に漏れず、締切日の翌日に申し込みの必要を知らされ
ました。この調子はほんの手はじめで、以後、幾度となく、娘
の美術にはきりきり舞いさせられました。
結局、中学側が電話で高校側の了解を取りつけ、参加できるこ
とになりましたが、デッサンと油彩を仕上げる講習は三日限り
の、中一日が剣道の県大会と重なってしまい、娘が担任に相談
しましたところ、県大会優先が答えでしたから、担任も、娘の
志望を本気にしていたとは思えません。またわずか三日の講習
の一日を反故にしては、高校側も快く思うはずがありません。
まだ娘にとって、美術は漫画を描く方便にすぎなかったのです。
子が巣立つまでは子育てのために、我々夫婦も葛藤と相克の中
に身を置きましたが、子が巣立ったあとは、死と鉢合わせする
までただ生きるだけです。ところが下の子の巣立ちが本人の志
望によって、文系の大学一般の例とは異なり、六〜七年も早く
方向づけできたのですから、食いしばる顎の力が少し緩んで、
我々夫婦も、土曜の昼はラーメンを食べにでかけ、日曜は美術
館を冷やかすようになりましたが、偶然に立ち寄った美術館で
楽しんだのが、有名な漫画家の特別展であれば、帰宅後、娘が
残念がったのは当然なので、今度は事前に調べ、別の漫画家の
特別展に足を運び、親子で楽しいひと時をすごしました。その
頃は、ゴルフと海外旅行を楽しみにしていた父同様、我々の美
術も「消費」でしたので、父との接点はなく、母とも住んでい
る世界が違いました。
娘が進学した最初の連休に、美術館見学の宿題が出ました。
私の住んでいる県ですと、美術科の高校に心あたりはなく、そ
もそも美術科の存在さえ知りませんでしたので、娘が探してき
た隣県の高校が有力となり、しかも中学の推薦が効くとなれば、
併願も許されないたった一つの縁(よすが)として、何が何でも
合格を祈願した、その「普通科美術科」の真価を理解するには、
傍観者の我々はもとより当事者の娘でさえ、卒業したはずの高
校へ、さらに三週間も通う必要がありました。
娘の入った高校では、美術科の教室は一学年に一つだけ、その
一年次三十人の、一人は病死、二人は進路を変え、卒業時二十
七人の教室では、デッサンや平面構成、彫刻など課題ごとに先
生が異なり、講師を中心に美術の先生が十三人もいましたので、
詰めこみの塾勉とは対極の意味で、つまり技術修得の場であり
ながら、技術抜きの、自由とか主体性を学ぶ意味で、よい勉強
になったと思います。先生の多彩な顔触れも、母が喜んでくれ
た一つです。
美術館見学の宿題には先生が一人一ヶ所、おすすめの企画展を
紹介したチラシが配られました。しかし入学直後の五月では同
行する級友に心あたりがなく、一人で都心へ出かけるのも心細
く、我々と一緒となりますと、渋滞と駐車場難の美術館には及
び腰で、候補の美術館は、私が住む土地のさらに「奥地」に限
られましたが、そこで出会った現代作家の夫婦展が、娘と我々
夫婦の、次いで母と、さらに父との、新たな交流の鉤(かぎ)に
なったのです。
母が、西欧の芸術家で、画布を銃で打ち抜くなど、一時は過激
な作風で知られた女性作家に、まさか惹かれるとは思いません
でした。五月の宿題の折、娘と出かけた美術館で、妻も私も気
に入ったのがこの作家の、過激を超えた時代の作品でしたので、
何かの折に、この作家の美術本を贈ったところ、目を輝かせた
母が新鮮でした。
母は自分の父親同様、美術が好きでしたので「年末にこの作家
の美術館に行くつもりです」と声をかけましたところ、二人は
その場で同意、両親を交えての家族旅行が実現しました。
参加者は両親と我々夫婦、それに中の子と下の子(娘)でした。
中の子は家族旅行でもノコノコついてきます。しかし大学の行
事や徹夜のバイトのため(深夜放送の手伝いとかで、夕刻から
翌朝までのバイトを毎週続けていました)中の子とも家族旅行
の機会はなかったです。
働きだしていた上の子は、中学の頃から「家族とは絶対に旅行
に行かない」と宣言、それ以後、宣言を誠実に実行し、祖父母
にとっては初孫なのに、祖父母とも我々夫婦とも旅行には行き
ませんでした。しかし父の最後の入院時、自分から時間を空け、
見舞いに来た孫はこの子でした。
親との家族旅行を拒否したのは下の子(娘)も同じです。しか
し、五月の宿題がきっかけで、美術館に限って我々と出かけ、
また祖父母には感謝していますから(我が家の子らは、父方で
あれ母方であれ、我々夫婦より、祖父母の方が優れていると思
っています)先約がない限り、美術館と祖父母を引き合いにし
て家族旅行に誘えば、あとで友達から誘いがあっても、家族旅
