折々の文章


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クリスマスの季節 −54−
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窓ガラスの、品質が技巧、風合いが個性、窓ガラスの材質、色、
形、屈折率に手を加え、向こう側の見え方を変え、あるいは妨
げ、窓ガラスによる編曲効果や、窓ガラスそのものを鑑賞する
作品が抽象画。因みに、画題の私の関心は、風景と人物の対比
ではなく、な〜んにもつかないただの基本(←ナ〜ンニモツカ
ナイタダノが付いている基本)。

「父と子、パリ」の図、好きですね〜(←下絵もまだ)。交差
点で屈(かが)みこんでいる父親と、腰掛けている小一(?)の男
の子と、立ち話している男性数人と、車道を横断している女性
だけ。

それが、両親の約三十回の海外旅行と、父の無数の国内旅行の、
全写真から選び出した僅か三枚の一点でした。ほかにも同様の
画題があるのでしたら、他の二点は提案から外しますから、た
ったの一点と言ってもよいでしょう。水平線の彼方まで見通せ
る、透明度の高い画題です。


 ※

  
広告のリンク集を作るのが楽しくて脱線気味、色彩を組み合わ
せるのが好きなのです。「食品」と名付けた頁は、数点を除き
どれも海外もの、空港土産はすべて国内、それに猫印の雑貨で
すが、商品写真の規格が揃っていますので、三者の色調の違い
がよく判ります。注:空港土産と猫印の広告は12月27日に掲載
休止。翌年に入って「食品」に載せる国産品を増やしました。

ジャルックスの広告のように、商品の写真を組み合わせて「色
揃え」を楽しめる広告主が増えるといいですね。商品写真も各
各複数ありますと、写真の出来が、全体の雰囲気に合わないと
いうそれだけの理由で、掲載を止(や)める商品もなくなります。

「お前さんに広告してもらわなくても痛痒(つうよう)を感じな
い。第一、お前さんの載せた広告なんて、見る者がおらんじゃ
ないか」ですって。違うんだなあ〜。

削られた身を連想してしまい、写真の不出来を理由に、二、三
の商品だけ省いてしまうのが厭なのです。色揃えゲームにはハ
ッピーが相応(ふさわ)しい。

色合いは静寂や借景同様、日々の暮らしにとても大切、ではあ
りませんか皆さんの場合は? 暮らしに溢れている色合いは、
食品・土産・猫印で組み合わせたどれに属するのでしょう。鏡
の前の現実は辛(つら)いです。暮らしにとって、美術とは何な
んでしょう。身の丈から遊離した絵物語り、なんてこと、ない
ですよね。


 ※


昨日は(十二月一日は)雨模様でしたので、自然公園はやめ、
平日は渋滞しますが、休日の朝は車で三十分の、上野の博物館
に出かけました。電車で通勤する自宅からではなく、週末に寝
泊りする出先からです。

西洋美術館の企画展と、上野の森美術館の企画展は、どちらも
懐に冷風を感じてしまい、金銭的にマシと思われる科学博物館
の、「光を楽しむ」展を選んだのです。

燃料費と、車の維持償却費と駐車料金のほかに、企画展の入場
料は美術館側一人千三百円、科博側八百三十円。美術館側の少
し安い前売り券は、健康も暮らしも、明日が判らない世代には
買うのが酷です。

絶対的金銭感覚とは別に、近年は相対的価値判断が念頭を去ら
ず、西欧の傑作絵画よりも、一九二十年当時(?)のビーズの衣
裳や、万華鏡の造形美のほうが楽しいと判断。

衣裳の企画展は、現代美術館や博物館で時折観ますが、初めて
でしたね〜、衣裳を纏(まと)っている骨組みが生きている錯覚
に囚われたのは。

万華鏡の会場や造形の会場では、警備服姿の監視員が、作品に
親しむ要領を教えてくれましたが、絵の展示場から衣裳の展示
場へかけては、中学生にも監視員にも出合いませんでした。

現代美術の企画展は、無人状態も珍しくありませんので、コト
リとも音のしない場内が、幻視の原因(モト)とは思われません。

会場に現われた幻影は、禁酒法やチャールストンの時代でしょ
う、当時の現実を生きた亡霊と、今現在、虚構を生きている亡
霊です。

アニメから得られる感興よりも、映画から、演劇から、競技か
ら、文章から、絵画から得られる感動よりも、実生活から得ら
れる歓びの方が美しいです。

禁酒法時代のビーズの衣裳は、当時の現実に、深く根を下ろし
ていたのではありますまいか。油彩も膠彩も伝統文化の技術面
は、今も現実を生きています。ところが画題は、伝統の今様性
を逸脱、現在から乖離(かいり)、昔日(せきじつ)に腰を据えて
いるのでは?

