クリスマスの季節 −456−
  
店二階 群馬県吾妻郡嬬恋村ほか

車坂峠を
南側(長野県小諸市側)から
北側(群馬県嬬恋村側)へ越えました
スキー場は高峰高原の北斜面


私は小五まで郊外の私立へ
小六は千代田区の公立へ越境
中学進学時に神田へ越しました
私立時代の林間学校は軽井沢!
そのこともサイトの何処かに


クリスマスの季節−423−
クリスマスの季節−445−
クリスマスの季節−412−




車坂峠の南側










峠を越えて北側へ

 






 篭ノ登山






 しゃくなげ園から

 浅間山頂は写真右上

 拡大






 北側の林道の裾野






 四阿山

 本白根山 中央上右




浅間山
北東側と南寄りの東側

 拡大 六里ヶ原から

 拡大 右側が上の写真




なぜ描き始めるのでしょう?

小学生の頃、学校から写生に出かけ、真間川の水門を描いたこ
とがあります。構図も色彩も気に入りました。暫く経って、学
校から戻された絵は違っていました。部分部分の比較では、判
別できない違いです。しかし、絵は別人の作です。好きだった
風合いが消えていました。

オヤ?とも思いませんでしたね。その頃からいろいろなことが
持ち上がり、絵に疎遠になったことにも気づきませんでした。
次に描いた記憶は学生時代、店(繊維問屋)の二階で油絵を一
点限り。夕陽に、燃える樹木。←写真の林にソックリ

小二か小三の頃「石をけったらポーンとあがってポトンとおち
た」と書いた記憶があります。学生時代はお化け文が風呂敷包
みに一つ。社会に出た時に処分。

描き始めたとしますと、水門に次いで菜の花畑、切り通し、甍
に黒松の林、江戸川の流れ、肖像、群像、神田の問屋街、駿河
台下の交差点・・・中学の美術を思い出しました。学校の屋上
から、御茶ノ水方面を描いていました。

             ……… クリスマスの季節−27−



図画の授業で、中学の屋上から、駿河台方面の建物を写生した
ことがあります。鉛筆で素描してから水彩で色づけしました。
青い空の下、ビルの最上階が、どこまでもどこまでも続く先に
海が現われ、建物が船に変わり、水平線の彼方に消えていく、
そんな絵を描いていました。

中学からの帰りは、神保町から駿河台下へかけての書店街を、
つめ襟の学生服にズックの鞄をさげ、右へウロウロ左へチョロ
チョロ、三省堂を裏口から表へ串刺しに抜け、我孫子など他県
の越境組とわかれ、新宿−両国間の都電が走る靖国通りをトコ
トコ歩いて、小川町を経由、J町へ戻りました。往路は都電、
復路は歩き。

店の所在は学区外です。また中学進学時に越したこともあって、
店の周囲には、一人も顔見知りはいませんでした。そもそも子
どもの姿がなかったのです。それを寂しいと思うこともなく、
郊外を懐かしむ気持ちも湧かなかった。しかし、緑野を走りま
わる生活を断たれたのですから、体によい筈はありません。子
どもなのに結石を、しかもくり返し発症させたのは、体質だけ
ではなかったと思います。

          ……… 随想 繊維問屋にて (5-2) 二三



小六時代の通学は、自宅から徒歩で本八幡駅に出かけ、総武線
に乗り、御茶ノ水駅で降りました。中学の三年間は、靖国通り
を都電か徒歩で神保町まで。学区がヘンかも。

小川町から神保町へかけては、社会に出てからも頻繁に立ち寄
りました。千代田線と新宿線の開通後はさらに気軽に。しかし
街並みへの感慨は湧きません。高いビルが建つようになってか
らは、日本橋同様、目もクラクラします。

快晴の雪山を裸眼で滑っても雪目を知りませんでした。炎天下
の公園も未だに無帽。皮膚も、骨も、筋肉も循環器も神経も老
化は随処に現われ、無理はできませんが、対お陽さまだけは自
然のままです。最近は近眼鏡も老眼鏡も片付けました。ところ
が、銀座でも靖国通りでも、舗装の照り返しとコンクリート壁
の反射に弱かった。

中学校の図画の時間、屋上で御茶ノ水方面の建物を写生しまし
た。四十五年経った今も、その時の想いは変わりません。

高層化が進んでいます。幼い頃に聞かされた未来都市の空想を、
確実に具体化しているのですね。やがて百階に建て替え、地表
から十階までを耐潮構造に改め、高層階相互を結ぶ交通網を整
備、選ばれたヒトだけが生き残る……。

神田川水系でボートを漕ぎ、芝生で憩う幻想も、涙国の潮位の
前では、一たまりもなかったです。

             ……… クリスマスの季節−110−




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