行を優先する力関係が生まれていました。
中の子が新幹線のホームで両親に会った時は、ただでさえ無愛
想な性格でしたから、ぎこちなさを隠せません。ですがこの子
は、酒席を除けば「枠外」を自分の居場所と心得ていますので、
放っておいても満足できる、そのことを両親もすぐに理解。
十年ほど昔の家族旅行は、そのつど「これが家族団欒の最後の
機会」という悲愴な覚悟がありました。しかし今回の二家族合
同の旅行では(一つの家族ではありません)恐怖感が遠のいた
上に、命じれば面倒を見てくれる子が二人も加わったのですか
ら気楽そのもの、十分に両親を気づかうことができました。タ
クシーに乗る時は、自分の家族ではなく両親と乗車すればよい
のです。歩く時は、妻と娘が母につき添い、三人でお喋りを楽
しめばよいのです。その折、父はなごやかな顔で聞いています。
師走の二十七日は温泉街もすいていました。賢明な時節選びと
はタクシーの運転手の言、渋滞を知らずに美術館に到着、雪は
なく、霜枯れた雑木林をゆっくり歩いて入口へ。
入場券を買って、最初にのぞいたのは記念品売り場。どれも女
性作家に関連した品々で、踊っている人型のブローチに魅せら
れ、さっそく買ったのは母でした。このブローチと娘のニュー
ヨーク土産のスカーフが、日本画の教室で評判になった取り合
わせ。
見終わってから、改めて画集も絵葉書も買いましたが、美術館
の記念品売り場で、鑑賞前にお土産を買ったのは初めての経験
です。母はよほど嬉しかったのでしょう。
入り口ですれ違った男女のほかは無人でした。鑑賞中も、監視
人さえ見あたりません。現代美術の企画展でも、これほどの貸
し切り状態は滅多にないでしょう。
記念品を買ってひと安心したのですから、先ずは一服、前に進
めば展示室、右にそれれば喫茶室、を素通りするほど急ぐ必要
はありません。六人坐っても、まだゆとりのある大テーブルに
案内され、カップチーノ、エスプレッソ、アイスクリーム、珈
琲など各々好みの飲み物を注文、父と母も、六人の真ん中で寛
いでいました。
女三人が女性作家への親しみを増し、次はその作家が設計した
公園へ海外旅行を夢見たところで遅い昼食、館内の喫茶室は利
用済みなので、最寄りの観光施設を予定、案内書では徒歩十数
分の距離、ならば風もなく、散策には手ごろと考えたのが間違
いでした。見通しはよいのですが、舗装道路に歩道がなく、坂
が多く、タクシーの姿も見えず、様子を見に走った私の足なら、
確かに十数分で着きましたが、道ばたで待たせてあった父や母
は、二倍の時間がかかりました。
無為も疲れもただ一つことさえなければ、旅行中の齟齬はすぐ
に楽しみに変わります。父は自分の衰えを認めていました。母
は父の衰えに不安を感じていました。しかしただ一つことはま
だ存在しなかったのですから、この家族旅行はどのような不手
際が生じたところで失敗はありません。子らが成長後、初めて
二日も一緒だったのですが、笑いを必要としないほど溶けこん
でいましたので、お風呂と夕食を考えただけで、疲れは吹き飛
んでしまいました。
旅館は期待したより質素でしたが、部屋は広く、露天風呂もあ
りましたので、女三人と中の子は放って置いて、父と二人で風
呂場に向いました。父との入浴は十年前にゴルフ場で経験、体
の老化は想像通りで驚くような変化は認められず、むしろ走り
こんでいた私の方が贅肉のない分、すじ張り、肋骨が浮き出て、
老化が進んだような状態でした。
風呂場ではそっと手を取り、一歩一歩確かめながら洗い場に向
かい、奥の扉を押し開け、露天風呂に導き、今度は父の手を握
り締め、滑った時は受けとめられるようにと足場を固め、風呂
の中央に導きますと、自分で坐り心地のよい石を見つけ、ゆっ
くり湯につかり始めました。
湯はぬるめで、松の木を吹き抜ける風が心地よく、いつまでつ
かっていても湯あたりの心配はありません。風の音が聞こえ、
父となごむのに言葉は要らないと、考えることさえやんでしま
い、父には私がいるだけで、私には父がいるだけで、満ち足り
ていたのです。
……随想 橡の木の葉 99-07-30〜99-11-19
16〜18、21、23〜24、42〜47
夫婦揃って喜寿を迎えた私たちにとって、この本の内容は心に
しみ入ります。いや、しみ入り過ぎるといってもいいでしょう。
たくさんの人生の教訓が含まれています。
……寄せられたご感想より
ニキ美術館では受付に申し出て
書類に必要事項を記載することで
写真を撮ることができました
但し三脚と商業利用は不可です
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