無理もないです。探し出さないと、あるいは点に絞らないと、
風景美さえ見出せないのが今様ですから。

現代の「光」の衣裳にも、同じ状態が窺(うかが)われます。現
代作の展示衣裳には、ほとんど誰もが斬新性を認め、ほとんど
誰もが芸術性を見出すでしょう。ですがほとんど誰もが、着る
機会を見出せないのではありますまいか。現実の身の丈からま
すます遊離する世の中を、虚構の屋上屋を築く社会を、見たよ
うな見ないような。


 ※


我曰く「ところでお前さんのサイトは、一年中クリスマスの季
節なんでは? ならば何故この季節だけ、広告を綺羅で飾るの
かなあ〜。

『現実は打ち萎(しお)れの毎日だよ。せめて一瞬、夢を見たい
のさ。街も画面も華やげば、濃い影に没して、足許を見ないで
済むもの……。』

でもそれって、無欲に過ぎると思うよ。勝利の拳一本槍は、牽
引力に限界が見えたのでは? 静かで落ち着いた暮らしと、親
として恥ずかしくない働き方を望む方が、今ではずっと野心的
で、今では遥かに欲張りなんだから。

今年も贈り物をするのだろう? ならばもっと贅沢を望みなさ
いよ。クリスマスが一年中続くようにと、広告の雰囲気を変え
てみるのさ。」

昨晩(三日の晩)、師走規格で埋まっていた色調はすべて外し、
一年中クリスマスの季節規格で、枯れ葉化した脳細胞でも感受
できそうな広告を、載せる方向に改めました。。。


 ※


窓と鏡のお話、途切れ途切れになりましたね。序(ついで)に閑
話をもう一つ。

アノ当時の我が家には部屋住みが何人も。つまり、混沌と混乱
と混線と混迷が雑居、ソコに、三十年も別だった母が寝泊まり
したのですから、回復するまでの僅か半年でしたが、大変だっ
たのですよ。炊事も、洗濯も、風呂も、食事も、寝床も、深夜
の家族の帰宅も、二人の廃墟には、我が家と共通する何があっ
ただろうか。

一方、父の検査入院から母が回復するまでの数年で、伴侶の介
護と自身の療養を経験しながら、夫婦で過してきた三十年を清
算し新たな生活を築くのは、八十歳には、楽ではなかったと思
います。過去形でよいのかな? 今も、平日の夕暮れは胸が締
めつけられると話しています。

私は長子ではなく、何ごとも脇でしたが、父の検査入院以降は、
瀬に爪立ち、辛うじて海面から出ている顔に、土用波が幾重に
も押し寄せ、飲み込んだ海水の浮力でフーワリフワリの日々。
無論、前々からの家族生活と職業生活にも、軽減措置はありま
せんでした。

金銭や住まいの悩みだけでなく、関係者の善意や意向や立場も
ありますから、母と我々夫婦だけで、母のこれからを描くのは
とても無理、今も変わらずフーワリフワリ。

週末、母を連れ、寝泊まりしている場所から、我が家へ出向く
ことがあるのですよ。その折、母は嬉しそうに「この家に戻る
と、懐かしさがこみ上げてきます。この家は、私の実家なんで
すね。」


 ※
  

鏡に映った自分の姿に、ボーッとなるほど自己耽溺を誘う作品
も存在します。自分の脇に、憧れの俳優が立っている鏡の像に、
魅せられる作品が私の場合、所謂(いわゆる)傑作でした。絵画
を触媒として楽しむ以前に(一人で観ていた若い頃に)私が惹
かれた絵画は、大体がこの種の作品です。断定できる根拠があ
ります。

出来映えを観て「凄いな!」と唸った作品は対象として評価、
劇映画にハマリ込むように、音楽に痺れるように、私は「絵そ
のもの」にハマリ込んでいました。絵画作品の、秀逸の審査や
傑作の評価も、同様の基準に立つのでは?

