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クリスマスの季節 −46−
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台風が去った朝は、吸い込まれるような星空です。これからは
朝が楽しみ。
ここのところ、サイトに広告を載せる勉強中ですが、ご商売な
のに「コツコツ」を忘れている広告があります。九月になって
も、お中元の文字や夏の色彩が残っていたり、バナーの、寸法
や色調や雰囲気が限られ、載せたくても当方の空間に合わなか
ったり。
バナーのデザインは、毎日変えてもタダ同然、しかも片手間で
済む筈です。
昔、大昔、いえ太古に、宣伝部門と、知名か品質かで話し合っ
たことがあります。戦略立案側は品質広告を要求、専門側はそ
の非現実性(←詳しいことは忘れました)を指摘、結局、知名
および印象本位を、当時の私は半信半疑でした。
記事広告や昔流の通販広告を棚上げにしますと、私のサイトに
載せる広告は私の入金に繋がりませんから(←厳しい現実)知
名と印象を大切にしたいです。ただ、寡占媒体の広告とは違い、
広告主ではなく「媒体」の知名を、広告主ではなく「媒体」の
印象を、高めたいが本音です。
十月になっても九月の特売広告を載せておきますと、広告主の
有力企業ではなく、広告を載せている零細サイトがお粗末に見
えてしまいます。季節感のない広告も、日々、内容が変わりま
せんと、零細サイトが沈滞しているように思われてしまいます。
バナーのデザインがその逆ですと(日々、先端を行く印象です
と)ありがたいです。
ガッカリすることもあります、規模志向や組織志向に。
個人の身近な商品や、家庭関連のサービスでも、訪問者が少な
いサイトは対象外とか、法人に限る例があるのですね。インタ
ーネットは「ねっと」ではなく「いんたー」に、個性も実益も、
そして欠陥も弊害もあるのでは?
印象や内容の妥当性で判断するなら解りますが、サイトを点検
する前から「零細は除く・個人は駄目」ですと、嗚呼! 我々
の社会では「個」の立つ瀬がない、違う宇宙に行けたらな〜。
共有媒体でも、広告は実売以前に「先ず知名」「先ず印象」で
は? 太古の商品宣伝や古代の企業広告には、大きな金額と長
い時間が必要でした。共有媒体で太古流はどうなんだろう。共
有媒体の創意と手軽さと即応性を、暮らしにも(経政官にも)
反映させる時代かも。
※
絵画展の告知と広告掲載の練習に追われています。
私のパソコン環境は、住まい、実家、職場、海外の出先など主
な立ち寄り先で「同期」を維持、二十四時間、苦もなく対応で
きる筈でしたが、広告は相手の承諾なしには載せられず、諾否
の返事を数週間も待たされる例もあり、落ち着きませんでした。
えっ、あの会社の宣伝も載ってるの! フ〜ンなどと、私のサ
イトには見向きもしなかった若者の(周囲のほとんど総ての老
若男女の)関心が少しだけ動いたようです。
今までは、個人一般が会社の広告を載せるなんて不可能でした。
これって、情報社会の歴史を画する出来事かも?
今までは観客席から眺めていた広告を、一歩当事者寄りに立つ
ことが出来ます。広告抜きでは現代社会は成り立ちませんから、
皆さんも是非、会社のお仕事とは別に個人のサイトでお試し下
さい。表現を考えるよい切り口を得られます。収入に結びつく
ほうが現実的です。その点、私のサイトは力不足。
よりタイヘンなのは絵画展です。未だに出展者の半数もお名前
が判りません。昨日は草土舎のMさんと立ち話。今日は準備の
お手伝い生と雑談。いずれも「大丈夫!」
絵画展は、開催するより来展者を集めるほうが苦労です。誰も
来ない絵画展をご想像下さい。これが本職の個展や興行でした
ら冷や汗だけでは済みません。作品も会も刺激を強める?
