折々の文章


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クリスマスの季節 −52−
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ハイ! 問題です。前頁の紅葉の写真を「選別」する際の、皆
さんの基準を記述して下さい。えっ! そんなものナイですっ
て。オヤ、ではどのようにして作品を取捨するのです? 言葉
の代わりに、審査風景を放映するだけでも勉強になります。採
用する理由と落とす理由は、作者だけでなく鑑賞者にも勉強に
なります。共有媒体に拠れば容易に実現……。

同じ日の同じ公園で、ほぼ同じ時間帯に、同じヒトが撮った七
点の写真を選別するのですから、ヨイショしても腐しても語弊
はないでしょう、と思ったのは間違いでした。結果は、前頁の
上から

一番目(葉の散った林)○
二番目(山野草と紅葉)△
三番目(濃い緑と紅葉)× ←人手の跡が鬱陶しい
四番目(盛りの樹一本)× ←演出された満足を連想
五番目(自己耽溺の夢)× ←技術で後手に回った自然の一面
六番目(隙間で精一杯)×
七番目(現実への復帰)×

上は単体の選別基準ですが、やはり単体では、表現の、表層も
繕うことはできませんね。いえ、まだ間違いのお話ではありま
せん。一から七はいずれも大切。

この森林公園へは、前々から紅葉の見頃を計っていました。菊
展の開催も知っていました。心配的中、南口を入ってすぐに菊
展会場。

できるだけ客観的に書きます。公園の南口は、他の入口数ヶ所
より手が入っていると思います。入った直後の景観も、他の入
口より工夫が施され、紅葉も黄葉も特に素敵? 例えば、幼児
や児童は、改札を抜けたと同時に開放されます。その開放面一
杯に、菊展の構築物……。

広いのですよ。広いですから、何処でも紅葉や開放感を楽しめ
るかと言いますとそれは間違い。桜の開花期も、桜樹林に照明
装置が。

美意識が、暮らしを彩る基準が、深いところで違っているのか
も知れません。


 ※


菊展には、今年も何度か出合っています。菊花の写真は、昨年、
川口市のグリーンセンターで撮ったものです。私の場合、この
公園は専ら雨の週末用。年間通しの入場券を……どこに仕舞っ
たかしらん?

噴水の広場手前に、レストランから温室へ通じる舗装路があり
ます。屋根に覆われ、雨天でも菊花が濡れず、広場を削る必要
もなく、噴水側から一望できる恰好の園芸植物展示場。

菊花を撮った日も雨! 出品された方でしょう、お一人だけ鉢
の間に見え隠れ。再び無人に。暗〜く、シトシト。


 ※


多くを観たほうが、観ないで描くより自由では? 観ないまま
過しても、損得には響かないかも知れません。観て回ったため
に、独創の芽を摘まれてしまう危惧もないとは言えません。個
性の形成は、個人的、家庭的、社会的事情にも影響されますか
ら、旅する機会と作品の完成度を関連付けるなど噴飯もの、内
外いずれも好きな画題は好き。

涅槃(ねはん)を表わす彫塑や、悟りを感受する鑑賞者など、美
術の領域は広いです。

最高の栄誉に輝く鉢花や、古今に比類のない傑作絵画の、映え
る映えない環境と状況も、美術の範疇(はんちゅう)に入るので
は?

観ることにこだわらない社会では、深窓の一握りを除きますと、
子を旅に出す機会は極めて稀です。


 ※


絵を日々の暮らしの、特に家族との関わりの、心象を耕す触媒
と位置付けた言葉が、今までも度々触れてきた「踏踊の扉」で
す。もう一つヘンテコ(変梃)な言葉をご紹介しましょう。絵
は「観照の窓鏡」……


 ※


先んじて日々の暮らし化した表現は「音」だと思います。老い
も若きも、順境も逆境も、鏡の破片に、囚われても囚われなく
ても楽しめます。

作品が、表現者を反映する鏡の破片であることはお解かりです
ね。文字も色も、鏡に映った全体像から、鏡の破片を解読する
のは、勉強の程度如何ですが、比較的可能かも知れません。し
かしその逆は、困難で済めば幸運でしょう。