次頁に風景写真を並べてみます。前々から私の写真並べは、サ
イトに広告を載せているうちに、色合わせにハマッタのと同じ
状態。

画題は細かく説明しません。それがはじめての作品を観る一般
的な態度でしょう。実際に写真を載せるのは後日。結論を先に。

中身についての、実に多くの情報を捨ててしまい、思った通り
写真合わせにハマっていました(←と載せる前から断定するの
は強引ですね)。

父が撮った写真から、多少とも水が写り、日付の印字を免れた
風景を抜き出し、直感で並べただけです。さて、質問です。

並んでいる六点の写真を観るのに、予め(観る前から)画題を
学習する必要はありますか? 或いは、先ずは「観照」し、次
いで好奇心や疑問を発しても鑑賞は果たされますか?

満足するか失望するかではありません。鑑賞という営みが、完
了できるか否かという質問です。

当たり前ですね。普通、劇映画も絵画作品も、鑑賞するのに下
準備は必要ないです。推理作品は、より厳しく「観照」する態
度を求められます。美術作品も、世評と照らし合わせるような
鑑賞態度はどうなんでしょう。

ところで六点の写真の一枚が、例えばボート上の一人が自分の
伴侶でしたら、印象は変わらないでしょうか? 他の一点が故
郷でしたら? さらに別の一点に(六点以外の架空の一点に)
知らない児童とその父親が写っていた場合、鑑賞者個々の印象
はどう変わるでしょう? 父親と児童の後ろ姿に、在りし日が
浮かぶ場合とそうでない場合では、作品の評価が割れても不思
議はないです。前者の場合は、仮に最初の六点が傑作の頂点に
位置しましても、素朴な一点に拘るかも。

鏡ではなく、窓に出合える瞬間です。絵画は、文章も映画も表
現は、対象として与えられる傑作の外に、暮らしの軌道上でも、
無意識に求めている作品があるのですよ。

七点目の「父と子」は、パリであれ東京であれ、作品に出合っ
た瞬間自由になれます。雨が去り、雲が切れ、みるみる青空が
広がるように。


 ※


画題の属性? 厄介ですねその質問。答えは否。文字であれ色
であれ、表現者の描き方次第で(基調の違いと技術の巧拙で)、
一つの主題が鏡になったり窓になったり。「拙」必ずしも「不
出来」とは限りません。

同じ主題でも、情念のほとばしり出る雰囲気に鑑賞者が囚われ
てしまう(感動する)作品と、淡々とした語り口に、鑑賞者が
自身で自らの歩みを見出す作品があります。一人の表現者の同
じ画題の作品からも、同様の違いを(変化の傾向を)読み取れ
る場合があります。

神秘性や神々しさを基調にした母子像は、実在する嬰児と女性
を写した極めて現実的な肖像であっても、敬虔な感動を(精神
の救済と解放を)触発され、鏡から脱け出せない例が、在ると
いうより一般的なのかも知れません。


 ※


雪の影響でしょう、一昨日(九日)は電車が遅れました。

休み明けの通勤経路は普段と異なります。都心に近いので、多
少の遅れは出勤に影響しません。九日も、七時半には事務所に
着きました。火曜以降は、もっと早く出るのですが、電車は混
み、遅れは響きます。

今朝(水曜)もテレビ画面に事故の文字列。

凍った鍵穴を温め、最徐行で出発、窓の氷が解け、前方の視野
が広がってから、団地を後にして、最寄り駅の駐車場へ。

駐車場から五分ほど歩きますと、ホームを見渡せる場所に着き
ます。ホッ! いつもと変わらない! は早計でした。ホーム
が見る見る満杯に。延着の放送を聞く前に、交差して走る電車
に路線変更。ガーラガラ。

待ち時間なしで到着した電車は、幸い、途中で直角に進路を変
え(←物理の法則に反した表現)東京駅へ向かいました。富士
山が見えるほどの晴れようで、海浜の眺め、素晴らしかったで
す……は嘘。見ていないのですから。

この路線の東京駅は、歩く距離が長いです。延着を待つ間に○
分を浪費、迂回したために×分を無駄遣い、遅くなりますので、
直角に折れる前に乗り換えました。

乗り換えた路線の始発電車は、立ち見には間(ま)が悪いほど空
(す)いていました。そこで、始発より後からホームに入り、始
発に先発する電車に乗車、のんびり車窓を……。

ところで、鏡を見ながら歩いていませんか?

総武線は半世紀ほど前の一年間、本八幡から御茶ノ水まで通っ
たことがあるのですよ。朝は混み、ランドセルと一緒に潰され
ました。江戸川の鏡状の水面は今も変わらず。クロマツは風前
の灯火(ともしび)。

立ち見した理由がお分かりでしょう。確かめたかったのです、
一枚の「絵」を。




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