お盆やクリスマスやお正月と同じなんですね〜、非営利の個人
が開く展覧会は暮らしにとって。お盆が視野に入れば旅行や帰
省を準備します。毎年でも隔年でも、「お盆」を欠いた暮らし
は寂しいです。
※
十一月は写真を撮るのが躊躇(ためら)われます。はじめは、遡
上(そじょう)する鮭を前にした羆(ひぐま)の気分。手当たり次
第に貪(むさぼ)るのですが、食べても食べても減る気配がなく、
このまま贅沢を続け、神仏の罰(ばち)が当たらないだろうかと
不安になり(←ヒトの心を取り戻した表われ)、撮った写真は
少しだけサイトに載せ、残りはお蔵入りにしてあります。次頁
の写真もその一部。
私は画家でも写真家でもありません。昨年の三月までは、写真
を撮る趣味もなかったのですから、公募展に応募するなど特定
の目的や、社会運動など市民の問題意識や、絵を描くなど構図
を考えて撮った写真は一点もなかったです。つまり昨年三月以
前の写真は、どれも自然体で(日常の生活感覚で)撮ったこと
になります。その視線と、著わしてきた文章に乖離(かいり)が
生まれると困ります。
文章を著わすのも、写真を撮るのも、絵を描くのも、暮らしの
感覚を大切にしたいです。表面は平凡でも、美意識の内部では、
暮らしは決して単調ではないですよ。一方、観客席に留まる限
り、鑑賞する作品は永遠に「つくり物」です。
※
昨日(八日)は、参加予定の学生さん数人が、学内の制作に追
われ参加できなくなったと、お手伝い生を通じて連絡があり、
一瞬ヒヤっとしました。今一つ、情報が伝わって来なかった皆
さんでしたので、事態は織り込み済みでしたが、間に立ったお
手伝い生(←やはり多忙)が慌ててしまい、補充者探しに奔走。
そこで、展の基本を再度伝え、誰に何をお願いするかは、そち
らの一存で決めて下さいと連絡しました。その意思と情報が
携帯画面!
参加される学生さんの電子メールで、パソコンのアドレスは見
た記憶がありません。私のサイトを、何時でも自由に、見るこ
とのできる学生さんや生徒さんは何人いるのでしょう。今まで
は、携帯電話の電子メールが私との連絡方法。携帯での文字打
ちが、髪の毛の本数に影響する私はパソコンから発信。加入し
ている携帯如何で制限字数が異なりますから、3−1、3−2
などと本文を分割、どの社の携帯も、齟齬が起きないように配
慮しています。
文系も理系も、携帯電話の電子メールで、足りてしまう程度の
通信量ですと、情報技術も閑古鳥が鳴きます。学生に一人一台
は予算がない? さあ? 先ずは教える側が個人で表わし、情
報の伝達に飢餓感を覚えませんと、パソコンが「全員必携」に
はなれないのでは?
※
岩絵の具を用いた描き方は、勉強することが多いです。学生時
代に描いた油絵は、見様見真似で画材を集め、ただ塗りたくっ
ただけですが、小瓶の中の乾いた粉末は、塗り方は勿論、買い
方も分かりません。
描かれた作品の、油彩膠彩の別は、意識することもなくなりま
した。それでも膠彩にこだわるのは、描き方の違いに惹かれる
からです。油文化と水文化の違いに、ではなく、舗装面に鉢花
を並べた花壇と地植えの花壇の違いに、です。
風合いの違いは注目しません。一方の絵の具独特の雰囲気を、
他方の絵の具で再現する労が、鑑賞に役立つとは思わないから
です。舗装を剥がして地に植えたり、地面を舗装して鉢を並べ
る描き方も、好みとあればご自由にどうぞ!
コツコツ蓄積するのが合っています。情報技術についても同じ
です。次々と現われる新種の鉢花で、休みなく舗装面を新たに
するより、自ら耕し、堆肥を施し、丹念に手入れする素朴な花
壇にこだわっています。情報技術そのものを「鑑賞」するのが
目的ではなく(目的の場合は、花壇そのものへの関心が薄れる
かも)、耕す情報を手に入れ、育てる歓びを告知するのに、情
報技術を使っています。知識や技術が高度化しても、暮らしの
歓びは、暮らしの「基本」は、二千年前と変わらないのでは?
