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クリスマスの季節 −40−
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昭和三十五年(?)の夏、富士で撮った写真が、両親の写真の束
に残っていました。乳幼児の私の写真は、両親も見たことがあ
りません。はじめからないのですから、無理ないですね。我が
家では、中の子の写真がガタンと減ります。
中学の修学旅行の写真も、母の手元に残っています。私は一点
も写っていません。写真の同級生は、名前も記憶していること
に気づきました。
大切にしていた自転車は、神田に越した瞬間、商用自転車の邪
魔物扱い。厭な思いを避けるため、手放しました。
「店」の手伝いを除いて、神田に越してから結婚するまで、自
転車に乗る機会はありませんでした。例外は中学の授業中、屋
上で乗った原付自転車(←戦中の小型動力を取り付けた古い自
転車)。原付自転車の実習は、就職組に必要だったのかも知れ
ません。
※
矢切に越して暫くは、自転車もありませんでした。
社会に出てからは折々、関西へ出張しました。宿泊費を浮かす
ため、「店」で借りていたマンションを利用、便利な場所にあ
り、連絡抜きでも泊まれました。
私の関西出張は新幹線でした。商談見本を運んでいた「店」の
営業員は自動車でした。車種は様々。レンタカーも。
ある土曜の出張帰りに、「店」の営業員から「試乗しますか」
と誘われたのがホンダのスポーツ車。とても小さく、とても低
く、遊園地の電気自動車を連想。これなら俺でもと、軽い気持
ちで運転席に坐ったのですが、驚きましたね〜、ペダルがなか
ったのです。
腰をずらしても届かず、とうとう寝転んでしまい、やっとペダ
ルを踏めました。結果、前方は見えず、天空を見ながら飛ばし
ました。開通直後の、無人状態の高速道路では、前方の下半分
が見えなくても、困ることはなかったです。
学生時代から、運転は当たり前でしたが、近年は、運転が怖く
なりました。法令と運転者の、どちらが現実離れかは知りませ
んが、首都高も街道も住宅街も、車間距離は目茶滅茶! 制限
速度で走る車は邪魔者! なんですね〜。
日本列島を、ぶっ飛ばせる高速道路が貫いていたらな〜、なん
て思ったことありません? 既に手遅れ? チマチマした考え
で、無駄遣いする習慣は、そろそろ卒業して欲しいです。
※
街をよく歩きます。歩くと街の様子が分かります。好奇心が満
たされ、親しみも湧きます。矢切に越した時も先ず歩きました。
しかし、広かったですね〜、関東平野は江戸川の縁(へり)も。
神田に越した時も、会社の先輩に誘われるまで、浅草寺に出か
けたことはなかったです。矢切に越した時も、野菊の墓や矢切
の渡しは、散歩途中、偶然に立ち寄りました。
徒歩では辿り着けない未知を、放って置けない性分ですので、
自転車を購入しました。どうしても置けなかったのが階段下の
自転車溜まり、利用の都度、一階と三階を上げ下ろし。
矢切のアパートは、近くに昔そっくり八百屋さんと魚屋さん、
少し離れて食品スーパーがあり、自転車なしでも暮らせました
が、道が狭く車が多く、自転車を乗りまわす自由と安心に欠け
ていました。
※
昭和四十九年(74年)九月の江戸川です。台風一過、河川敷
も冠水。親子連れが遊べるようなら大したことないです。土手
の縁まで、濁流が渦巻くこともあるのですよ。水が引くと、自
転車を乗り入れる不心得者も。車輪の跡で芝生が台無し。多分、
右手の木立が、矢切の渡しの舟着場。
同じ土手の反対側です。木立が連なっている辺りが市川−松戸
のバス道路。今も高台の緑、連なっているのかなあ〜? 矢切
のネギ畑、健在ですね。当時は春の小川の雰囲気、残っていま
した。
昭和四十七年十一月、矢切のアパートから撮った東方面です。
次の二点は、四十九年一月に撮った東方面と南方面。北方面と
西方面はもっと混んでいました。
東方面は住宅が途切れています。この「境」が、薄れてしまい
ましたね〜。田園緑野が虫食い状態! 一年半、千葉県、茨城
県、栃木県、埼玉県を走り続けた実感です。
※
矢切時代の写真箱に、七十一年の研修旅行の際、嫁さん(結婚
直前)に宛てた絵葉書が入っていました。西海岸に到着した日
の絵葉書の、頭の部分が最初の画像です。
二点目は、十日の夜に書いた絵葉書です。米国の学者の講義を、
通訳と日本の学者の解説付きで聴講。マーケティングの勉強ナ
ノニ、営業や宣伝に触れず、価値観の変化と、生活様式がどう
変わるかに終始、帰国後、報告書が「役立たず」で困ったので
すが、絵葉書にも「アメリカの進んだ個人は、客観的立場から
主観的内面的立場に移行する」とあります。
十四日、デンバーのホテルで日本からの便りを受け取っていま
す。私の方は「なんとなく眠く、なんとなく食事が合わない」
「絵葉書を持ち帰るのは味気ないので、毎日書いては投函して
います。郵便配達員もあきれているでしょう。」
サンフランシスコでは、ステーキのディナーを二度も食べてい
ます。ビフテキとパンとサラダ。一食につき1ドル69セント。
169円の感覚。ニューヨークでウォルドルフ・アストリアに
泊まるなんて、信じられます?
カフェテリアを嬉しがっている様子もありました。好きな食べ
物をセルフ・サービスで選んでお金を払う、2ドルで十分、3
ドルはとても食べられない、はじめは見境なくなくお腹に入れ
たが、今はほとんど菜食、日本の食事は、量が知れているから
安心できる、など。
ニューヨークです。旅程の三分の二が過ぎました。シカゴでは
勉強が忙しくお休みしましたが、他の都市では毎日投函してい
ます。疲労が蓄積、考える力が湧きません。二十二時。日本か
らの第六報と第七報がたった今、部屋に届きました。
※
七十九年、あるいは七十八年に、出張でカンザス・シティに出
かけた折、仕事の写真のほかに、訪問の記念として、三枚組み
連続写真を撮りました。その二枚が上の写真です。
私は昭和と西暦が混在しています。年号では四十年代前半、西
暦では六十年代後半を境に、記憶が年号から西暦に入れ替わっ
てしまいます。我ながらとても不便。
写真には、アメリカの国旗の脇にミズーリ州の旗が写っていま
す。上の写真の手前の道路は、下の写真の道路に続いています。
下の写真の右手の建物(当時のユニオン・ステーション)は、
上の写真の左手前の建物につながっています。
「街をよく歩きます」と書きましたが、広いですね〜、カンザ
ス・シティの街路は。
街を歩くには先ず防犯、次いで広さも頭に入れないとタイヘン
です。大陸も横断できる足踏み自転車は、広さの心配はないで
すが、傷病と交通事故が心配。自助による修理も必要。
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