絵の前に立ちますと、窓から向こうを眺めていることがありま
す。絵が「窓」です。向こうに現われているのが状況です。絵
の前に立ちますと、絵の手前を眺めていることもあります。絵
が「割れていない鏡」です。鏡に映るのは、現実です。


 ※


先日、穏やかな日和(ひより)に誘われたのでしょう、写生する
高年者があちらにもこちらにも。近年の私は、写生姿を発見し
ますと、無意識に進路を変え、背後から覗き見する習慣が身に
ついています。そう、図図(ズーズー)しくナッタのです。

判じ物? 当たり! 周囲を素早く見まわして、写生している
範囲と対象を、当てようとするヘンな癖がついてしまった。

壁に掛けられた絵はどうでしょう。風景画も人物画も、写し取
られた対象と周囲についての、原情報を添えられた作品は、所
謂(いわゆる)名画の企画展では見たことがありますが、新作で
はあったのかなあ〜? あってはいけないのかな〜?

西洋の画家が繰り返し描いた山の絵も、東洋の画家が繰り返し
描いた娘の絵も、添えられた原情報を見た結果、感受していた
印象は目減りするどころか、より深く、刻まれたことがあるの
ですよ。


 ※


写真の教科を受講しない学生にも、用向きに関係なく外出時は、
写真機の携行を指導する美術の先生がいるそうです。私は加え
て、できるだけ撮るのが面倒な写真機を勧めたいです。

古い写真機には、捨てがたい味があるかどうかは、はっきり言
って、はっきり言える知識も経験もありません。このサイトが
デジカメの画像を使わないのは、アノ鮮明な画像が一点でも割
り込みますと、今までの写真が見劣りするという、はっきりし
た心配に基づいています。もし世の中の進歩が後ろ向きでした
ら、このサイトはデジカメの画像一本槍になります。その折の
表現者必携の写真機は、できるだけ撮るのが面倒な新しい機種。

構図と輪郭が判れば、出来映えにはこだわりません。表現者が
対象と深く関わる場合、押すだけで写ってしまう写真機は、携
行する意味が劣るだけでなく、裸眼で観る妨げにもなりますか
ら、私が勧める言葉には「新旧いずれも、押すだけで写ってし
まう写真機は仕舞っておいて」を付け足す必要があります。

この秋は、お彼岸を何日も過ぎてから父の墓参りに出かけまし
た。道路が狭いので、帰り道が楽なようにと、お寺には車を乗
り入れず、駅近くの、地上げ跡と思(おぼ)しき有料駐車場を利
用、一方通行の路地を、車を避けながら十数分ほど歩きました。

一帯は行楽番組でも取り上げられ、下町を観光するヒトの姿も
見かけます。中に、身拵(みごしら)えの決まった中肉長身の中
年男性。次から次へと撮り続ける歩速も、カメラの扱いも、シ
ャッターを押す頻度も、目の付け所も素人とは思えなかった。

共有媒体の時代ですが、描く立場と画題の関係を、著わす立場
と問題意識の関係を、描くヒトや著わすヒトは、今でも次から
次へと描き続け、次から次へと渡り歩き、描くその間限りで、
著わすその場限りで、完成させてしまうのですか?


 ※


顔を描くのに、半年も迷っていたのを見かねたのでしょう、練
習用の小さな画板に、写真を見ながら、お手本を描き上げた先
生がいます。

富が絵画教室で習った先生とは、今は画境に専念されている作
家を含め、橡展や旅行の折にお会いする機会があります。先生
のお一人は、富が教室を辞めたにもかかわらず橡三にご来展、
無言のまま暫く作品をご覧になり(←偶然、私も会場に)、記
帳と会釈を残してお帰りになりました。後日、「絵を見せてい
ただきありがとうございます」と縁者にお礼の言葉。先生は以
前、仕上がったばかりの「奥入瀬」をご覧になった時も、富に
「作者の想いが籠められています」

先生とは、第一回の橡展でお会いした折、私も小半時ほど談笑、
橡三では、関心のある作品が決まっているご様子で、作品の前
で暫く動かず、あたかもご自身の想いを、作品と照らし合わせ
ている印象でした。窓の向こうに、見出したのはご両親……?