質素で……素朴……。
華美を欠いても、暮らしは成り立ちます。しかし「基本」さえ
も、職を失えば維持できません。経政の失速を立て直す際は、
裾野のコツコツを切り捨てるのでなく、壇上も痛みをわかつこ
とで、乗り切って欲しいです。
※
十二日になりました。「ナイル河の少年」はもう少しで仕上が
ります。不思議ですね〜。舟が揺れて見えるのです。前に、仕
掛かりの作品を、河を傾けて撮ってしまったと書きましたが、
確かに岸の線は右下がりです。
「スペインで乗った観光バス」は小さい作品ですが、彩色はま
だ三分の一以下。仕掛かりも味わいがあります。以前でしたら、
未完の作を人前に出すなど、私がすすめても認めませんでした
が、今回はどうでしょう? 二点の写真は搬入当日、学生さん
の作品と一緒に撮ります。
☆刀
展覧会って、カッコいいですよね。でも、デモなんですね〜、
当事者にとりましては。
九月下旬の写真撮りの際、ひと月前にはご了解いただいていた
学生さんのほとんどが、直前に「その日は無理!」の携帯メー
ル。昨晩も、追加をお願いしていた学生さん(←「風」のもう
一人で、第二回も今回も無理をお願い)から、やはり携帯メー
ルで、自由作品二点のうち一点が「間に合わない!」
絵を描くのは、簡単でも片手間でもなく、自己を賭した真剣勝
負? 私はそれが好きです。
高年になりますと負担が強まります。その負担、並みではない
です。「ナイル河の少年」は、基本の下塗りを忘れ、金泥を塗
った際、紙がささくれ、何が起こったかを確かめたのでしょう、
ささくれた部分を破いてしまい、週末に私が訪れた時は茫然自
失。一から出直し!
前回の孫娘の肖像は、私が泊まっていた朝の四時、完成を幾度
も確認した上で走りに出たのですが、戻ってみますと、左側の
椅子の、下半分に黒の絵の具で、影を、それも太く塗り、見る
も無惨。すぐに作品を遠くに置き、全体の雰囲気を納得しても
らい、黒を洗い落とし、汚れが残った部分は茶で修復、それが
作品搬入日の朝です。(←前回の展覧会場で、お孫さんが手伝
っているのでしょうと言われたことがありますが、私も私の家
族も、岩絵の具は溶き方も分かりません)
「ナイル河の少年」も今朝(十四日)、同様の出来事が起こり
ました。昨晩、幾度も完成を確認、その最も大切な箇所で、手
際よく仕上げていた部分に手を加え失敗、岩絵の具が各所に飛
び、血の気が引きました。
幾度も・・・と書きましたでしょう。予見できるのです、近年
は現われる「現象」が。
絵画教室に通っていましたが、知識の習得には熱心でも、母は
他人の手が加わるのを嫌います。第一回の五十号は、仕上がる
まで私の家族以外、見ることさえ許さなかったです。お教室で
下描きした第二回の作品も彩色は自宅。「ナイル河の少年」は
私だけが見ており、お教室で下描きした「観光バス」も、お教
室では塗れないと自宅で彩色、絵画教室は先月でやめています。
しかし、齢の陥穽(かんせい)からは逃れられません。
崩壊の、無限循環!
完成した筈の部分または全体に、翌朝さらに手を加え、色彩の
調子を強めてしまいます。一部が強まれば均衡が崩れます。後
は記述するまでもありません。崩壊が始まり、作品はみるみる
汚れます。
考えについても同じ現象が現われています。当初の「こう描く
・こう塗る」が描く過程で変容、写生とは別の持ち味が生まれ
ますが(作品が自己主張を始めますが)朝になりますと「当初
の指令」が復活、眼前ではなく観念と応答、汚れの轍(わだち)
に踏み込みます。
視野が狭まっているのでしょう、平面と時間の視野が。変容す
る作品に適応するのが遅れてしまい、無限循環を招いてしまう、
そう思っています。作品を遠くに置き、全体を解ってもらう働
きかけが大切。ですが
朝は必ず訪れます。一夜の睡眠で記憶は復古。
作品を取り上げる訳に行きません。搬入直前に再度、汚れるこ
とは避けられません。茫然とする本人を力づけ、本人が自らを
励まし、可能な限り修復した上で、持ち込む覚悟が必要です。
それまでしてなぜ?
一つは、目的に向かう充実です。
一つは、怖くて見に行けない筈の自作を、展覧会場で眺めた時
の歓びです。
展覧会が終わった後も、前々回の五十号は静まり返った応接間
を慰め、前回の肖像画は会場から搬出後、翌春まで箱に入った
ままでしたが、偶々(たまたま)箱から取り出した折に涙を流し、
その日から父のベッドの枕辺に常駐、孤独の癒し手になってい
ます。今一つは
九十七年三月、散歩者の夢想MLを立ち上げた際に、参照して
欲しい文献に挙げた解説文が、今も新鮮だからです。
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