「顔」を描いた先生とは面識がありません。第一回の橡展では、
受付が帰った後にご来展、お花まで頂戴しました。片付けてお
いた帳面を探し出してご記帳も。他に、先生を描写する素材が
「顔」でした。

画板の「顔」の肖像を、もし先生が完成するのでしたら、私は、
題名を変えて欲しいと頼んだでしょう。

輪郭も色彩も写真そっくり。完璧な筆勢。博物館の日本画と並
べても遜色はありません。

生徒さんと雑談中に描いてしまうのですね。絵に疎(うと)い私
でも、卓越した技量は一目でわかります。ですが窓は、ふさが
れたままでした。


 ※
  

鏡に映った現実のお話。

「随想 繊維問屋にて」の問屋は刺身のツマ、主題は別所にあ
ります。その一つが庭の草花や畑の作物。

幼い頃の私には、森や小川だけでなく、ダリアやトウモロコシ
も掛け替えのない美、本八幡の路地の路傍で、新聞紙にくるま
れ、売られていたデージーは、ほんの一瞬でしたが嬉しかった
ですね〜。行く手を遮(さえぎ)ったアワの穂は(←タカキビの
名前を誤って記憶)、今でも私の美の象徴です。

温室や会館を除きますと、洋ランとの出合いは最近でした。こ
こでの最近とは、二十年前位まで。基幹産業の会社が、多角化
の一環として手がけた洋ラン事業の商品が一鉢、身近に置かれ
ていたのです。胡蝶蘭の高価な鉢。

次に洋ランを意識したのは父の棺。そして第一回目の橡展会場。
橡一では、お礼の金額を見積もるため、老舗の百貨店や花屋さ
んを訪れ、洋ランの売価も調べました。

橡一終了後、処理できなかった洋ランが二、三鉢。日持ちしま
した。暫く咲かせ、橡展の記憶も褪せた頃

針金で、花茎を一本一本、成形してあったのですね。取り除く
のに手間でした。

一鉢に、いくつもの株が詰め込まれ痛々しかった。鉢底に、発
泡樹脂を見出した時は、厭な気分になりました。しかし、本当
に痛かったのはお値段。

寡占媒体で放映された「洋ランの場面」を記憶しています。植
物の番組とは関係ありません。その一つが

居室に、花が溢れている政治家にインタビューする場面。活動
の歴史が長く、市民派の一人と思っていましたが、番組を見て
からは、路傍のデージーの苗と、日本の土壌で扱われる高価な
洋ランとの違いを、美意識の相違を、強烈に意識。

高価な洋ランだけではないですよ。家庭一般の夜の団欒と、政
(まつりごと)の私的空間との、美意識の溝も深刻です。

街路で、似顔絵を商う絵描きさんを見かけます。その様子を覗
くのも好きですね〜。写真から描いたのでしょう、有名な俳優
さんの似顔絵も。

前項で触れた画板の「顔」が、街の似顔絵の雰囲気でした。た
だ、技巧が過ぎたのでしょう、街の似顔絵は見るとハッピーに
なれますが、画板の「顔」は、某博物館内に匹敵するほど陰気。

その某館内の、娘さんの肖像(油彩・小品)には歓びが溢れて
いますが、画板の「顔」には、暮らしの温(ぬく)もりも、対象
に注ぐ愛情も欠けています。

もしご自身の「雛型」で描き直せば、一面識もない対象の写真
からでも、愛情を投影できる筈です。

美意識が奈辺にあるかは、基本に関わる画題として、政治も行
政も無縁ではいられません。

「陽が注ぎ、涼風が通う質素な居室、壁には祖父が描いた家族
の肖像、卓上には庭の千草」が政治や行政の象徴ですと、不況
下でも不遇でも、暮らしのハッピー度が増すのでは?




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